エッセイ想紡草(その2)ー海と光ー


 時間の流れをさらさらとさかのぼり、この世で最初の記憶まで泳いでみる。
 下関の武久町、海辺の町の一軒家にある土間の金だらい。
 その中で私は湯浴みをさせられている。
 頼りない金だらいの底がきしきしと静かに音をたてて泣いている。
 海へ向かって開いているらしい裏木戸のあたりからは光が差している。
 光はぼんやりとにじんでおり世界には薄い紗がかかっている。
 この記憶は産まれて数ヶ月あたりのものではないかと思うのだが定かでない。
 
 一歳を過ぎたあたりから、ようやく記憶がはっきりしてくる。
 裏庭に咲いたカンナの重い赤。
 裏木戸のむこうにつづいている白い砂浜。
 海の方へせり出した石積みの突堤と、その先の大岩。
 海中に建てられた海水浴客用の飛び込み台。
 時おり隣の家のカオルちゃんとみや子ちゃんが卵かけごはんをかきまぜながら追いかけて来る。

 まだモノクロテレビの時代。我が家には早いうちからテレビがあったらしい。当時人気のあった「名犬ラッシー」を見たいが為、カオルちゃんは私に卵かけごはんを食べさせに来る。それが母との交換条件であった。私は裏木戸からよちよちと逃げ出し砂浜を走る。カオルちゃんは「名犬ラッシー」見たさにお茶碗とスプーンを抱え、どこまでも追いかけて来る。それはときに妹のみやこちゃんであったりもする。私の逃げ足はもちろん遅く、たびたび捕まり、強引にひと口入れられ、またもや逃げ出す。石積みの突堤まで完全に追いつめられ、諦めて食べる。これが日々続き、ついに私は卵アレルギーを発症してしまった。後頭部が半分禿げ上がり、25歳の新米母は大変反省した。「だって卵は完全食と本に書いてあったから」という言い訳は、20年後に聞いた。

 父はまだほとんどわたしの記憶に登場しない。彼はラビットスクーターに乗ってどこからか帰って来てはまた出掛けてゆく。二階は清水さんという夫婦に間貸ししている。時おり清水さんがシュミーズ姿で階段を降りて来る。母が「シュミーズの清水さん」と笑い、意味は解らないが風のようにかろやかなシュミーズという響きと、それにつづく清水さんという響きになにかすこし混乱しながら幾度もシュミーズの清水さんと、言葉を覚え始めたばかりのオウムのように繰り返し、忘れられなくなった。
 二歳以前。はじめて美しいと感じた言葉が「シュミーズの清水さん」であった。

 その、私達の住んでいた家のあたりには今、バイパス道路が通っている。
 突堤と大岩ははまだ残っている。
 飛び込み台はさすがにもう無い。
 バイパス道路から見下ろす海岸線はかろうじて変わっていない。

          もうりひとみ
     

 その後、濵田家の若い夫婦は三歳になった私を連れ関門海峡をわたり、北九州の門司に移り住んだ。
 昔、長崎からリヤカーひとつで出て来た祖父がひらいた食堂「はまや」は門司の駅前にあり、母はその手伝いを始めた。看護婦であった母が祖父の商売の手伝いを始めるにはいくらか覚悟が必要であったろう。

 結婚以前、母は下関の小さな黒石堂病院に勤めており、そこに心嚢炎で入院して来た父と恋に落ちた。庭に矢車草が咲く季節、父は死にかけていたが、祖父が長男のために大枚をはたき、当時まだ大変高価であったペニシリンをようやく手に入れ、息子の命を救ったという。ペニシリンの発見があと数年遅かったら、父は、そして私も、この世に居なかった。

 しかし病弱な男と恋に落ちた母の将来を憂いた山口家は、母を強引に宇部の結核療養所「山陽荘」(国立療養所山陽病院)に移し、さらに念入りにお茶の水順天堂大学病院にまで引き離してしまった。
 その時に山口家の祖父の書いた母の履歴書は、祈りのこもった毛筆候文であり、どういうわけか今、母の古いアルバムに挟まれている。やがて親の願いも虚しく、若いインターンの求婚を無碍に蹴ってまで父と一緒になったというのだから、母の後年の苦労は自業自得である。

 そのようにして父と母は、何としても私を造った。       (つづく)

ページの上部に戻る