続々 詩に、賦活される  

 前回よりだいぶ間がひらいてしまった。私はこの四月から勤務先が風光明媚な西湘地域になったので、朝夕の通勤時に富士箱根を遠望するだけで心は満たされる。人出の多い連休中にどこかにわざわざ旅行する必要もないようなものである。このごろは何を見てもそれなりに楽しめるし、身めぐりの事物に目を届かせていればそれで十分ではないかという気がしている。昨日は職場の入り口近くの目立たない木陰に牡丹が花を咲かせているのを見つけた。やや遅い我が家の鉢の牡丹もいまつぼみをふくらませている。
 さて、安井浩司の句には、こちらが悼みの気持ちをもって読むとちがってみえて来るものがある。

   赤松に釘打てば母泣きにけり   『乾坤』(一九八三年刊)

 この句の「母」は、どういう母なのだろうか。これは「第二章 深淵抄」の作品群のなかにある。「深淵抄」は、前にとりあげた「栗の花劫初の犬に帰らなん」ではじまっている章だ。次に引くような「神」という語の頻出する作品群のうちの三十三句めに、この「赤松」の句は位置している。

   神も人も春鼠の巣を起しけり    (二章 四句目)
   神は知らずに筍の皮の剥落よ    (八句目)
   唐突としゆは押されたる葛の崖    (十六句目)
   復活思うとき婢は転ぶ岩ひばに   (十七句目)
   主怒れば夏蟲はみな蟲殻に     (二十四句目)
   青野に伏し神は急に蟲を吐く    (二十八句目)

 「赤松に釘打てば母泣きにけり」の母には、いたずら坊主を泣きながら叱る母のイメージがある。それと重ねて、聖母マリアかもしれないと思わせられるのは、前後にある「神」の句のせいと、一句前に父の句が置かれているせいである。
 右の一句めの春耕の神は、静かに人の傍にいるが、三句目の「葛の崖」や、五句目の「夏の蟲」や、六句目の「青野」の句の「神」は、崖で人を押したり、蟲を吐いたりする能動的な神である。稲光の下で夏蟲がすべて蟲殻となって、その場所に硬直するイメージは、美しい。抜け殻をそのように見立てたと読んだらいいか。「主怒れば」の「神」は、まるで「旧約聖書」の神のようだ。青野に伏して蟲を吐くのは何となく素戔嗚尊的なところがある。蟲がいっせいに飛び出してくる春野の様子は、季の神が吐くとでもいうほかはないものだ。これらの句は、一神教的ではない日本の神、地上に遍満する神である。聖母マリアという線での読みは、ちがうのかもしれない。
 松の木に釘を打つような真似をしたら「ばか、おまえはなんてことをするんだ」と泣き声をあげる母のイメージは、私自身の亡くなった母の生前の姿とつながる。松の木は、農家だった母の実家の門前にあって、祖父が大切に手入れをしていた。庭を整える余裕のある農家ならどこでもそうだったのではないか。私自身の母を悼む気持ちが、この句に心を近寄らせる。安井浩司の「母」の句は、どれも哀切な響きをたたえている。なんで聖母マリアと言いだしたかというと、「赤松」の句のひとつ手前に父の句があったからだ。

   青山椒よりも尊き養父こそ    (三十二句目)

 養父を誰の養父とするかだが、ことによってイエスの養父ということになるのかもしれないと思った。もう少し神の出て来る句を引いてみようか。
  
   苫屋へ向うしゆはこおろぎを知悉して    (三十六句目)
   しゆは摘ままん蜂よりも蜂鳥を       (三十七句目)
   しゆよ昼餉跡かなしみの蟲興る       (四十二句目)
 
 三句とも「主」に「しゆ」と仮名が振ってある。このあたりは、敬虔なクリスチャンの句と言ってもよさそうなものだ。苫屋のこおろぎの句は、『三冊子』でも話題になった有名な芭蕉の句を下敷きにしているのかもしれない。二句目はさらに敬虔な色が強くて、信仰者の句として読めそうだ。三句めは、よくみると「かなしみの蟲」が「腹の虫がおさまらない」と言う時の「虫」のニュアンスを帯びているようにも読めてきて、昼餉のあとではあるし、滑稽の要素を含んだ句なのかもしれないとも思った。でも、三句とも清純な句として読んでいいのではないか。三句めは、『カラマーゾフの兄弟』の一場面のようなところもある。と、こう書いてみて思ったのだが、安井浩司の句集をめくっている時の気分は、何となくドストエフスキーの小説を読んでいる時の気分と少し似ている。なぜだろう。たぶん普段の生活では抱かない感情や情念的思考を喚起させられるためではないかと思う。ところが、このあと章の後半では「仏陀」という語が出て来るようになるのである。西行も出てくる。抱朴子の名も出てくる。土台が作者の作品は宗教を特定して読めるものではなさそうだ。文脈は錯綜し、ある宗教的な文脈から別の宗教的な文脈へと場面は移り変わるのである。少し見方を変えてみよう。

   母の家に牛のたまを通しけり   『霊果』(一九八二年刊)

 「魂」に「たま」と仮名を振ってある。盆棚の茄子の牛、胡瓜の馬の飾りを想起すればよい。以下に一般的な分析読みをする。

   母の手にとまる極悪の青鷺が
   母うつくしきかの猪も汁物に
   病む母を塀よりのぞく山伏か
   老い母の寝床やまがりの池ひとつ
   破夏はげとして母と歩む孔雀かな
   無垢衣むくいなる母の中にも蜀葵
   母訪えばかがいもの葉に道消えん
   老母笑むや石垣に蛇入るとき
   夏屋に棲みおる母はひら蜘蛛と
   母に叱られても田鼠でんそを真似る人
   母を訪えば天竺鼠の籠がある
  

 全部ではないが、母という語のみえる句だけ『霊果』のなかから任意に引いてみた。作者は写実的に私生活を語ったりしないが、「病む母」、「老い母の寝床」、「無垢衣なる母」の句には、母の病みついた姿を見つめる現実の作者の姿が投影されているだろう。
 
 「無垢衣むくいなる母の中にも蜀葵」が葬儀の句だとしたら、「母の家に牛の魂を通しけり」は、もしかしたら新盆の句なのかもしれない。作者は私的な事情をじかには語らない。でも、この句集にみえる悲しみ・寂しみの作品は、母を失った、または失わんとする思いが底に流れていると読んだらいいのではないか。一九八一年刊の日付を付した日録句集『牛尾心抄』には、「十年ととせ病む母よすずめは天路来る」の句がある。私的な状況をそのまま出した数少ない作例だろう。「赤松に釘打てば母泣きにけり」は、遠い母子関係の痛みの記憶を引きずっていると思う。「母に叱られても田鼠を真似る人」も少年の日の思い出か、そのような誰かの姿をどこかで読んだか見たかしたのであろう。

 歌壇では、最近藤井常世さんに続いて小高賢さんが亡くなった。残念なことだった。しばらくして短歌誌をみると、老いも若きもみんなして小高賢への追悼歌を発表している。それをみるたびに私は沈んだやりきれない気持ちになった。特に私と同年配の中堅歌人たちの作品が、あまり感心できるものではなかった。そもそも挽歌自体が儀礼的な性格を持つものである。直近の死者に言及するには、遠慮と節度がもとめられる。基本的に自由な創作ではないのである。これは言い過ぎかもしれないが、そういう性格があるということは否めない。では、型通りでない「挽歌」には、どのようなものがあるだろうか。たとえば、戦時中の死者を思って成した塚本邦雄の全作品。あれは不当な歴史への抗議と、自由への希求に裏打ちされた真の芸術的創造であった。それに比べて、眼前の貧寒な日記的創作の羅列の目を覆わんばかりの志の低さは何だろうか。別に挽歌を作るのがいけないと言っているのではない。馬場あき子さんや、高野公彦さんの歌にはいい歌があった。私だって小高氏への恩義はある。機会があれば挽歌を作って出したかもしれない。が、一連のほとんど全部をそれに当てて、だらだらと歌壇の内側の読者にしか発信していないような性格の作品を何の疑いもなしに発表している仲間たち、多くの知人の作品をみて、少し気持ちが変わった。それでここに書いてみたわけであるが、これは短歌誌を読んでいない人には関係のない事である。歌人は安井浩司の爪の垢でも煎じて飲んでみてはどうか。   

(四月二九日、三〇日)

   

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