水曜日のパン

毎日に手のひらでふれ確かめる こねてまるめて育てて暮らす

挿絵 竹本万亀

 蓋を開けるとふわりと酵母のにおいがした。やわらかにもっちりとふくらんだ中種の様子はいかにも美味しいパンになりそうだ。
 アキは、中種が入った木桶に半ば顔をつっこむようにして息を吸う。
 あぁ良い香りだ。
 うっとりと眼を閉じて顔をあげる。チュンチュンと楽しげに鳴く鳥の声がする。
 あぁなんて素晴らしい日なのだろう。
 高く薄青い空を見上げる。頬をなでる風は、冬が近づいていることを知らしめるように冷たい。それでも、そのひんやりとした風を心地よいと感じる。
 風にきな臭いにおいが混じった。かまどから、黒い煙が上っている。かまどの前でゴホゴホと夫のシュウが咳き込み、腕で顔をおおっている。
「父さん、大丈夫」
 シュウは振り返って、コクコクと頷いた。しかし、煙の中では口がきけなかったのか、かまどから離れ、アキのところまで歩いてくる。
「この間の雨で、薪が湿気ていたみたいだな。火はついたから、すぐ落ち着くだろうけど。パン種はどんな塩梅だい」
「よく発酵しているわ」
 木桶の蓋を開けて、一晩寝かせた中種の様子を確認すると、シュウは満足げに頷いた。
 袋の中に腕を入れ、小麦粉をぎゅっと手のひらでつかむ。しっとりとした質感に、アキは「いい小麦だね」と思わず口にした。
「今年は豊作だったし、麦の味もいい。いい年だな」
「本当にね」
 シュウはあぁと頷いて、煙のおさまったかまどの方に戻っていく。足取りまでなにやら満足げだ。
 シュウが火掻き棒を手にしたところまで見届けて、おもむろにこね桶にどっさりの小麦粉を入れる。 桶の中央に出来た白い山の上に塩をふりかけ、手を入れて真ん中をくぼませる。しっとりとした粉の手触り。粉の 水分はいくらか高めかもしれない。柄杓で汲み置きの水をすくい、作った粉のくぼみに注ぎ入れる。そうしながら、 左手で粉と水をひとつにしていく。ざらざらざらざらと水と粉をこすりあわせるようにして。まんべんなく粉に水が 行き渡ったところで、水を入れる手を止める。いつもより、いくぶん水の入る量は少なかった。柄杓に残った水を もどして、今度は両手でこねる。ボロボロとした粉と水のかたまりを押しつけるようにこねていくと、やがてひとつの まとまった生地になる。その頃には、アキはうっすら汗ばんでいる。
 毎週一回、水曜日にはパンを焼く。雨や風の日は納屋の中で生地をこね、晴れた日はこうして外で生地をこねる。 嫁いできてからずっと、それは変わらない。ここでこうしてパン生地をこねるのは、いったい何度目のことになるのだろう。一年に 五十二回、十年で五百二十回。ここに嫁いできて二十年になるのだから、もう千回、ここでこうしてパンを焼いていることに なる。それにしても今日のパンは、とびきり美味しく焼けて欲しい。今日は、息子のサクが一夏ぶりに帰ってくるのだから。
 アキはぎゅっとパン生地をこねる手に力をいれた。するともっちりとした弾力が手のひらに返ってくる。
 きっと美味しく焼けるわ。
左手で木桶の蓋をあけ、中種をパン生地が入ったこね桶に入れる。中種とパン生地をこね合わせる。中種が生地に 入っていくと、生地は途端にやわらかくなる。ぎゅっぎゅと両腕に体重をかけて生地をこねる。中種と生地がすっかり ひとつにまとまったところで、両手で生地を持ち上げてこね桶にたたきつける。生地を勢いよく叩きつけ、すかさず 半分に折ってこね、また叩きつける。トントンと生地を叩きつける一定のリズム。生地はますます空気を抱いて弾力を持つ。
 腕で額の汗をぬぐう。こね具合をみるのに、指で生地をつまむと薄くのびた。いい塩梅だ。生地を丸めてこね桶に戻し、 蓋をして休ませる。小一時間もすれば、倍以上にふくらんでいる筈だ。
「さて」
 アキは汲み置きの水で手を洗う。水はひんやりしていて、仕事をしていた手に気持ちがいい。
 なんて気持ちのいい日だろう。
 アキはやっぱり思い、濡れた手をエプロンで拭いて、パン生地の入った桶を抱え、かまどの方へ歩いていく。かまどの周りは あたたかいから、パン生地をそばに置けば良い具合に発酵が進むのだ。
「やぁ、いい具合に暖まったぞ」
 家の中にシュウが呼びかけると、ソウとムツが自分たちの顔よりもおおきなパイ皿を抱えて出てくる。
 かわいい私の子供達。十歳にもならないのに、もう林檎のパイを焼けるのだ。なんてすばらしいのだろう。
「上手に出来たわね」
 きれいな網目模様のパイを褒めると、二人ははじけるように笑った。
 シュウがパイを受け取って、慎重にかまどに入れる。暗くて熱いかまどの中にパイが入れられるのを、みんなで息をつめて見守る。
 どうしてだか息をつめてしまう。かまどにパイやパン生地を入れる時は、いつだってそうなるのだ。
 かまどの扉をガシャンと閉めて、「さて一休み」とシュウが言う。その声を合図に、ソウとムツは不揃いのコップを四つ、林檎ジュースをなみなみと注いで持ってくる。
 草の上に座って、林檎ジュースを飲みながら、四人で待つ。パイが焼けるのを。パン生地が発酵するのを。サクが帰ってくるのを。
 待つことの幸福さに、アキの顔は自然とほころぶ。
 ほどなく、かまどから甘い匂いが流れてくる。林檎とバターと砂糖が焼ける甘い匂い。
「そろそろかな」
 シュウが立ち上がってかまどを開け、背丈ほどもある木べらをかまどに入れ、こんがりと焼けた林檎パイを取り出した。
「上手に焼けたね」
 ソウとムツがしゃがみ込んでうっとりと木箱の上に置かれたパイを眺めている。
「熱いから、まだ触っちゃ駄目だぞ」
 シュウの声に二人は頷いて、けれど視線はパイからはなさない。おいしそうな匂いと湯気がパイからたち上っている。
「さて、こっちもそろそろだよ。手伝って」
 こね桶の蓋を開けると、パン生地はまん丸くふくらんでいる。発酵の匂いがふわりと立ちこめる。
 パン生地を台にのせ、分割していく。分割した生地をソウとムツがすかさず丸める。もっちりと弾力のある生地が、 ソウとムツの小さな手のひらの上で、つるりと丸められる。分割するときに伝わってくる生地の弾力、上出来だ。
 ソウとムツの手のひらにおさまる小さなパンと、アキの両手にもおさまらない大きなパンの二つの大きさに生地を分割して
丸める。大きなパンはサクが作って持って帰ってくるはずの一抱えもあるチーズをのせて食べる用だ。とろりと溶かしたチーズが はみ出さないように大きくつくる。
 生地を休ませて成形をすれば、あとは発酵させて焼き上がるのを待つばかりだ。成形したパン生地は台に並べて、布をかぶせて置いて おく。ゆっくりともう一度、パン生地はふっくらふくらむ。
「さて、サクの寝床を作らなきゃ。ソウ、ムツ、手伝ってね」
 ソウとムツを引き連れて、家に入りかけた時、山の方から小さいけれど騒々しい音がした。振り返ると彼方に小さく動く物が見える。
「兄ちゃんだ」
 ムツが叫んで、ソウとムツはだっと駆け出す。おーい、おーい、と山に向かって手を振っている。
 耳を澄ます。たくさんの牛の鳴き声、カウベルの鳴る音、牛の足音、そして、牛を追うサクの声。あんまり遠くて、聞き分けることは 不可能だけれど、そんな音がいっしょくたになって、ここまで聞こえる。
 眼を凝らす。たくさんの牛、荷車にのせたどっさりのチーズ、それを追う人夫の中にサクの姿がきっとある。やっぱりまだ遠くて、 判別がつけられないそれらにアキは眼を凝らす。
「帰ってきたな」
 隣でシュウの声がした。いつのまにかアキの隣でシュウも、山から下りてくるサク達を見ている。
「帰ってきたわね」
 アキは言って、はじけるように笑った。
 あぁ、なんて嬉しいんだろう。
 薄青い空は高く、木立は葉の色を変えはじめた。風も冷たさを増している。もうすぐ厳しい冬が来る。
 その冷たい風の中をサクが帰ってくる。
 毎日牛に草を食べさせ、乳を搾ってチーズを作り、一夏を過ごしたサク。日にも焼けただろうし、背丈も伸びたことだろう。どんなにか逞しくなったことだろう。
「あら、いやだ。お風呂の用意をしてないわ」
 アキの慌てた声に、シュウが「あ、そうだな」と大きな声で返した。
「ソウ、水を汲んできて。ムツは薪の準備をして。サクのお風呂の用意をしなきゃ」
「はーい」
 元気よく返事をして、ソウとムツは振り返った。ソウもムツも笑っている。サクが帰ってくるのが嬉しいのだ。
 山を下りてくる音が近づいてくる。サクがもうすぐ帰ってくる。
 山の方に手を振って、アキ達はサクを迎える準備に再びとりかかった。

                                      【文:榎田純子/挿絵:竹本万亀】

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