中原中也の「寒い夜の自我像」

月に一度は行く町田の古書店の店頭の百円棚に、古ぼけた『抒情の論理』があった。 ちょうど吉本隆明が亡くなったばかりなので、目に飛び込んで来た。 古いものを久しぶりに引っ張り出して読む気になっている。

それで、手はじめに中村稔の『中原中也論』をめくってみた。学生の時代以来、中也の全集は読んでいない。 青春がはるか彼方のものになってしまったせいか、今は中也を論ずることの気恥ずかしさは、雲散霧消している。 長いこと中也のことを書いたりすることを自分に禁じて来たのだ。

「寒い夜の自我像」

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず

歌の会が果てたその帰り、土曜の深夜、小田急の新宿発終電の二本ぐらい前の準急列車を、 トイレのために玉川学園前で降りて、三月末なのに今年はまだ寒いホームに立ちながら、 幾度も中村の著書に引かれている詩を復唱した。気がついたことは、七・五や、七・七の音数律が 使われているのにもかかわらず、詩は、決して調べがなめらかというわけではなく、 むしろ訥々としたと言っていいような引っ掛かりを持ちながら、内側の屈折を伝えているということだ。 詩の言葉をつぶやきながら、それを書きつけている詩人の震える指先を、すぐそこに感じる。

唱えているうちに思ったことは、 二行め、三行めの「この」、四行めの「この」が頭韻を踏んでいるらしいことだった。そうしてみれば、 「の」は六行めまで詩の前半に一本張り通したまとめの綱のような役割をはたしているではないか。

人々の焦燥のみの愁しみや
憧れに引廻される女等の鼻歌を
わが瑣細なる罰と感じ、
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

中村稔は、この詩の完成度の高さを称え、初期詩編との質的な違いを、わかりやすく説いてみせている。 けれども、今度久しぶりに読んでみて、「われ」や「わが」という語句の多さに、 却って共感を損なう文体の古さのようなものを感じたことも、また正直なところである。 「わが瑣細なる罰と感じ」なんて、少し滑稽だし、「そが、わが皮膚を刺すにまかす。」という言い方には、 天才詩人という自覚を持った中也の倨傲な思い上がりを感じて、こういう口調に一時でも 同化して読むことのできた(だろう)過去の自分の青臭さが、今となっては、片腹痛いところがある。 いや、意味なんてわかっていなかったのだ。

蹌踉めくままに静もりを保ち、
聊かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諌める
寒月の下を往きながら。

「蹌踉めくままに静もりを保ち、」という詩行。たぶん詩人は、その伝説を体現するかのように、 酔っ払って夜道を歩いていたのだろう。でも、心は静かに澄み切っている。問題は、このあとだ。 末尾の二行に持って来るまでの、一篇の呼吸の美事さは、どうだろう。「聊かは」、「われはわが」、 「寒月の」と三行続けて詩業の頭は五音句である。同じ音数でリズムをつけている。遊歩のリズムと言ってもいい。 そのあとに一行あけて、

陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!

と結んでゆく。「陽気で、」は、四語音である。最後の二行は、四語音句が、調べの主調を奏でている。 「ようきで/、〇〇…/たんたん・として〇、しかもおのれを〇、うらない・ことをと、」 (〇は菅谷理論の無音の拍)。静かで、七・五の調べに流されない緩徐調である。ここまで読んで来たときに、 言い難い感銘に、私は胸が震えた。

末尾の二行では、生きることのモラルのようなものの自覚に、詩人の胸はふくれあがり、昂然として、 しかもただ思い上がるというわけでもなく、現実の苦さを甘受し、何とかやっていこうと思っている。 きわめて特殊な、詩人であるという自覚の中に生きながらも、生活者に等しい苦衷を引き受けようとする心構えは、 熾烈である。こけの一念、と言ってもいい。冒頭の詩行へと、思いは戻ってゆくのである。

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱をはなさず

このような祈りの心を持って、人が生きようとすることを、文学が支えていた時代があった。 文学は、一種の宗教のようなものであっただろうか。そのような文化の中で生きた昭和の日本人の代表的な一人が、 また世を去った。

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