血で描いた肖像画 【喃喃読書日記・3】

 血族 山口瞳 文春文庫 1982

 そもそもなんでこの本を手に取ったのだったか。
 古書店の店先の均一台に、背表紙を天に向けて——つまり垂直にきっちり詰められて並んだ文庫本のなかにあったこの一冊をふとひき抜き、他にめぼしいものがないか、ワゴンを数分眺めたあとで買った、そのことだけは憶えている。
 積ん読の山の中で幾度も順位を変えながらもなかなか読まれることもなく、山そのものが部屋のあっちからこっちへ移動して歩く。ある晩なにかの拍子に選ばれ、やっとくすんだページがめくられた。
 昭和の匂い漂う8ポぐらいのこまかい文字を追っていくうちに、次第にページをめくる手が早くなっていった。べたっとした告解や感傷的な回想や苦労話を予想していたのは勘違いだった、とわかるのにそう時間はかからなかった。
 文字通り「身を乗り出す」ようにして読み進めるのだけど、ふと右手で持った方=読み終えたページの厚みを見ると、思ったほどは増えていない。読み味濃厚。持ち重りという言葉があるなら、読み重りという言葉もあっていいんじゃないか。そんな提案をしたくなる本だ。

「血族」は私小説である。山口瞳その人の、おもに母方の血縁を追求したドキュメンタリーともいえるし、「母恋い」の記ともいえる。
 出だしは印象的で、ドラマチックである。田中角栄論を書く矢先、戦災で失われた家族のアルバムに、父母の結婚写真がないことに作者は思い当たる。
 この家、つまり山口瞳の両親の「はじまり」は靄のようなものに包まれて判然としない。母は生前、己の生家について、ほとんど何も教えてはくれなかった。それは何故なのか。自分が本当に生まれたのはいつなのか。

 作者は家を飛び出し、所縁の場所を訪ね、過去を知る人物を探し、話を聞いてまわることを始めた。自身の膝に爪で刻みをつけていくように、乏しい資料にこつこつとあたり、人に会い、土地を探す。推理小説も顔負けの行動力で、たったひとり、母方の一族の痕跡を探していく。
 本文はおおよその部分が作者の「語り」で成され、会話文は回想の場面にいくらか登場するのと、証言者への聞き取りの体裁を取った後半部のみである。にもかかわらず、夥しい数の人物描写が、そのひとりひとりの印象が、眼前にあざやかに浮かび上がる。縁者たちの言い回し、その性情、佇まい、家内の賑々しさが、語りの文章から異様な迫力で迫ってくる。他人の記憶の中に顔を突っ込んだかのように、さまざまな景色が見えてくる。

 作品は全体で51の章からなる。おのおのの章を要約しようとメモをとってみた。

1 失われた父母のアルバム
2 「瞳」の命名者
3 生まれは一月十九日 生年月日は十一月三日
4 「いつか教えてやるよ」
5 鎌倉のおじおば 母の同胞
6 競馬評論家・蔵田正明による母の印象
7 アルバムに並んだふたりのこどもの写真
8 幼少期の自分 家の浮き沈み
9 母の性に対する考え
10 夢の話~遊郭の夢
11 「面白い女でした」
12 兄弟の履歴・学歴
13 少女期の母
14 私の欠落感
15 母の性格・度胸・特徴
16 放埒な父母の生活が嫌だった・客商売への卑屈さ・安気な生活へのあこがれ
17 母方の祖父母
18 母の従弟・勇太郎
19 母の弟・保次郎
20 丑太郎一家
21 母の性格 その2
22 小久保ハル・文司夫妻
23 「私」のせせこましさ
24 母と兄の喧嘩~出生譚
25 父方の祖母との確執 兄と私
26 鎌倉の叔母・君子 父方の縁者たち
27 母方の家業~墓石の碑名
28 「母のことを書かねばならぬ」
29 遠縁の男性~“柏木田”
30 横須賀探索
31 「横須賀警察署史」による柏木田遊郭の外郭
32 柏木田遊郭跡訪問~S青年との出会い
33 母の性格 その3
34 大滝町の火事
35 羽仏家のひとびと
36 「横須賀市震災誌・附復興誌」による柏木田遊郭の外郭
37 柏木田行脚 母の同級生・I夫人
38 豊島小学校に残る母の成績簿
39 母と同胞たちの改名
40 「横須賀新報」による柏木田遊郭の記事
41 「横須賀風物百選」「横須賀市の地名変遷資料」「横須賀繁昌記」「三浦繁昌記」による大滝町の外郭
42 新聞記事にみる藤松楼
43 性惰と血の関連 母と東京
44 父方縁者・蔦枝による母の印象
45 柏木田の老婦人~小久保と「中田楼」
46 戸越時代
47 柏木田の植木屋~朝日楼
48 母の遺言
49 父方の縁者たち
50 久間冬野訪問~「頭の格好が佐賀の頭」
51 私の生年月日

 固有名詞は縁者の氏名である。同じような要約となってしまった章が存在し、「母の性格」は数回に別れて挿入されていることがわかる。
 事実、反復される事柄や意見があり、文章が何度も同じところに戻る、廻っている、そんな印象もある。ひとりの回想が始まると、話はそのまま解りよくは進まない。シナプスが分裂するかのごとく、どんどん別のことがら、つらなる人物へと拡散してしまう。理路整然と、すいすい前進する文章ではない。読みやすく整理・構成されているとは言い難い。
 遠縁の者が「父を斬り、母を斬り…」と呟く。「母さんが生きていたら、兄さんは作家になれなかった」と弟が言う。知ってどうする、と作者自身も内省する。墓掘りのように、といってもいいのだろう。生涯語られなかった一族の暗部を暴き、自らの筆で文にする。逡巡がそのまま文体になっている。

 母方の歴史をひもといていくうちに、母の性格、行動の因果が明らかになっていく。母が何を背負っていたのかが判明する。遠縁と告げられていた人々の正体が明らかになる。何故事実が隠されていたのか、それも明らかになる。その上で、やっと作者はこう書くのである。

 私は、母のことをどんな女であるか一言で言えと言われるならば、私の解答は、次のことにつきるのである。
 私は、この母を母としたい。そうして、うんと長生きをしてもらいたかった。

「この母」とは、この文章の前段にある、方言を愛した母のことを指す。自分のなかにある指針を持ち、それを貫いた母。豆を囓るほど、珈琲が好きな母。いわば、「素」の顔の母である。

 作者はなぜこの作品を書こうと思ったのだろうか。幼いころから抱いていた不審を解き明かし、真実を突き止めたいという衝動もあったのだろう。それと同時に、このたった2行を書きたいために、自らの臓腑をえぐるような係累の真実を、つぶさに書ききることができたのではないか。

 …しかし、やはりこの本のタイトルは「血族」だ。「母」ではない。これは母恋いにとどまらぬ、作者の「血」に寄せる鬱屈の記で、途方も無く「私小説」なのだ。
 すべてを血のせいにする気はない。しかしのがれられない「血」のありようを、自分の中に、あるいは年少の縁者たちのなかに見つけた時、慄然とする思いがこみ上げてくる。
「安気な生活」という言い回しが何度も登場する。作者は「安気な生活」に憧れていた。これを作家の含羞、あるいは脚色と捉えることができるのだろうか。自分にはそうは思えない。終盤において、郷里と呼べる平穏な場所に「ようやく辿り着いた」と涙する作者に、「芝居っ気たっぷり」とは、私には思えない。
 作者はせいいっぱいある「平凡さ」を希求していた。その姿が、滑稽なものに見えようとも。
 一方、母親を「面白い女でした」と表現するのは、まぎれない作家としての作者の感覚である。
 自らの血で一族の肖像を描くようなことができる人を、人は作家と呼ぶのかもしれない。

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