階段ものがたり (あるいはヴィスヴォヴァスの運命)- 井辻朱美


 見あげると、春の町は、いたるところに階段がある。深緑色の鉄の手すりが握りしめる螺旋階段、 キュービックを積み上げた邸宅の一角にまぎれこんで終わる階段、給水塔へのぼる決意の固い鉄の梯子段。
 階段とは、ある階面(フェーズ)と別の階面を結ぶためのものだ。しかし、フラクタルなあのかたちを人類は気に入ったのだろう。 やがて屋内にもちこんで、階段箪笥として、上に花瓶を飾り、踏みしめる段ごとに抽斗をしつらえて薬種を入れ、 あるいは内側をそっくり納戸にし(ハリー・ポッター氏はそこに住んでいた)、とちゅうに、なぜだか〈踊り場〉と呼ばれている平面を挿入したりした。

 ヴィヴォヴァスは、よく階段の一番下に横になっている。だれかに踏んづけられるかもしれないのを、陰気な目でちろりちろりと見上げながら、待っている。
 砂漠(デューン)のきつねだ。ただし耳が小さすぎて、尾がながく、あまりそれらしくは見えない。なまけものなので、アドリア海に流れてきてからは、 ドアストッパーとして暮らしをたてていた。
 春先、わたしは極小の国サンマリノに行って、石畳の道をあるきまわっていた。坂の上の白い古物商のたてものが、アイシングのかかった獅子像のように見えて、 心をひかれた。ウィンドウには、年期のはいりすぎた御輿の金色を思わせるイコンが並んでいる。半端に開いたドア先で逡巡するうち、 床に黒いぺらりとした影が寝ているのに気づいた。
「よう」と、ヴィヴォヴァスが声をかけてきた。
「入るのか、入らないのか」
「おや、きみは……」
「風の通り道になるのが好きなんだよ」
 予想される質問を十ほどもワープして、きつねは言った。ふさふさとした三色の毛皮、ごく小さな耳、長くのばした後ろ足としっぽ。
「何を買いにきた?」
「入ってみないとわからないな」
 言ってから、入るにはきつねをまたぐしかないことに気づいた。きつねはちろりと上目づかいに見上げてきた。
「ご無礼」と言って、わたしはまたいで中に入った。長年、勘定吟味役をしていると、ついそんな言葉が出てしまう。古い懐中時計や錆びたかね尺、 硝子のお椀をかぶせた時計、ブライヤーのパイプなぞを見せてもらったが、どうもいまひとつで、埃っぽい具足一式に見送られて外に出ようとした。 もう正午も近く、バジリカの鐘が甘く鳴りわたって……
 盛大にヴィヴォヴァスに蹴躓いた。
「百年間で、蹴躓かれたのは初めてだ」
 情けなさそうに言って、きつねは向きをかえた。そうすると、扉にくっついていたほうの毛がぺたんと寝ているのがわかった。
「とうとう、おれも目に見えるようになってしまったのか」
「いや、そんなことはないと思う」
 わたしでなければ、ヴィヴォヴァスは扉の影にしか見えなかったはずだ。影ならだれも蹴躓くまい。そう言うと、きつねは首を起こし、ニッポン人に興味を示したようだった。
「わたしの国には影のなす仕事がある。塀や築地の破れや縁の下や、あるいは天井裏に忍びこんで、天下をゆるがす風の行方を探るのだ。みずから影になって気配を消し、 水面をわたり、千里を走る」
 ほう、ときつねは言った。
「それはおもしろい。影なのに動きまわるのか」
 先祖にお庭番がいたことは事実だ。
 ヴィヴォヴァスは起き上がってのびをし、そうするとどこにあるともわからない椎骨がぽきぽきと百年ぶりの音を立てた。
「ここは光が強い。生む影が濃すぎる。ときどきそれにまぎれるほど深く眠りこめなくなる」
 きつねは影に擬態して、わたしのコートの裾についてきた。そして、光も影も桜の花の散るなかでまじりあう国で、ドアストッパーの仕事を探しはじめた。
 しかしながら葦簀とすだれの伝統にはばまれ、また引き戸が多いこともあって、かれが十分に風を吸って眠りこめるような家は見つからなかった。
 ヴィヴォヴァスは不眠症になりながら、寝る場所を探してまわった。勘定吟味役は毎日、スーツで出仕しなければならない。気にかけながらも、面倒をみきれずにいるうち、 若葉の季節になった。ようやく夜もあたたかくなり、ほろ酔いかげんで帰ってくると、ヴィヴォヴァスの影が月下の町工場のあたりをうろついていた。
 見ていると、きつねは、建物ののっぺらぼうの壁にきざまれた階段に近づき、一番下に端然と、スイマーのように体をのばした。そうすると、 階段が一段増えたようにしか見えなかった。
 わたしが口笛を吹くと、首の影があがった。
「どうしてた?」
「おお」きつねの声は、とても太く朗々としていた。「この町には、たくさんの死に階段がある。そこに寝ていれば、風が下りてきて踏んでいってくれるのだ」
 それは重畳だ。
 わたしは「石のきつね族をまつってある台座(ペデスタル)が、あちこちにあるから、その下はどうだ」と、さしで口をきいてみた。だが、砂漠ぎつねは首を ふって、「あいつらは耳が大きすぎる」と答えた。彼にとっては、風の通り道をさまたげないことがなによりたいせつなのだ。

 ヴィヴォヴァスはあちこちの階段の一番下で、のばした体を風に寝かせているようになった。増築が進む迷宮のようなこの町で、かれを探すことは、 まことに楽しい。まともに目を向けても、決して見えてこないが、なにも知らないふりで、目の隅を意識しながら歩くと、何かが風を梳いている音と気配が、 その一角を教えてくれる。「ひそむ」本能への、わたしのDNAの共鳴がなせるわざなのか、しっぽが一瞬、恍、と光るのだ。

 寺町の春のこだまのフラクタル千歳ふぶくきつねのトルソー

ページの上部に戻る