小説読みの愉楽【喃喃読書日記・4】

 事の次第 佐藤正午 小学館文庫 2011

 長年正午派を自認しながらも、佐藤正午はひとに読むよう勧めにくい作家の一人である。
「正午派」とは2009年に作家のデビュー25周年を記念して刊行されたいわば副読本のような書籍の名称である。使ってみると案外むずがゆい。
 新刊が出ればチェックするし、連載が始まったときけば、書店に行って雑誌を立ち読みするぐらいに関心を傾けている作家を、なぜひとに勧めづらいと感じるのか。そこには佐藤正午作品の「楽しみ方」が関わってくる。
 感動するとか、泣けるとか、読めばこころがあたたまるとか、ハラハラドキドキして楽しいとか、そういった惹句は佐藤正午の作品にはそぐわない。しかし一度でもハマれば、その文章によってボディブローのような衝撃を受けることになる。「リーダビリティ」という言葉が今日書評において頻出するきっかけを作った作家の一人でもある、と私は思う。

「事の次第」は7つの短編から成る連作である。ひとつの地方都市を舞台として、登場人物たちが自らかかえた「秘密」を主題とした物語たちだ。作品ごとに異なる登場人物たちは遠近さまざまになんらかの関わりを持っていて、そのことは作品のなかで特に説明はなされず、読みすすめていくにつれ、まるで地下鉄の構内地図を透かし見るかのように、人間関係の構造があきらかになっていく。
 しかしもちろん作品の目的は「複雑な人間関係を徐々にときあかしていく」というものではない。読んでいて興味深く思うのは、ひとつひとつの物語に「どこからどのように入っていくか」を徹底的に試行している点である。
 たとえば「そのとき」においては、時系列を真逆から書いてみせることによって、話の冒頭のショックー主人公の不倫相手の自死ーの無残な印象が、ラストに向かって強調されていく。ブロックごとに最後の行において時制を示し、階段状にさかのぼっていく手法は、覗き見を誘うようでもあり、出会いの場面までさかのぼったとき、そこにはグロテスクさとさわやかさが奇妙に同居している。

 登場人物たちは中年から壮年にかけての、普通に職業を持ち、あるいは主婦業にいそしみ、夫に隠れて小金を貯めたり、不倫したり、嫁き遅れながらも懇意の男性と同棲をはじめたり、そうした市井の人々である。そこに、ちょっとしたアクセントを持つひとびとが交錯する。
 深夜のタクシーで、煮込み鍋で灯油を運ぶ女。いつ死んだって構わないと言いつのる女。裕福な美貌の妻を持ちながら、町中の女と関係を持つ双子の弟。そうした人々が各々の人生の一部に影のようによりそう時に起きる、摩擦のような時間が、きわめて適切に、冷静に綴られていく。

 地の文は場面描写がほとんどで、愛想がないことこの上ないのに、とてもよく整理されていて飲み込みやすい。心理描写は最小限にとどめられ、本人の内心の葛藤を長文にわたってつまびらかにしたり、語り手が自身の価値観や常識をほのめかすようなことはない。記憶をさかのぼる描写はちょくちょく見られるが、思わせぶりにぼやかすこともない。そして、その整理の仕方が一辺倒ではない。さきに書いた「どこからどのように入っていくか」のように、種々工夫を凝らされているのだろうけど、手際のよさゆえに技巧が浮き上がったり、いさんで見えたりもしない。惰性で繰り返される表現は見当たらず、小章の書き出しで、読み手の意識はどんどん先に送り出されていく。

 そのようなソツの無い文章で、作家は「気まずい」人間関係をきっちり描いてみせる。ギスギスした人間模様を描かせたら、このひとの右に出るものはいないのではないか。特に『事の次第』には、全編これみな気まずさと呼びたいような身にせまる「気まずさ」が、基調低音のように流れている。葛藤が水面にわずかに顔を見せたとき、水中にひそむ見えない部分の質量を、同時に、充分に感じさせる。そういう手練れの「気まずさ」に漱がれるのである。

 こんなふうに書いていると、なぜそんな憂鬱そうな作品を読み続けているのだ、と思われてしまいそうだ。では、なぜ、そんな気まずい物語を読むのか。
 もちろん物語の魅力があって、その結末を知りたい、というのもある。それを補って余りあるさらなる「読む動機」は、「この文章の続きがどうなって、どのように処理されていくのかが見たい」から、である。
 結末はきっと「こう」かもしれない。読書の途中、そんなあわい予想を描くことがある。予想が合っているのか、答えあわせのために、結論を得るために、カタルシスを得るために、最後まで読む。あるいは、自分を物語の中に潜り込ませ、仮想体験にも似た心境で、最後まで到着するため、物語内の人生を生ききるため、ゴールテープを切るため、読む。
 私にとっての解はどちらでもない。「どのように語り終えられるか」を見届けるため、である。仮に話の落としどころに見当がついたとして、作家がどのように語ってみせるのかが、小説読みの醍醐味ではないか。

 読むこと、読んで没入する時間を味わうこと。そのきわめて個人的な愉しみが確実に待っている、と信頼できること。これは小説にとっての最大の賛辞のひとつではないかと真面目に思うのだけれど、私にとっての佐藤正午はそういう書き手であり、本当のところは「すすめにくい」のではなく、このよろこびをひっそり一人で味わいたい、と心のどこかで思い続けているのかもしれない。

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