エッセイ想紡草(その3)ー日向の匂いのするクレヨンセットー


 昭和37年頃、門司の街には路面電車が走り、駅前は結構なにぎわいであったが、不老通りのゆるい坂を大里公園の方へとのぼってゆくと、まだ雑草の生い茂る広い空き地に灰色の野うさぎが生き延びていた。
 大里公園からやや下った辺りに父と母は小さな家を借り、庭には愛嬌のあるアヒルを放し飼いにし、確か黒い兎も庭の隅の小屋にいた。

 そうこうするうち父が原因不明の目の病に冒され、宇部医大(現山口大学付属病院)に長期入院することとなった。それを機に私は鉄道弘済会「みどり保育園」へ預けられるはめになる。

 その日、母は何の説明もせず無言で私の手を引いて歩きつづけ、坂の上の「みどり保育園」へ辿り着いた。
 門の上、園の制服を着た大きな男の子(私から見れば)がふたり腰かけ「ねぇちゃん、金出しな」と言ってけらけらと笑った。あれは当時の流行り言葉だったのだろうか、私は俄然不安になった。そして今思えば、母は当時まだ若い28歳の「姉ちゃん」であった。

 保育園のガランと広い玄関で、母が紺色の服を着た女性になにか言われながら頷いている記憶、母のロングヘアが見えなくなるまで泣き続けた記憶、紺色の服を着た女性にあやされながら連れて行かれた教室の壁一面、ずらりと並ぶ造り付けの引き出しに驚いた記憶。その、壁一面の引き出しはクラスの子供たちひとりにひとつ割り当てられており、私専用の引き出しも用意されていた。 
 「これがあなたのお道具箱よ」と言われ、そっと中を覗き込むとなにか日向のような匂いのするクレヨンセットと画用紙、文字の練習帳があった。
 わたしは引き出しの中の文房具に救われ、夢中になった。

 私はここで文字を覚え、三歳半ばの頃には、ひらがなカタカナと簡単な漢字を読み書きできる様になった。この、みどり保育園のアキヨシ先生とタチバナ先生の授業時のパフォーマンスはいまだに微かな不安感と共になつかしく思い出す。皆の前に高く掲げた折り紙をハサミで見事に切る姿は切り絵師並で、(たまにわざと落としてみせる、その時のおかしな表情)、子ども達に絵を描かせようとするときのおおらかな雰囲気。特に言葉の発音に関しては厳しく、母を「たーたん」と呼ぶなど、幼児語が残っていた私は、特別な指導を受けた記憶がぼんやりとある。

 その25年ほど後に、ほとんど印象の変わらないアキヨシ先生を偶然テレビ番組で見かけ大変驚いた。自閉症児の教育についてのお話しをしていたように思うが、ビデオを撮る間もなく終わってしまい、未だに気にかかったままになっている。

 さて。
 父は左目の視力をほとんど失って宇部医大から舞い戻ってきた。
 20代での心嚢炎に続き左目ほぼ失明では、どんなにか将来が不安であったろうかと今ならば想像出来るが、当時の私にはにはとうてい無理なおはなしである。
 退院して来た父は小さな動物をよく愛し、よく飼い、悲しい事によく殺した。
 深夜に帰って来てはうっかりバイクではねる、うっかり兎を放してしまう。片目の視力を失ったせいだろうか? 彼がアヒルのガア子をバイクではねたあたりから、私はバイクの音がすると反射的に身がまえるようになった。

(こうして遠い遠い色の褪せた記憶を辿って書きながらふと、十代の半ば、乗り物の通過音に異様に過敏になった理由にようやく気付く。通過音への過敏さからやがて世界の音全般へと波及し、生活に支障が出るほどの、いわゆる神経症に悩まされたのだが、この幼児期の記憶は私の奥で眠りこけていて掘り起こされなかった)

 しかし今思えば父も思う様にならない身体でよく生きた。
 看護婦であった母に頼る気持ちと(家計はほとんど母の働きによって支えられた)、体力的に一家の主として私達を支えることが出来ないという不甲斐なさとのはざまで、内心地団駄を踏んでいたのではないかと、ぼんやりと想像する。

うさぎと私 

 母は祖父の営む「はまや」を手伝いながら、小さな病院の看護の仕事にも就いた。
 午後、みどり園から解放されると私は、母のつとめの日は大里の「上の家」へ、母が「はまや」にいる日は駅前の「下の家」へ帰る事になった。
 三歳半の子どもが、毎朝申し渡される〈帰る場所〉をよく覚えていたものだと思うけれど、どうやらその日その日、まちがえることは無かった。

「下の家」は店の屋根裏部屋が居住スペースになっており、細く頼りない梯子をのぼってゆくと、そこには綺麗なイエローカナリヤが一羽、白い籠に飼われていた。母が世話をしていたのか、祖父が世話をしていたのか覚えが無いが、子供の私が立って頭が天井につくほどの狭さの屋根裏部屋で、カナリヤは美しい声でよく鳴いた。

 門司の駅前通りにはパチンコ屋があり、日活映画館があり、近くには競輪場もある。そんな環境の中、少し年上の散髪屋の娘、鈴谷まゆみちゃんとつるんでは、店から半径五十メートル内を闊歩する。ふたりで消防署の前のゆるいスロープをごろごろ転がり落ちてみる。パチンコ屋のおじさんたちの足の下にもぐりこみ、銀色の玉を拾い集めては両のボケットをえらく重くしてみる。

 赤い毛糸のパンツをはいた三歳半児が、お尻を高く上げ銀色の玉を拾っては空のパチンコ台に背伸びして入れる(当時は手動ではじくタイプなので子どもにとっては格好のおもちゃである)。指でぴーんとはじくと銀の玉がじゃらじゃらと出て来る。出て来たらその都度、走って逃げるのである。
 実に営業妨害ではある。

つづく

 
 

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