詩に、賦活される  

 久しぶりに、詩に賦活される、という気がしたので、それを書くことにする。先日、安井浩司の全句集を手に入れたので、うれしくてならない。ひとつひとつの作品はそれなりに難解なところがあるのだけれども、まったく太刀打ちできないというほどのものでもない。むしろ親しみやすく、本は一ページ六句組みの大きな活字で、展覧会場にでかけているような、安んじた快い緊張感がある。読んだ瞬間に、頭のなかに発火する詩の火花について、何か書いてみようと思った。目に入ったところから片っ端に書いていくことにする。うまくいくかどうかはわからないが、読者の方には遠慮なくご批正をたまわりたい。

    野あけびの大小の滑車笑つたり
 整った美しい句である。山中で風に揺れ動くあけびの実は、蔓に引かれて右へ左へ微動する「滑車」のようである。そら豆のかたちをした、人間の臓器のような、あけび。一寸五分ほどの大きさで薄紫色の、不思議な寂しい固形物である。
 作者には「神が口つけたあけびの皮ばかり」『乾坤』という句もある。

    花陰に四裂の舟と思わんや   『汝と我』
 この句の「四裂の舟」は、四本の手足を持った人間(おのれ)のことであろう。花の下をずっと見上げながら歩いていると、その陶酔感のうちに、自分が舟のように思われてくるようだという。それも四烈の、四方に裂けている存在であるという…。裂けていれば、当然船には穴があいている。満開の花を見上げながら、わたくしは、ぶくぶくと花の林の底に沈んでゆくのであろう。      

    小学校裏にすこしわたを出す春   『密母集』
 いったい何事があったのかと、ぎくりとする。でも、思い返して冷静に読むなら、「腸を出す」ものは、「春」自体のことであろう。春の「腸」というのは、すこしだけ草や木の芽がほころんでいる様子をさしているのだろう。「わた」は俳諧の宛字の装いを持ちながら、「春」そのものの表出とされることによって、字面が生臭い感じを帯びることになっている。小学校の裏で「腸」を出しているのが、その学校の子供だったらどうしよう。思春期前期の子供たちのすることは、「腸を出す」ような、危うく赤裸々な性格のものである。ここには、思い切った暗喩の、決して浅くはない切れ味がある。「わた」のように見える植物の芽で、小学校の裏に生えているような草木というのは、何だろう。ネコヤナギよりも早い時期のような気がする句だが。調をみると、
    小学校/裏に すこし、腸/を出す春
    しょ・う・がっ・こ・う/う・ら・に・△・す・こ・し・○・わ・た/を・だ・す・は・る

 作者自身の類句としては、「少し脱糞して遊ぶや峽の春」『牛尾心抄』があった。脱糞というのは、やはり物の芽の芽吹こうとする勢いを言ったものであろう。
 学校の句では、ほかに「倒れゆかん中学裏のつめくさに」『乾坤』というのを見つけたが、これは作者にしては平淡な句。それから、「麦秋となるはらわたも階段も」『霊果』という作品もある。季節名と「わた」や「はらわた」は、この作者にとっては相性がいい。麦秋の句の「はらわた」は、作者自身の実存、肉体の重さを伴った精神のことだろう。「階段」は、階段というモノが麦秋の季節のなかにあるのではなくて、階段を上がっていこうとする作者の気持ちのことととらえたい。しかし、階段をのぼりおりする「はらわた」(肉体)とは何だろう。いつの間に麦秋になってしまった。そういう季節の時間にさらされながら、柔らかな「はらわた」も、硬質の「階段」も、ともに金色の日の輝きを受けている。考えてみれば、階段をのぼる時の人間は、みんな背中を見せているというイメージがある。時間に背中を見せながら、階段をのぼって行くのは、おのれの意志ではないか。麦秋だから若々しい。この「はらわた」は、疲れてはいない。
    麦秋と/なる。はらわたも/階段も
 ※初句、二句、句またがり

    栗の花劫初の犬に帰らなん   『乾坤』
 栗の花の匂いを猛々しいと感ずることは、あるだろう。その香りの漂うなかで、「劫初の犬」、つまり飼い馴らされる以前の犬に帰ろうとする荒々しい衝動がこみあげて来た。「帰らなん」としているのは、誰だ。そこの、眼前の犬か、それとも犬を引く人か。人が、劫初の犬のような存在として吠えるとしたら、どんな表情になるのか。少し朔太郎の詩が頭のなかをかすめるが、私はそちらに引き付けて読みたくない。もっとも「孔雀の首もつ料理人に雲ふれり」『氾人』というような作が、この後にあったりはするのだが。俳人は、劫初の犬の奇想を本当に支えきれるのか。私に言わせれば、劫初の犬なんて碌でもないものにちがいないのだ。かと言って、文明化され馴化させられた犬の方がいいというわけのものでもない。この「犬」は、むろん暗喩である。栗の花からずいぶんと遠くに行こうとするものだ。そこに、驚くべきか。

    諸々の詩人を経て虻帰りけり   『汝と我』
 この「虻」というのは、天上から遣わされた虻であろう。詩人の間を巡歴する「虻」は、遠い東西の神話の反響のなかで、批評の嘴を詩人のからだに刺しては、別の詩人のところに行って、また皮膚に傷をつける。むごいことをする霊(スピリット)どもだ。その詩人の詩の度合いを正しく見定めてから、楽しげに飛び去ってゆく。あるいは、詩人の肩にとまりながら一時を過ごし、その詩人の最良の時をともにしてのち、別の詩人のところに移ってゆく。いずれにせよ、詩の神の遣わされた、詩人を「見る」存在なのだ、この「虻」というやつは。
    諸々の/詩人を経て 虻、/帰りけり
    も・ろ・も・ろ・の・〇/し・じ・ん・を・へ・て・△・あ・ぶ・〇、/か・え・り・け・り

 ※中七にあたる部分が、「詩人を経て」と「虻」で句割れになり、「虻」のあとに小休止でリズムを屈折させている。先に引いた「小学校裏にすこし腸を出す春」と似た調べと言ってよいだろう。

    鷄行けと屏風をたおす夏の風   『氾人』
 これを読んだ瞬間に、屏風絵のなかの「鷄」が絵から出て駆け出すイメージが結んだ。「鷄」は、かけろ、と読ますか。晩年の斎藤史の家の鶏は、よく慣れて実際に座敷まで上がっていたそうだが、放し飼いの鶏は、しばしば床にあがってしまうものである。とすれば、実際の鶏でもかまわないのだろうが、ここは絵の中の鶏と見た方がたのしいと思う。ついでに、
    鶏抱けば少し飛べるか夜の崖   『汝と我』
 こちらの「鶏」は、とり、と読むだろう。かなりいい句だ。周知の通り、鶏はあまり飛べない鳥だ。でも「少し」は飛べるのだ。その飛翔力が自分にも与えられるかもしれない、という繊細な口調には、ためらいや遠慮の気配が見える。前衛俳人は、無神経ではないのだ。

    故郷や即女も非女もおみなえし  『氾人』
 「非女(ひじょ・女ニ非ズ)」は、ひめと訓読みするのだろう。この「ひめ」様は、とっくに更年期を過ぎて高齢かもしれない。先ごろどんな年配の女性でも、お嬢様、お嬢さんよばわりする気色の悪い芸人が退いたが、「即女」というのは、どんな位の女性だろうか。「即身成仏」というのは、生きたまま成仏することだから、「即女」は、さしずめ女の生身の体を持ったまま成仏していることである。もしくは、あるがままの自然体として、即自的に悟りの境涯にあるのである。むろん見立ての言い方で、現にそんなふうな女性たちが生活しているのだ。猛々しいアイロニーを含み持ちながら、これは、故郷の女性たちへの敬意と愛情に満ちた作品なのである。

    逝く春ぞ松を倒して妨げる   『氾人』
    百姓は煙で天の鷹を落とし
    行く人は知るや鯰の重心を

 同じ句集の同じ一連から引いた。逝く春は、有名な芭蕉の句をかりている。松を倒して春の歩み去る邪魔をするというのは、何事かと思う。外見はあえて談林風も辞さず、というようにも見えるが、以下に私の解釈をのべる。日本文学史が、「逝く春」ならぬ芭蕉翁を出立させなかったら、どうなっていたか。すぐあとの「煙で天の鷹を落とし」というのは、実際にそういう鷹の捕り方があるのではないかと思うが、これを私は、詩のつかまえ方として読む。三句目も芭蕉が下敷きになっているのだろうが、己の位置を「鯰の重心」として定位しているようだ。鯰の自負。ただし鯰の重心は泥水の下だから、行く人(旅人)に見えるわけがない。
 三句とも、対話不可能なもの同士に関わり合いを持たせようとしている。「逝く春」と、それを押しとどめようとする者。地上の百姓と、天空に羽ばたく鷹。行く人と鯰。これを「文芸研」式の「対比」の方法論で読んだりはしない。それは詩の驚異を世俗化し、平坦に均すことである。そうではなくて、「煙で天の鷹を落とし」というのは、心意気というものだ。「逝く春」を「松を倒して妨げる」のは、邪魔をしているのではなくて、少々野蛮な挨拶なのだ。「逝く春ぞ」の「ぞ」は、むろん大肯定だ。行く人は、「知るや鯰の重心を」。作者は不敵な笑いを浮かべているのではないか。

(十月二十九日、十一月二日)

 全句集でみると巻初の方よりも中期以降の作品に心をひかれる。処女句集だけ見せられたら、私はこの作者に愛情を抱かなかったかもしれない。

    帰省道長い吐息の草がある   『氾人』
 概して故郷のことを述べた時にこの作者には秀句が多い。と言うよりも、この作者のとらえる自然の姿の根っこの部分にずしんと<故郷>的なものが座っている。そういう意味でこの人は鬼面人を驚かす句を多くものしつつ、まったく皮相なモダニストではなくて都会的でもなく、想像上の父祖の地、日本の古層に自己の根源的なものをもとめ続けた人と言えるだろう。右の句の前後の作品を引いてみる。

    大日はがらんと鰈蒸す女
    時の辺にとねりこばかり擦れ合うや
    つばくろや風は銅器をやわらげる

「帰省道」の句の直前に「大日」の句があり、二句あとに「時の辺に」の句がある。「つばくろ」の句は二ページあとのもの。「帰省道長い吐息の草がある」と「時の辺にとねりこばかり擦れ合うや」は、同じ気分を述べた作品だろう。ともに見えない風や、空気の動く気配を感じ取って作られた句であり、「つばくろ」の句に至っては、その季節の風の感受の仕方の繊細かつ大胆なありように驚嘆させられるのである。たしかに初夏の風は銅製の金属の器でさえもやわらげるような気がするではないか。
 「大日はがらんと鰈蒸す女」の「大日」というのは、日輪であるとともに、どうしても大日如来のことを思い出させる。「がらんと」という語が、大きな堂宇を思わせ、「大日はがらんと」で天空を伽藍に見立てたなかに、鰈を蒸す女が大きな尻と太った腕を持って立っているような、その女は料理をしていると言うよりも、神仏への贄を捧げようとしているような気配が漂っている。「むす」は古語の「産(む)す」にも通うと言ったら、踏み込みすぎか。そうしてみると、掲出三句めの「つばくろ」の句の銅製の金属器も祭器である可能性は高いだろう。

    柿の種々すべりひかり西の穢土   『中止観』
 浄土教では、「欣求浄土、厭離穢土」と言って、伝統的に「西」は浄土に結び付けられるべき語である。しかし、禅宗の流れでは、仏が土くれや塵に等しいものであるという、究極の転倒した公案の発想があるわけだから、これもそれに近い語の斡旋と言っていいわけだろう。それで上五の「柿の種々」だが、「かきのたねだね」と読んだらいいか。地に落ちて砕け、腐った柿の実からつややかな柿の種が顔をのぞかせているという図である。そこに夕陽も射そう。その腐食し、発酵する落ち柿のさまは、「種」の連想で何となく女性器をも思わせつつ、西方穢土を現成しているのである。わたしがいるのは、そこだ、ということだろう。

    赤くかすかにわらう遠島の羹   『中止観』
    御身より棒に捲かれるさなだむし

 この二句は並んでいる。連作として読むべきだう。遠島だから、後鳥羽院を思うのが筋だろう。そうすると、「御身」は後鳥羽院である。「御身より」というのは、「御身より(出て)」という意味である。一句目からは、粗食を御馳走として食べていらっしゃる院の顔が見え、追放されながらなお都と連絡をとって和歌に打ち込んでいた院の自足した心の姿が、みごとに「赤くかすかに」色づく小鉢のなますの放つ光のなかに精神のかがやきとして見える。院の作物を「棒に捲かれるさなだむし」に比することの是非は私にはわからない。ただ壮絶にして怪異である。「御身」をあなた、ととってもむろんおもしろい。詩の仲間の作品を人間の腸に寄生する長大な「さなだむし」にたとえる、というのは、とてつもない奇想であろう。

    遠島のわがいちじくへはし立てり   『阿父学』
 この句の遠島には、遠望する島ではなくて、江戸時代の刑罰の「遠島」の響きがある。「いちじく」はアヌスで「梯」が男根として、バレ句とする読みも可能だが、折れやすいいちじくの木に、わざわざ梯子をかけてまで実を取ることは無為に近い。オレのことを解釈しようとしたって、それは遠島のいちじくに梯子をかけるみたいなもんで、ばかだなあ。と、作者に言われているわけか。

    二階から落ちしヴァイオリンも存在せず   『密母集』
 そうすると、突然こういう句がわかったような気がするのである。断固として、存在しない。存在しなくなる、とでも言えばいいか。「ヴァイオリン」は、句作、作品行為の喩としてあり、言うならば「わがいちじく」のようなものだ。<非在>と<在>の隙間に一瞬ことばをすべりこませて句作する。ここでは「すべりこませて」と仮に言ってみたが、ここがうまく言えたら安井浩司論のようなものが書けるのだろうとは思うが、それは先の話だ。いまは手当たり次第に読んでいる。    

(十一月八日、十六日)

ページの上部に戻る