ブンからの抜書

     *

製材所の表に耿々と明かりが灯っている。
人気はなく、昨日降った雪が道を挟んだ林の地面に残っている。
ここから斜面が続き、私は暗い梢と空を見上げる。
煙草の外装フィルムを剥がし、それをジャンパーのポケットに押し込む。
今、何かが遠近の分からない近さで啼き、その高く鋭い声が樹間を渡って止む。
私は凍える指で燧を擦る。暫し置いてまた啼く声…。
光は橙色をした大きな楕円を描いて落ち、細かな木屑が風もなく散乱している。
私は冷気の中、深く煙を吸い込み吐き、そして束の間、自分を火男ひょっとこのようだと思う。
腕時計の革ベルトを手首に光らせ、湿った路面に灰を落とす。
また鋭く啼く声、――あれは赤啄木鳥あかげらだろうか。
不意に冷たい笑いが喉に競り上がって来て、私は押し殺したように咳き込む。
フォークリフトと角材の置かれた向こう、窓の灯が消えた事務所の玄関から、
信楽焼の狸が小首を傾げてこちらを窺っている。

     *

速度を上げた一台の白いセダンが過ぎ、
側道を小学生たちが集団で下校している。
黒く涸れた河に鉄の橋が架かり、
一人の男児が欄干を傘でカンカンと叩いて行く。
橋の袂の十字路にはこけしのような、小振りの新しい地蔵が据えられ、
その前で供花が最早茶色く枯死している。
今集落の上を寒さと峻厳な平和が渡って、
雪雲、犬、乾田、――お前の馴染んだものが配置された、
これはまるで映画のセットのようだ。
私はマフラーで口元をあんぐりと覆い、
今更のようにこの光景を凝視している。身体を、
在りもしない永別の感覚に刺し貫かれて。

     *

何処まで行くのか、
行って何を見るのか。
この土地、黒く涸れた河、
老人の落ち窪んだ両目――、
(彼は畦で歩を止めておいでおいでしている)。
私はアスファルトが中途で途切れた、
小楢の自生している森へと続く
道の岐れ目に立って、
雪を孕んだ陰鬱な空を見上げている。
冥い光、――全景に埋め込まれた
病巣のような種苗よ、破片の予感よ。
降り出した雪が黒い川床に注ぐ。
犬が独り枯草を踏んで
河岸へ降りて行く。
お前は何処までも行き、
稚拙なたわごとを続けろ、
熱に魘されて錯乱した
土砂降りのように情緒的な頭脳で。

     *

銀色の軽ワゴンが登って来た、葛折の勾配と、
シャッターの降ろされた売店「しいたけランド」。
(路肩にエンジンを止めて、ダッシュボードに両脚を凭せ、
 我々が啜っている、ミルク入り缶コーヒー。)
留められて在れ、フェルト地の手袋の、
柑橘の白い房の、使い馴染んだ煙草ケースの、――否、
留まることもなく、全て流れ行くばかり…。
無人駅で拾われ、ここまで辿り着く。何かの鉄枠が、
それだけが錆びて残され、アスファルト敷きの狭い駐車場のふち倒れて、
半ば雪に埋もれ…。
シャッターの上大きく踏ん張る、マスコット・キャラクターのイラスト。
携帯電話の画面を、弾きながら見入る、運転席の同僚。
フロントガラス越しに灰色の空と山を眺めている、お前の低い息遣い。

     *

両腕を机上に、丸く輪の形にして置き、
電灯の白い光の下、私は心持ち顔を伏せる。
自分以外誰もいない部屋――かつて誰かのいた痕跡が、
何処かに留められていはしないかと、壁や床を彷徨った視線。
見付けられたのは、サッシに挟まったガムの銀紙屑だけだった。
日暮れて、そして今は夜だ。ここにはカーテンもなく、
私は一人暗い窓に対面している。窓からすぐの林と、
薄いウィンドブレーカーを室内でも着込んだ私の姿とが、
共に淡く白い光を浴びて、ガラスに二重写しになる。
林の根方には灰色の雪があり、私はパイプ椅子の上で膝を組んでいる。
机の上に投げ出された、煙草、罫線の入ったノート、ボールペン…。
窓と机との間には、一・五メートルほどの空間があり、
私が先刻脱いだ靴が、床にちぐはぐに倒れて、やはり光を浴びている。
他にも、シュラフと着替えの入った軽ザックが、ベニヤの剥き出しになった、
脇の壁に凭せて置いてある。いつから掛けられたままなのか、
壁の鉄骨部分の上方には、丸い壁掛時計があり、
長針と短針が無言のまま、あらぬ時刻を指して止まっている。
私がこうして、手持ち無沙汰に机に向かい始めてから、
既に六時間が経過している。(ということが、私の腕時計から分かる。)
もう暫くしたら、私は建て付けの悪い引戸を開けて、
表に出るだろう。外の厠で小便を済ませ、煙草を更に一服し、
冷気に身体をぎりぎりと伸ばすだろう。化繊のシュラフは今夜も冷たく、
寝付きは極めて悪いだろう。夢を見るだろう、そして夢の中でまた問うことだろう、
何処まで行くのか? 行って何を見るのか? と…。
黒く涸れた河に鉄の橋が架かり、きっとそれらの光景も今は闇の中にある。

     *

待ち合わせた時刻、バス停に人影はなく、
帰室すると、土間のコンロにケトルが鳴っていた。(私は鍵を掛けていなかった。)
奥の部屋、椅子の背に投げ掛けて置いた紫のウィンドブレーカーが、
壁の鉄骨から出ているフックに掛かっていた。――この上着は、
更に冷え込むだろう時期のために、もう一枚薄手の物も、と、
出立する前日、隣市に出て買い揃えた品だった。今着ているジャンパーの上に羽織れば、
かなりの寒さにも対応出来る筈だ。左胸の部分にmont-bellのロゴが入っている。

私は引戸を開けて、敷居の所に佇んだまま、
土間の向う、蛍光灯の灯された四角い空間を見遣っていた。
椅子、フックに掛けられたウィンドブレーカー、長机。――自分は何処にいるのだろう?という瞬間的な錯覚があり、
自分が唾を呑み込む、その音さえも聴こえるようだった。世界がぐるりと廻った、ほんの一瞬。
コンロの上、ケトルが鳴っていた。それは鳴り響くという程でもなく、今湯が沸き立とうとしている、極微かな音だった。
私の靴裏には泥が着いていて、バス停からの道は半分が畦道、――そして所々泥濘んでいた。その道程もやはり、段々と影が濃くなって来ていた。

     *

小屋の前の緩やかな坂を老人がゆっくりと登って来る。彼の口には歯がなく、茶色い毛糸の帽子をちょこんと被っている。(帽子の天辺には、サンタクロースのような白いボンボンが付いている。)老人の向う、坂を下った先に冬の田圃が灰色のおもてを見せ、更にその向うに遠く、涸れ川が撓んだ凹みだけを見せている。(堤防の斜面は枯草で白茶に塗られたようになっている。)振り返れば、低い山並が迫っている。――

朝から小雪が降ったり止んだりの天気だ。私は葉書を書こうと思っている、かつて訪れた都市に。そこでは川に魚が跳ね、友人が笑った。夏のことだ。(あの町はどうなったことだろう? 今でも夏のままの気がしている。)私は沈黙に耐えられなくなっている。このまま何も書かずに、二十年を終えることも楽だった。そうして私が消えたなら、象か猫のようだ、と他人たちが笑っただろうか。――

葉書を書くなんて嘘だよ。くたばってしまえ、白い蛇よ。(また一日が過ぎた。暮れ方から、外は再び雪になっている。)簡易な夕食を済ませ、私はぼんやりと地図に向かっている。

(つづく)

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