世界の果ての汚れた島

美しい空の色 花  見えないと忘れてしまう怒りと恐怖

挿絵 竹本万亀

「えぇ?島に行く?なんだってまた・・・」
 船着き場にいた船頭は露骨に驚いた。
「父がいるんです。父に会いに来たんです。」
 きっぱりと言うと、合点したのか船頭は同情したような声をだした。
「あんた、名前は?」
「田中です」
「田中・・・航さんのとこの娘さんかい?」
「そうです。島を出た時、私は2歳だったので、父のことはほとんど覚えていないのですが」
「そうかい、そりゃあね。・・・もう島に行くのは、この船しかないんだ。しかも運行は週に1度。行ってすぐに戻ってくる。誰もあの島には行きたがらないからな。手紙だって、滅多にはない。・・・航さんなら船を持っているから、帰りは送ってもらいな」
 乗れ、と船頭は船の方に顎をしゃくった。船はエンジンがついただけの小舟で、荷物が山積みになっている。かろうじて人が乗るスペースが確保されている。
 これつけな、と黄色い救命胴衣を渡される。背負っていたリュックサックをおろして、救命胴衣をつけると、身動きが不自由になった。
 島は海の向こう、地平線のあたりに青く見えている。ここから島までは40キロほどしかない。
 島が汚染されたのは、23年前の春。島の桜が咲く前の頃だったと聞いた。季節はちょうど今頃だ。
 故郷に帰るというのに、特に感慨などわかないものだ。
 23年間、島に近づいたことはない。父に手紙を書いたことも、父から手紙が届いたこともない。何の感慨もわかないのも、当然かもしれない。
 船はかなりの速度で進んだ。舳先は浮き、船が進む勢いで波ができる。エンジン音がうるさく、会話どころではないので、少しずつ近づいてくる島を見ていた。青かった島が、近づくにつれ色味をおびてくる。島の木や建物が見てとれるようになるほど近づくと、船は速度をゆるめた。
 岸に着くと、白髪の男が待っていた。船頭はもやいの綱を男に渡して、「田中さんとこの娘だよ」と伝えた。
「航ちゃんの?じゃあ、亜子ちゃんかい。そりゃあ、よくきたね」
 名前を言い当てられて、びっくりする。
「そうです、亜子です。よくわかりますね」
「わかるさ。航ちゃん、喜ぶだろうね。この時間なら、家にいるだろ。行ってごらん。この道を真っ直ぐ海沿いに進んで、3件目の青い屋根の家だから」
 礼を言って、指し示された道をすすむ。道の左手には海がひろがり、右手には緩やかな丘があり、やがて山になる。丘に生えている草は茶色く枯れあがり、道沿いに生える木も丈が短く地に這うように曲がっている。風が冷たく海から島へ這い上がるように吹きつける。
「寒っ」
 腕を抱えて身震いをする。もう少し厚着をしてくればよかったと思ったとき、頭上から「あんた誰だい」と声がふってきた。
 見上げると、道より一段高くなった畑から、70歳を過ぎたあたりの女が顔をのぞかせていた。
「田中亜子です」
「へぇ、田中さんとこの。すっかり大きくなってまぁ」
「私のこと知ってるんですか?」
「そりゃあお隣さんだもの。島にいた時は、まだこんなに小さくて、よく抱っこさせてもらってたもんさ。いやぁ、大きくなったねぇ」
 心底感心したように言われて、思わずふふっと笑ってしまう。
「よくきたねぇ。田中さん喜ぶねぇ」
 またしみじみと言われたので、亜子はじゃあと頭を下げて、道をすすむ。すると、青い屋根の古びた家が見えてきた。ひっそりとした家。玄関の脇には、クロッカスが白や黄色の花を咲かせている。
 玄関チャイムを押すと、ほどなくドアが開いた。現れた父は、亜子が写真の中に見ていた父よりも格段に年をとっていた。髪は薄くなり、目尻には深く皺が刻まれている。けれど、しゃっきりと立つ浅黒い顔は、精悍だった。
「私、亜子です。あなたの娘の」
「亜子・・・」
 父は絶句した。しばしの沈黙の後、「まぁあがって」とはじけるように家の中にひっこんだ。
「お邪魔します」と靴を脱ぎ、家にあがる。廊下には段ボールが無造作に積まれ、居間に入ると父が床に山にしている衣服を抱え上げるところだった。
「片づいてなくて悪いな」
 父は衣服をそのまま隣の部屋に押し込んで、「遠かっただろう?」と言って、台所に行き薬缶を火にかける。亜子は荷物を背中から下ろして、ソファに腰掛ける。
「昨日飛行機で来て、さっき島への荷運びの船に乗せてもらってきたの」
「そうか、連絡くれれば、本土の港まで迎えに行ったのにな」
「私、お父さんの電話番号も知らなかったの。なんか驚いたわ。親の連絡先もまともに知らないんだなって」
「番号はずっと変わってないんだけどな。連絡とってなかったもんな、母さんとも亜子とも」
 あっと呟いて、父は薬缶の火をとめた。薬缶の湯は、まだ沸騰していない。いぶかしむと「亜子は、ここの水飲まない方がいいからな」と言って、向かいに腰をおろした。
 この島は汚染されている。水も土もここでとれた食べ物も。「行くなら、この島のものは口にするな」と、亜子はたくさんの人から忠告されていた。
「水、持ってきたから」
 リュックサックから水筒を出して、亜子は一口飲んでみせる。父は安心したように頷いた。たぶん、この島の水を飲んだからと言って、すぐに影響が出ることはない。汚染があったのは、もう23年も前なのだ。けれど、不安なもの疑わしいものは口にしたくないのも心情だった。
「母さんは、元気か?」
「亡くなったの白血病で。四月二日に。それを伝えにきたの」
「そうか、それは、ご苦労だったな」
 父は目を伏せた。続ける言葉がみつからないようだった。
 亜子は窓の外を見やる。枯れあがった茶色い草原が一面に広がっている。やはり見慣れない淋しい景色だ。懐かしさなど、かけらも感じない。
「草が緑じゃないのは、汚染のせいなの?」
「あ?あぁ、違うよ。まだ寒いからだ。まだ朝は霜がおりるしな。まだ春が来てないんだ」
 言われてみれば、空はまだ冬の色をしていて、うす青い。この島の空気は、ひんやりと薄く張りつめている様だ。
 ピンポーンと、高い音で玄関チャイムが鳴った。父は、はいと返事をしながら立ち上がる。玄関を開ける音がして、複数の人の声が居間にまで届いた。
「亜子、お前、いつ帰るんだ?」
 居間に戻るなり、父は言った。
「え、明日の飛行機に間に合うようにとは思っていたけれど」
「じゃあ、今日は、ここに泊まるか。明日の朝、船で送っていけば間に合うんだな」
「あぁ、うん、そうしよっかな」
「じゃあ、これから浜で焼き肉しようって、みんなが言っているみたいだから、行くぞ」
「は?焼き肉」
「みんな亜子が来てくれたから、焼き肉してくれるって」
 うながされるままに亜子は立ち上がる。父と連れだって、外に出ると、家の前にワゴン車が止まっていた。車には、すでに人が3人乗っている。後部座席に乗り込むと、「いやぁ、親子水入らずを邪魔しちゃって悪かったかね?」と悪びれた風でもなく運転席の男が言った。
「いえ、全然」
 亜子がきっぱりと答えると、「そうかい、そうかい」と頷きながら男は車を発進させた。車を進めていくらもしない内に、浜に人が集まっているのが見えた。40人ほどもいるだろうか。集まっている人は、皆60歳を過ぎているように見える。この島には、若い人や子供はもういないのだ。
 砂浜に黒い焼き台が5台並べておいてあり、焼き網の上には、ホタテやらホッケやら肉やら野菜やらがのせられ、じゅうじゅうと音をたてている。美味しそうなにおいが、煙と一緒に流れてきて、亜子は急に空腹を感じた。そういえば、朝、おにぎりを一つ食べたきり、なにも口にしていなかった。
「亜子ちゃん、よく来たね。ここにすわんなさい」
 親しげな声に亜子はとまどいながらも笑顔で応じて、うながされた席に腰掛けた。父も隣に座る。目の前では、肉が頃合いに焼けている。「食べなさい」「のみなさい」と紙皿と割り箸、おにぎりにビールを渡される。こんがりと焼けた肉をつまんで口に入れる。肉の熱さとおいしさに、なんとなく背筋がしゃんと伸びる。
「亜子ちゃんは、今、お勤めしてるのかい?」
「はい、市の保健師をしています」
「今回は、お休み取ってきたのかい?」
「母が亡くなったので、忌引き休暇をいただいてるんです」
 亜子の言葉に、あたりは水を打ったように静まった。肉の焼ける音だけがじゅーじゅーとする。
「そうかい、みっちゃん亡くなったのかい」
「まだ若かったろ」
「58歳でした」
「白血病だったってさ」
 父の声に、また皆黙る。亜子は、肉を口に入れ、おにぎりを頬ばる。誰も核心をつかない。汚染された人間は、癌や白血病になりやすくなると言われている。母の死が、汚染のせいなのかそうでないのか、23年もたってから発病しても、確かめようがない。
「せっかく島を出たのにね」
 しみじみと残念そうな声だった。ここにいる人皆が、母の死を悼んでいるのがわかった。
「おそろしいね。島を出ても駄目なのかね」
「どうなんだろうね。俺達はこうして割と元気に過ごしているしね」
「けど、サカちゃんもリュウさんもだいぶ悪いっていうよ」
 亜子はがぶりとビールを飲む。知らない人が病んでいる話。ここに来てみるまでは、父はもうとっくに亡くなっているのではないか、あるいは病に冒されているのではないかと、そんな不安が頭から消えなかった。
 立ち上がって、隣の焼き台でこんがりと焼けている烏賊に箸をのばす。
「亜子は、食べちゃ駄目だ」
 父の大きな声に、亜子は驚いて箸を止める。眉間に皺をよせて、父は続けた。
「そっちの焼き台の上のものは、みんなこの島でとれたもんだ。亜子は、こっちの焼き台のものを食べなさい。こっちは、今日届いた、本土の肉と野菜だから」
 父のあまりの剣幕に、亜子はおもわず笑ってしまう。
「・・・そんな、・・・大丈夫でしょ。みんな食べてるし・・・」
「駄目だ、大丈夫かもしれないけれど、駄目なんだ」
 怒気を含んだ父の声に、亜子は笑いをひっこめた。
「そうだよ、亜子ちゃんはこれから子供だって産むだろうし、気をつけないとね」
 優しげに諭すように隣にいた女に言われて、なぜだか亜子の頭にかっと血がのぼった。
「もう気を付けたって手遅れかもですよ。私もあのとき、この島にいたんだもの。汚染されてる。子供なんておそろしくて産めないわ」
 子供の頃から、ずっとこの島の出身というだけで、いじめにあったり、同情の眼で見られたりしてきた。今だってそうだ。23年も経ったのに、亜子がこの島の出身だとわかったとたんたいていの人は、亜子から距離をおこうとする。関わり合いにならないようにしようとする。
「なんて言うことを言うんだ亜子。何のために母さんが、お前を連れて島を出たのか。お前の健康を守るために、母さんがどれだけ苦労したか」
「なんでそんな苦労を母さんにさせたの?なんで父さんは島に残ったの?私と母さんと、一緒に本土に逃げたらよかったのにさ。母さんは父さんのこと、恨んでたよ。捨てられたようなもんだって、ずっと言ってたもの」
 本当の事だった。でも、言うつもりのないことだった。亜子は口を押さえた。言ってしまったことに、すーっと血の気がひいた。急に、あたりの温度が冷えた気がした。
「なんでだろうな。わからんな」
 父の声はやけに間延びしていた。
「でも俺は、ここに残ってここで生きることしか選べんかった。母さんは、亜子を連れてこの島を出ていくことしか選べなかったろうしな」
 亜子は大きく息を吸って吐いた。今こうして吸って吐く空気にも、汚染物質は含まれているのかもしれない。それでも亜子は、肺の奥深くまで空気を吸い込んだ。
「亜子、お前にはちゃんと幸せになって欲しいんだ」
 父の声は切実だった。随分とくさいことを言うんだな、と亜子はふふっと笑った。
「ごめんなさい。大丈夫だから」
 一番奥の焼き肉台から、笑い声が聞こえてきた。亜子と父のやりとりなどまるで意に介していない。心地よくアルコールがまわっているのか、随分と陽気な雰囲気だ。何がおかしいのか、笑い声は後から後からおこる。
 この汚れた島でも、人は案外、楽しそうに暮らしている。
 それがわかっただけでも良かったと、亜子は手に持っていたビールを音をたてて飲んだ。

                                      【文:榎田純子/挿絵:竹本万亀】

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