続 詩に、賦活される

 『中止観』は一九七一年刊。その巻頭の章題が「中止」で、開巻即時にいったい何事かと思わせられる。
   キセル火の中止エポケを図れる旅人よ   安井浩司    『中止観』
 キセルの煙草を吸うと、一瞬煙が立ち昇るのが止み、火の赤色が強くなって、理屈としては、煙草火そのものに新たな空気が供給されているわけだけれども、見ている方には「中止」しているように見える、というのである。抽象的な造りだが、実景はきちんと押さえてある。
「エポケ」と振り仮名が振られているが、これはフッサールの「現象学的エポケー」という語をただちに連想させる。簡単に言うと意識・意思の動くありようを、哲学のためにいったん括弧でくくるという哲学的な操作のことである。キセル火のような、動きがあって生命の感じられる現象を、旅人である詩人が、<括弧>でくくるということは、簡単に言うと、<抒情>や<詩>を媒介する<ものごと>の意識面への<現れ自体>を括弧でくくるということである。これはおそらく仏教の観想や瞑想とも一面で通うところがあるのだろうと思う。
 ここの「旅人」には、あとの方に宗祇が出てくるから、そういう先人を思うニュアンスをくみ取ればいいのかもしれない。
   なつかしき阿母の店あり阿父の冬       『中止観』     
   宗祇忌の人体模型に涙しぬ
   朱膳喰うはるかはるかなやぶれはす
   ひこばえに日本海を流れる板かな

 四句続けて引いた。「阿父」への思いと、宗祇の名と日本海とは、ぜんぶ連想としてつながっていて、響きあっているような気がする。「阿父」は師や目上の男性への親しみをこめた敬称で、作者は続く句集に『阿父学』と名付けているから、阿父という言い方にはこだわりが強い。その句集は一九七四年刊で『中止観』の三年後に出されている。一句目の「なつかしき阿母の店」には、幼時になじんだ駄菓子屋の気配があり、二句めは宗祇と人体模型の取合せが奇抜だが、人体模型を出す詩想は寺山修司のイメージが強くて、今では消費され尽くした配合という気がしないでもない。これも学校時代の理科室の記憶にかかわると読んだ方が自然であり、三句目で朱膳についてものを喰っているのは、いにしえの詩歌人ならぬ現在の己であろう。四句目の「日本海を流れる板」はあまり響きがよくない句だが、ここには漂泊感が託されている。こういう脱俗の感じというものを、我々は普段の生活のなかでは、なかなか感ずることがない。作者の句の背景に、日本海の見える故郷が大きく広がっており、そこに脱出感覚があふれているために、安井の句は狭い観念世界の遊びに極限されないのである。
 続けて『阿父学』の「帰去来」の章をながめてみるのだが、これだけ緊密に次々と奇想あふれる作品を並べられるという事が、そもそも驚異である。
   母国ははぐにのおおばこを焼き払うかな  
   まくなぎに垂迹である友を知り
   逆の峰入しずかにしずかにはらわた
   九月尽ふと山中の兜かな
   斑猫へちかづく死後の友ならん

 五句続けて引いた。この山中は、おそらく熊野古道のような場所だろう。作者は、修験者となって山中をたどっているという趣である。「母国ははぐにのおおばこを焼き払う」というのは、高柳重信の船を焼き捨てた船長を連想させるが、この出家者は故郷の未練を焼き捨ててからこちらに入山したのだろうか。「帰去来」と題するからには、逆に故郷に帰還して来て山畑の雑草の始末などをしているのであろう。
 二句めは難解句で、「まくなぎ」は山道を歩く求道者の目元をかすませる羽虫であろうか。山行の異常に研ぎ澄まされた神経が呼び起こすものについては、古井由吉の初期の小説が参考になる。作者の精神もそのように極度に集中している。ここで問題なのは、「垂迹である/友を知り」なのか、「垂迹である友/を知り」なのかということである。「まくなぎ」のような微細なもののなかに仏が「垂迹」し給うということは、あるかもしれない。が、その一方で「垂迹である友」というような、超越的なところからこの現世に降りて来る「友」もいるかもしれないと考えたりする。この友のありようは、西行や芭蕉の同行者のような感触のする「友」である。けれども、これは自己完結している詩想であって、あくまでも自己そのものへの固着という性格が強いように思う。ここの出家者が言うところの「友」には、私の勘では、自らの姿が重ね合わされているのである。
 日本の神道では「本地垂迹」し給うのは根源的な仏である。だから、人間である「友」が「垂迹」するという言い方は、聖なるものとの距離感がありすぎて、どうも穏やかでない。こう書いているうちに、ますますわかりにくくなってしまったが、後出の「斑猫へちかづく死後の友ならん」につなげて読むなら、「まくなぎ」に「死後の友」が「垂迹」すると読むほかはないか。しかし、「友」を言いつつあくまでも自己言及的な両義性がある。それが安井浩司の作品の本質である、というように読んでいきたいのだが、どうだろうか。それこそが私が安井作品に惹かれた理由のひとつである、といま心付く。
「九月尽ふと山中の兜かな」というのは、己の底のところで死を願って歩いているから、ふと目に入るのである。「兜」は、かぶと虫でなくて、トリカブト科の植物の花が咲いていると読みたい。山道では比較的よく見かける植物である。掲出五句めの斑猫の句は、友の霊のようなものが近寄ると、飛び立って逃げるのである。斑猫という昆虫の生態をうまくとらえている作品と思う。  

(十一月二十四日、十二月十四日、一月五日)

                 

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