いとしのろくでなし 【喃喃読書日記・2】

 黒髪・別れたる妻に送る手紙 近松秋江 講談社刊 1997

 近松秋江集(日本文学全集14)集英社 1974

 文芸文庫の巻末にある「著者に代わって読者へ」の中で秋江の娘である徳田道子氏は父の名に「特にルビを必要とする」と書かれているが、実際手に取って読み始めるまで、「近松秋江」を「ちかまつ・あきえ」と読んでいたし、女性作家とばかり思っていた。
 あまつさえ、その名字から、作家を近松門左衛門の縁者だろうと決めてかかっていた。この件についても、坪内逍遙に許しを得て名乗ったペンネーム(近松門左衛門からひいたことは事実のようだ)であることが披瀝されている。
 そんな変わった名前を持つ作家の作品が、これほどまで嫉妬に狂う男の小説だとは。秋江は泣く子も黙る「嫉妬小説」をきりひらいた私小説作家だった。

 講談社文芸文庫「黒髪・別れたる妻に送る手紙」には書かれた順でいうと「別れたる妻に送る手紙」→「疑惑」→「黒髪」の三編が収録されている。
「別れたる妻に送る手紙」*は題名の通り、手紙文の体裁をとって、行方をくらませた妻への恨み辛みが縷縷綿綿と綴られた作品である。しかしその内容は、途中で妻を懐かしんだり、一緒に耐えてきたじゃないか、とまだまだ消えぬ未練をのぞかせたり、そうかと思えば妻去りし後、入れあげて結局袖にされた遊女とのやりとりを子細に述べてみたり、と煮え切らぬ男の脳内そのままにとっちらかってしまっている。
 志たかき文士たる雪岡は手元不如意な生活が続き、そのためにお雪との間は常にぎくしゃくとしていた。出ていく、出ていかない、いや行かせない、といった争いは絶えず繰り返されていた。「別れたる妻に送る手紙」は、そんな妻がとうとう行方をくらまし、戻らなくなって約半年後の話である。
 主人公「雪岡」と妻「お雪」の関係は、対等な男女というより、ヒステリックなお雪にさまざまなかたちで寄りかかる雪岡、という構図を持っている。なんでもかんでも打ち明けて聞いてもらう、親に報告を欠かさぬ子供のような一面が雪岡にあった。

 拝啓
 お前——別れて了ったから、もう私がお前と呼び掛ける権利は無い。それのみならず、風の音信に聞けば、お前はもう疾に嫁いているらしくもある。もしそうだとすれば、お前はもう取返しの付かぬ人の妻だ。その人にこんな手紙を上げるのは、道理から言っても私が間違っている。けれど、私は、まだお前と呼ばずにはいられない。どうぞ此の手紙だけではお前と呼ばしてくれ。

『別れたる妻に送る手紙』

 雪岡とお雪は入籍をしていない、今でいえば同棲カップルということになる。お雪には雪岡以前に結婚の前歴があり、雪岡はその「済んだ結婚」に対しても激しい嫉妬の炎を燃やし、子細を訪ねてお雪に語らせたりしている。自ら嫉妬の炎を燃え上がらせ、燃料が足りなくなったら以前の結婚を火だねとしてくべているようなものだ。
「別れたる妻に送る手紙」では、まだその炎は未練と嫉妬の配合でできていた。ところが「疑惑」に於いて、煉獄の炎は嫉妬100%の紅蓮となって蘇る。

 それは悩ましい春の頃であった。私がお前を殺している光景が種々に想像せられた。昼間はあんまり明る過ぎたり、物の音がしたりして感情を集中することが出来ないから、大抵蒲団を引被って頭の中でお前を殺す処や私が牢に入った時のことを描いては書き直し、描いては書き直ししていた。

『疑惑』冒頭

 妻の出奔は不甲斐ない自分への見切りではなく、実際は下宿していた学生との駆け落ちだった。その疑いの証拠を掴もうと日光を訪れ、宿泊台帳から二人の軌跡を見つけだす——というのが「疑惑」の大筋である。
 この時点でお雪(「疑惑」では「おスマ」になっている)が雪岡のもとを去ってから二年の歳月が流れている。雪岡の行動は、彼女を取り戻し再縁を望む、というような展望ではなく、元妻への執着と、当時の自分が欺されたことに対する怒りによるものである。
 この強大な嫉妬パワーで雪岡はふたりの居所・岡山へ突撃する決意を固めるが、仲立ちする人物が現れ、突撃よりさきにもう一悶着起きる経緯が、日本文学全集に収録された「疑惑続篇」に描かれている。
 元妻と学生のふたりは駆け落ちの事実を認めず、話はまとまることなく、もつれっぱなしで終焉を迎える。もはやお雪は雪岡を蛇蝎のように嫌っている。ここまできてまだお雪に何がしか、やさしさみたいなものを求めてしまう雪岡は、いったいどういう人なのか。
「黒髪」のなかに、そのエッセンスがあらわれている一文がある。

(前略)自分の心持ちには、ひとりでに眼に涙のにじむような悲しい憤りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業の女にあくまでも愛着している、その感情が十分満足されないというばかりでなく、どうしてこちらのこの熱愛する心持ちが向うに通わぬであろう。こちらの熱烈な愛着の感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝わって、もっと、はきはきしそうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であった。

『黒髪』

 雪岡はどんなに女からすげなくされていても、彼女たちには「霊感」があるはずだ、と信じている節がある。いまいま通じ合えなくても(実際、会話や言い合いが雪岡の「うむ!」一言で終結する場面が多出する。ほとんど言い負かされているのである)、わかってくれている——そういう底なしの「お人好し」さが、見苦しいはずの嫉妬小説を、辟易させながらも読ませてしまう原動力になっている。

 日本文学全集に収録された「雪の日」という短編は、上記のようにこじれる以前のお雪と雪岡の物語である。差し向かいで炬燵に入りながら、妻の「まえ」を聞いている雪岡。二人の関係性はすでに頂点を極め、事後のひとたちのようになってしまっているのが、可笑しくも悲しい。

「私、あの時分のように、もう一遍あなたの泣くのが見たい」
「俺はよく泣いたねえ。一度お前を横抱きにして、お前の顔の上にハラハラ涙を落して泣いたことがあったねえ、別れなければならない、と思ったから……」
「ええ」
 こう言って、二人はいくらかその時分のことの追憶の興に促されたように、じっと互に顔を見合わした。
「俺はもう、あんなに泣けないよ」

『雪の日』

 鰻を食べよう、とこの後雪岡は立ち上がる。こんな男性像が、明治末期から大正にかけて書かれた物語の中に、活き活きと息づいていることに驚く。
 そして、近松秋江という人の、愛情か何か、とにかく気持ちをぶつける対象を求めるそのしつっこさ、強靱さに圧倒される。それは少しも愚かなことではないはずだ。

 

* 日本文学全集での表記は「別れた妻に送る手紙」。

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