小説『睡蓮』第五回

       はじまりの朝食

 翌朝ひどく遅く、トデチのくちずさむ調子はずれのラデツキー行進曲で睡蓮は目覚めた。
「おはよう」 
 睡蓮が言った。
「オハヨウゴザイマス」
 春の空へ向けて歌っていたトデチが歌をやめ、睡蓮の行く末を案じるようにやや神妙な顔で答えた。

 睡蓮はその朝、真新しいスイス製のアーミーナイフでオレンジを切り、携帯コンロで湯を沸かした。
 都会の汚れた空気の中ではあったが、春空の下、真裸な気持ちで料理をするのは睡蓮にとって新鮮な行為であった。
 公園には中央の噴水を囲み、六つの小さな家があった。
 正確には五張りのテントと、トデチの崩れかけた段ボールハウスである。
 皆、朝の早いうちにどこかへ出掛けたのかしんと静まり返っている。
 それぞれのテント脇に置かれた生活用具を見渡しながら睡蓮は、北京からの引揚者であった祖母の顔をふと思い出した。
 戦後、彼女は七人の子供を一人も失う事無く内地へ連れ戻って来た。
 祖母によれば十才に満たない子供はたいてい栄養失調になり、引揚げの途中で死に、死者たちは個別にでは無くまとめて道の端で焼かれたと言う。
 けれど彼女の子供達は、さほど健康も損ねずに日本に戻って来た。
 佐世保港に船が着いた時、低い山々に点々と生っていたオレンジ色の果物が何と神々しく見えたことかと懐かし気に話す、ふっくらとした横顔は生気にあふれていた。
 もう何年も祖母の顔など思い出すこともなかったのにと、睡蓮は思う。
 当時の苦労がどんなものであったのか睡蓮には知り様も無いが、もともと裕福な家でのんびりと育ったはずの祖母のあの生命のたくましさは自分の内にも眠っているだろうかと思いながら、無言でオレンジを剥く。

 トデチが睡蓮の脇にぴたりと身を寄せて座り、彼女の使う真新しいナイフを黙って見ていた。
 それは漠然と焦点の定まらない目であり、けれど穏やかな目でもあった。
 しかし昨日の底の抜けた明るいまなざしとはかけ離れた、やや凡庸な目でもあった。
 睡蓮は何かに厚く覆われたようなトデチの顔と手を、ふと濡れタオルでぬぐいたくなった。
 彼は顔を拭かれながら赤ん坊のように顔をしかめ、やがてさっぱりすると笑みをたたえたて睡蓮を見た。
 それからまたすぐに焦点の合わない目で睡蓮の手元に見入った。
 消えない鏡のくもりを拭うように彼女はトデチの顔をもう一度拭おうとした。
 するとトデチはふわりと立ち上がり、噴水の方へ逃げて行ってしまった。
 彼女は仕方なく自分の手を拭った。

「ノノノ、野うさぎの心臓!」
 トデチがはるか向こうで突然、痙攣するように叫んだ。
 睡蓮は呆気にとられ、それは今から焼こうとしている肉の事かと思いトデチを見ると、彼はむこうから睡蓮の反応を伺っているようでもあった。
 ああ、この青年の発作にまともな応答をしても無駄なのだと思い直すと、彼女は携帯コンロの上に肉をひろげながらすこし考え、応えた。
「野兎の、壊れたお家!」
 トデチが嬉しそうに駆け寄り、睡蓮を見つめながら続けた。
「ノーミソに太陽!」 
 睡蓮がまた少し考えながら、静かに質問した。
「あなたのお家は何処なの?」 
 トデチが跳ねて叫んだ。
「太陽の家は水の中。水の中で太陽は燃え上がる!」
 湯がコンロの上で沸点に達していた。
「沸騰する太陽、沸騰する水の中のビーム!」
 トデチが叫びながらいっそう高く飛び跳ね、そしてさらに向こうへ行ってしまった。
 睡蓮は彼を見送りながら軽く溜め息をついた。 

      誕生前夜

 そのようにして過ごすうち、睡蓮は公園の住人たちが自分から話しかけて来たり、ましてや自ら名乗る事はないということに気付いた。
 こちらが名前を尋ねると、マツモトやサイトウ、ヤマダなど、よくある無難な姓を静かに名乗る。
 そしてみな揃って携帯電話を持っており、それを常に離さない。
 携帯は彼らが日雇い仕事を受けるための唯一の連絡手段なのだ。
 仕事にあぶれている者は重めのハンディを背負っている。
 極度の近視、発作性の持病、コミュニケーションの取り難さ。
 噴水の脇のベンチでいつも昼寝をしている丸メガネの斉藤は、コンビニの店主に頼み込み、早朝、店の前の掃除をする事とひきかえに、賞味期限切れ直前の食料を幾つも貰ってくる。
 トデチは彼の持って来る弁当を毎日心待ちにしているようであった。
「はい、僕みたいな人は、一応やる気がありますからね。一時的にはここにいても、すぐにいなくなりますよ。なんとかなっていくんです」
 斉藤は自分の事をそんなふうに他人事のように言う。
「まぁ、ひどいのもいますよ。福祉の窓口に行けば乾パンと着るものくらいいつでも貰えるのは誰でも知っているかと言うとそうでもないんだ。なんにも知らないでただ一日中歩いてる奴も多い。そういう奴はぎりぎりの状態になっても何とかして下さいって言わないんだ。僕なんか、もらえるものは何でももらうし、何でも頼み込んじゃうけどね。頼み込んだって仕事ないんですから。ただ歩いてたってなんにも落ちてない。靴と腹が減るだけだ」
「そう。ただ歩いていると、靴とお腹が減るのね」
 睡蓮は鸚鵡返しにそう言いながら、ただ歩くだけの彼らはきっと、何処までも歩いて行ってこの世から出て行ってしまいたいのだろう、そうやって歩きつづけているうちに、自分でも知らない間に自分自身の中から出て行ってしまうのだろうと思った。
 それは何かに負けて出て行くということではないのだろう。
 なぜなら彼らにとって微かにでも意味のある世界の方へと、ひたすらに歩きつづけているだけなのだから。
 辿り着くべき場所など、はなから無いにしても。
 それは睡蓮自身の心境でもあった。
 
 そのとき、珍しくつかつかと睡蓮の傍へ寄って来て、
「あんた、これ、買わはらへん?」
 と言ったのは、瓶底眼鏡と言い表わすのがふさわしい分厚いレンズの眼鏡をかけた男で、差し出したのは、緑色の硝子玉のブレスレットである。
「昔の彼女の形見なんやけど、よかったら、あんたにしてほしいな」
「昔の恋人の形見? そんな大事なものを売ってしまうの?」
「ええの、あんたなら、ええの」
 睡蓮は迷って黙った。
「三百円でええよ」
「こら、マツモト」
 斉藤が叱るように言った。
「睡蓮さん、そんなの買うと癖になるから駄目だ。どっかのゴミ箱で拾ったんだ。買うとまた、なんだかんだ売りつけに来るよ」
「そう?」
 睡蓮が男の顔を覗き込むと見ると、ブレスレットはあっさりとポケットにしまわれた。
「清水さんに買うてもらお」
 マツモトと呼ばれた男はひとかけらの未練も残さずくるりと踵を返した。

       再会

 数日後の夕方、ボランティアの一行が睡蓮の新しいテントに気づいた。
「新しい方ですね」と、睡蓮に話し掛けたのは、皆にユーさんと呼ばれているフランスからの留学生ボランティアであった。
「はい、ここでは新しいの」
 金髪の青年に向け、睡蓮はにこりと笑った。
「睡蓮は新しくて奇麗です」
 横からトデチが几帳面な口調で言い、応えてユウさんが笑った。
「お世辞もちゃんと言えるのねぇ」
 彼女がトデチを誉めたその時、ユーさんの肩ごしに別の大きな手が伸び、炊き出しの場所の印刷されているチラシが差し出された。
 それを受け取った睡蓮が、手の先にある顔を何気なく見上げた瞬間、相手の目が大きく見開いた。
 睡蓮は、何処かで見た覚えのある、その目に、しばらく見入った。
 目を見開いた青年が低い声で早口に囁いた。
「あ。杏の木の家の方じゃないですか?」 
 それは、あの日、家を測りに来た解体屋であった。
 睡蓮は絶句して青年の顔を見た。
「どうしたんですか?」
 青年が声をひそめながら睡蓮のテントの入り口にしゃがみこんだ。
 暫くの沈黙の後、睡蓮がようやく言った。
「はい。なんだかここが気に入っちゃって、ちょっとだけお邪魔しているの。それだけよ」
 睡蓮はなるべくさらりと言いながらもバツが悪く、うつむいた。
 何と説明すれば良いのか? 
 トデチが見せてくれたあの〈花〉が美しかったからとでも?
「ちょっとって、どのくらいですか?」
「今日で五日目よ」
「これからずっとここにいらっしゃるおつもりですか?」
「それは、わからない」
「寒い時期には凍死する仲間もいるんです」
「そうですか」
 睡蓮の目が急に突き放すように青年を見た。
 その目を見て、青年の目も僅かに色を変えた。
「そうですか。あなたは感心なのね、お仕事をしながらボランティアもしているの? あの家はいつ壊すの?」
 睡蓮が強い口調でたずねた。
「来月のはずです。荷物はそのままですか?」
 解体屋が真っ直ぐな眼差しで言い、睡蓮はそのあまりに正しい善意に溢れた顔を見ながら不意に目眩に襲われた。 
「そう。あのね、どうでもいいの。もうみんな古いのよ」
 彼女が訴える様にそう言うと、青年はしばらく黙って俯き、やがて納得したように睡蓮を見た。
「僕としては困っちゃうんですけど、それなら……」
「あなたが困る事じゃ無いの。私が困ればそれで充分なのよ」
 睡蓮の強い口調に解体屋はたじろぎ、頭を下げた。
「いや、ごめんなさい。ただ、僕が勝手に吃驚したんです。ごめんなさい」
 ごめんなさいを繰り返す若者を、睡蓮はみつめた。
 自分がどうしようもなく厭な人間になってしまったような気がしてやりきれなくなった。
「あのね、そう、私ね、何だかここで良いものをみつけたのよ。でもまだそのことを人にうまく説明できないの。ただ、暫くここにいると思います。吃驚させてごめんなさい」 
 頷きながら若者が苦しそうに微笑した。
 それを見て睡蓮が黙った。
「じゃ、もう御存知かもしれないですが、ここでの生活のことをすこしだけ言わせて下さい」
「だいたいの事は彼に教えてもらったわ」
 睡蓮が隣のダンボールハウスを見ると、話しにすっかり興味を無くしたトデチは何処かへ消えてしまっていた。
 斉藤の姿もいつのまにか無い。
「ごめんなさい、これ僕の役目なんです。どうぞ聞いて下さい」
 解体屋は早口に続けた。
「シャワーは区役所の福祉課に行けば使わせてくれます。夕方の五時までです。防寒具や下着や乾パンなんかも福祉課の窓口で言えばもらえますから、困ったときは遠慮や我慢はしないで堂々ともらって下さい。それから毎週土曜の夜、このチラシに書いてある場所で、僕達がやっている炊き出しがあります。メニューは、カレーとかうどんとか簡単なものですけど来て下さい。僕も毎週行っていますから。それから、隔週の水曜日に、僕達の仲間の医師が一緒に回っていますから、具合が悪いときもちゃんと言って下さいよ。簡単な風邪薬くらいなら出せますし、病院にもかかれるように手配しますから。ええっと、あとは……」
 睡蓮は上の空で青年の清潔な顔を見ていた。
 ああここはまだ世間の端っこなのだと思い知りながら。
 何故ここにいるのか自分でも本当のところがわからない。
 ただわかるのは、十分とは言えないが貯えはまだあるのでカフェにも以前と同じように自由に入れるということ。コインランドリーも使えるし、公園の近くには銭湯もあり、ゆっくりとくつろぎたい時はホテルにでも行くつもりでいたし、レストランで食事もできるということ。
 ただ、夜、眠る場所が公園のテントだというだけだ。
 それだけのことなのにと、思う。
 この生活が永遠に続くわけでは無いことくらいは彼女にもわかっている。
 いずれ、ここを出て自分の居るべき場所へ戻るつもりではいるのだ。
 そう、いずれ、居るべき場所へ戻るのだと、睡蓮は思う。

「あ、そうだ」
 解体屋が睡蓮を遠くから呼び戻すように言った。
「今、そこのテントに妊婦さんがいるんですが、出産が間近なんです」
「清水さん」
「そうです、ご存知ですか」
「まだお話しした事は無いの。病院には行かないの? 入れないの?」
 睡蓮がすんなり話しを続けてくれた事に解体屋は安堵した。
「はい。入れない事もないんですが。何て言ったらいいのか、ここで生活している事がわかっちゃうと、生まれた後にお母さんと赤ちゃんが強引に引き離されてしまう事があるのです。それで彼女はここで産みたいそうです。僕達はただ彼女の希望が叶うよう、お手伝いをするだけです。でも、ここには女性の手がなくて……。仲間の医者が予定日あたりにこの公園を巡回することになっているんですけど、もしも陣痛が早めに来てしまったりしたら僕達でなんとかしなくちゃならないのです。それですみませんが、そのときはお手伝いしていただけますか?」
 睡蓮は戸惑いながら頷いた。
「なんだか贅沢な希望なのね。いいわ、私でよければ」
「別の公園に助産婦の経験のあるお婆ちゃんがいたんだけど、少し前にふらっと何処かへ消えちゃって……。ほんとうにすみませんが、緊急のときはよろしくお願いします。じゃあ身体に気をつけていてくださいね。また来ますから」
 立ち去ろうとする解体屋に、睡蓮は、ふと思い立って言った。
「あなた、私のこと、警察なんかに言わないわね?」
 解体屋が振り向き、仕方無さそうに笑った。
「そんなことしたって、誰のためにもなりませんから」
 トデチがいつのまにか噴水の淵に腰掛け、水を手でかきまぜながら歌を歌っていた。
「ねぇ、私は産んだことなんてないのよ」
 睡蓮のつぶやきは彼の無茶苦茶な歌にかき消された。

(つづく)

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