小説『睡蓮』第九回

     暗い希み

 
 数日後、ボランティアの女性たちが陰うつな面持ちで配りに来たビラの片面に、新聞記事が大きくコピーしてあった。 
 その記事は「通りすがりのサラリーマンの犯行か?」と、疑問符で締めくくられていた。
 ユーさんの姿は、事件以来ぱったり見かけなくなった。
 公園の住人は皆、暗澹たる想いで押し黙っていたが、誰もが内心ヤマダの目を突いたのは菊地だと思いたがっていた。
 けれど誰もそのことを口にしなかった。
 
   一体なななんなんだ、こりゃ!
   一体なななんなんだ、こりゃ!

 トデチは相変わらず大量のシャンプーをTシャツの上にぶちまけながら洗濯をした。
 噴水は相変わらず高く吹き上がり、立ち上がった水はやわらかく風になびき、トデチの独り言は相変わらずその場限りの詩のようであり、その詩はまるで痙攣かしゃっくりのようであった。

 睡蓮はベンチでトデチのひとり言を聞きながらその姿を長い長い間、眺めた。
 色弱の検査に使われる色とりどりの斑点の中から、ひとつの意味のあるカタチを見い出そうとするように。
 トデチが全身泡まみれになり「たばこ屋」と自分で書いたTシャツを噴水の水面にパンと打ち付けると、はずみで泡が四方へ飛んだ。
「ユーさんが来ないから怒ってるの?」
 睡蓮がトデチの世界に介入した。
 トデチがしばらく黙り、きょとんとした目つきで睡蓮をみつめた。
「知らない」 
 そう言ってふたたび洗濯を続ける泡まみれの全裸のトデチの性器が、泡にまみれたままふらふらとゆらぐのを、睡蓮は無表情に見ていた。 
 その揺れは、どこか剽軽な禅の公案のようにも見えた。
 気怠くベンチに仰向けに寝転がり、青空の眩しさに自然に目を閉じると、やがて睡蓮は浅い眠りに落ち、夢を見た。
 夢の中で睡蓮が笑って言った。
「トデチ、それを大きくしてごらんなさい」
 夢の中のトデ・チはしなだれていた性器を指差し、これか? というしぐさをしてみせた。
「そう、それを大きくしてごらん」
 周囲にいたホームレスたちが睡蓮の言葉を聞きつけ、げらげらと笑った。
 トデチが真面目な顔で了解し、「デデデ、デッカイおっぱい」そう言った途端、彼の性器はみるみる張りつめた。
 周囲の皆がそれを指差し、いっそう大笑いをしはじめ、やがて、よく晴れた青空のもと、大きく笑いながらトデチが射精した。
 そのミルク色の液は美しい放物線を描いて飛び、その光景へむけて皆から、惜しみない拍手と笑いが贈られた。

 やがて睡蓮は、浅く明るい夢の中で、白いミルク色の砂浜に降りて行った。
 それはいつか、父が殺した猫を埋めに行った砂浜であった。
 あたりには一面、うすい小雨が降っている。
 小雨は古い映画のフィルムについた傷のようでもあり、事実それは睡蓮を少しも濡らさないのだが、素足に触れる砂は雨を吸ってひんやりと冷たい。
 睡蓮の目の前に何処からか一匹の子犬がまろび込んで来ると、そのまま雨の中を駈け抜けて行った。
 子犬の足跡があの皮膚病の子猫の墓の上を越え、濡れた砂浜に延々と延びてゆくのを見送りながら、足跡というものはどんな生き物にもあるものだ、どんな生き物にも身体があるようにと思い、睡蓮はふわりと幸福な気持ちになった。
 その、ミルク色の砂浜を歩きはじめた睡蓮はいつしか少女の身体となり、彼女の浅い足跡を踏み外さぬよう、うしろからトデチがついて来ていた。
 トデチの歩行は壊れた玩具の人形の歩みのようでもあり、ダンスのようでもある。
 それは睡蓮の歩行のリズムを彼が真似ているせいであった。
 潮騒の音がやがて人の笑い声に変わり、睡蓮がふとあたりを見回すと、いつのまにか現れた見知らぬたくさんの人間が睡蓮と全裸のトデチを指差し、可笑しそうに笑っていた。
 それはどこか清々しい笑いで、トデチも笑われる事が嬉しいという風に全身で笑っている。
 笑っている人間達の中で睡蓮の全身だけが酷く傷んでおり、身体のあちこちから透明なリンパ液が滲み出ているのだが、それは誰にも見えないらしい。
 睡蓮の足跡をトデチが辿りたがるので、睡蓮は体全体からリンパ液をしたたらせながら前へ前へと、奇妙なリズムで進まなければならない。
 トデチは全身を操り人形のように動かし、完璧に睡蓮の真似をしながらついてくる。
 ふたりの奇妙なダンスのような行進に、周囲から大きな笑いと拍手が湧く。
 やがて睡蓮の後ろで踊り続けるトデチの頭頂から巨大な虹が噴水のようにたちのぼり、その虹は壊れた天国の噴水のように長々と吹き上がった。
 
 奇妙な夢から覚めた睡蓮は、目を開き、青空の眩しさに手で光を遮った。
 あたりにはまだ懐かしい潮の匂いが満ち満ちていた。
 その一瞬、猫を殺した父の、残酷というよりも力の漲った目をありありと思い出した。
 睡蓮は青空の深い場所に焦点を合わせた。
 ああそうだ。あれ、と、あれ、は、似ている。
 そうつぶやいた瞬間、閃くようにひとつの欲望が睡蓮の中に宿った。
 不可解な閃きであった。
 それはこれまでほとんど何の希望も抱いて来なかったこの世界に対し、うっかり思いがけず抱いてしまった、一縷の希みのような欲望であった。
 自分の抱いた希みの暗さに睡蓮は驚いた。
 彼女は自分の中に不意に宿った暗い小鳥の体温を感じながら、青空をただ見上げていた。

 (つづく)

ページの上部に戻る