獣の骨のあるところ

      *

鈍色の波に洗われ骨となる 霧はいのぼり海風におう

      *

「無難だよね」
「無難ですか?」
 係長の言葉をオウム返しにして、礼美れみは、自分の作成した書類に目を落とす。礼美がそれ以上何も言う気がないのを察して係長が言葉を続けた。
「これって、今のホームページの言葉の順番を入れ替えただけでしょ。まぁすでに、今掲載している内容なんだから、このままでもいいっちゃいいんだけど・・・。観光課のページは、もっと親しみやすく、わかりやすく、より観光の参考になるページにって意向でリニューアルするんだし。そこで、若い感性をって、川辺さんに担当してもらったんだし・・・。少なくとももう少し自分の意見っていうか、個性、川辺さんが伝えたいことを入れて、自分の言葉で書いてきてもらわないと。コピーアンドペーストじゃなくて」
 係長に、「はい」と差し出された書類を受け取る。そこには右上がりの赤い文字が書き込まれている。礼美は立ったままそれを読んだ。
羅臼らうすに遊びに来たくなるホームページに。見たい!知りたい!体験したい!』
 書類の余白に書き込まれたその文字を読んで、思考が停止した。
 何も思い浮かばない。
 困り果てている礼美の様子に、係長が口を開く。
「たとえば羅臼の語源って、アイヌ語で『獣の骨があるところ』でしょ。獣の骨が何の骨かはわからないだろうけど、羅臼にいる獣を、そういう視点で紹介してみるとか、そういう工夫が欲しいんだよね。来週の金曜までに再提出ね」
「はい」と返事をして、礼美は自分の席に戻る。デスクに返された書類を広げ、目を通す。
 無難な内容。今のホームページの内容を並べ替えただけ。
 その通りで、ぐうの音も出ない。
 反面、若い感性とか、自分の意見とか、それって何なのだろうとも思う。そんな正体不明なものは持ち合わせていない。持ち合わせていたとしても、人様にはお見せできない。
 礼美はパソコンの画面に、羅臼のホームページを開く。オーソドックスでかっちりとした町のホームページ。
『このままでもいいけど、観光のページには、もっと面白味をもたせたいのよ』
 以前にも言われたことのある係長の声が頭の中でした。
 羅臼を訪れてみたいと思わせるホームページ。
 礼美は目的もなくマウスをカチカチいわせ、パソコンの画面を散らかしていく。文字の羅列と美しい風景写真。それらを読むでもなく、眺めるでもなく、ただ目に映す。そんな風に意味もなく、終業までの時間を消化する。

       *

 不意に鳴ったチャイムに、玄関を開けると正史まさふみが立っていた。挨拶もせずに、右手に持っていたビニール袋をぬっと差しだして、「稚貝ちがい」と言う。
 礼美は右手でビニール袋を受け取り、その重さに思わず左腕をそえる。覗き込むと、帆立の稚貝が重なりあってごっそりと入っている。まだ生きているらしく、貝殻がかすかに動く。
「こんなにたくさん」
「味噌汁三回分くらいだよ」
「稚貝だらけの味噌汁が三回分だね。ありがとう」
 漁師の正史は、時々こんな風に礼美に海産物をお裾分けしてくれる。「多すぎて食べきれない」と言い続けて、礼美が羅臼に戻ってきた去年より、量はだいぶ少なくなった。去年はトロ箱いっぱいの稚貝を持ってこられて、「さすがに無理」とそこから鍋一杯分だけ分けてもらったのだった。
 礼美は、台所に行き、ビニール袋をそのまま流し台に置く。帰らずにいる正史が玄関から声をかけてきた。
「今日、暇?」
「うーん、予定はないけど」
 礼美は居間のテーブルを見る。広げっぱなしのノートと飲みかけのお茶。ホームページの案を考えてはいたのだ。さっぱり思い浮かばず、ノートには三行の書きつけしかないけれど。
「じゃあどっか行かない?俺、ラーメン食べたい」
「うーん、ラーメンかぁ」
 気乗りしない返事になった。
「じゃあ、カレーでもいいけど」
「カレーかぁ」
「なんでもいいから行こうよ。どうせ暇なんだろ?」
「予定はないけど、暇ではないんだけどな」
 正史に聞こえるか聞こえないかの声で言い返し、礼美はスプリングコートを羽織る。紺色でふんわりとしていて、気に入りのコート。
 玄関でスニーカーを履く。正史が、玄関扉を開けたまま機嫌のいい声で訊く。
「で、どこ行く?」
「知床峠」
「知床峠?なにもなくない?」
「今年、開通してからまだ行ってないし、写真撮りたいんだよね。ホームページの」
「なんだ、仕事?まぁいっけど」
 礼美がマンションの鍵をかけると正史はポケットから車の鍵をじゃらりと出した。
 正史の車は青いRV車。助手席側のドアを開けるとかすかに潮の香りがした。礼美はかまわず乗り込む。
 正史がエンジンをかけ、車はすべるように走り出す。
 海沿いの道が続く。羅臼は、海岸に沿ってのびる細長い町だから、右手に海、左手に断崖の景色が単調に続く。海は大抵鈍色で、何もなくてぱっとしない。
 礼美は右を向く。正史の向こうに広がる海は鈍色で、普段より穏やかだ。
「ねぇ、羅臼で遊ぼうって言われたらどこ行く?」
「羅臼町内?」
「うん、町内」
「じゃあ海」
「どこの海?」
「どこって・・・まぁ、この先に車止めて、砂浜歩く感じで」
「じゃあ、知床峠に行く前に、その海に行こう」
「はいはい、おおせのままに」
 笑いをふくんだ声で正史は答え、ゆるいカーブを曲がった先にある浜への取り付け道路に車を乗り入れ停車する。車を降りると、風がコートをはためかせた。潮が強く匂う。
 正史が海の方に歩き出したので、礼美は追いかけ隣を並んで歩く。
「海に来て、いつもなにするの?」
「これといって別に。釣りとか、七輪持ってきて焼き肉とかする日もあるけど」
「ふーん」
 なだらかに隆起する砂浜を歩き、波打ち際までたどり着くと、二人は脚を止めた。視界いっぱいに海を映し、頬に風を受ける。海を向いたまま礼美は風に負けないように大きな声を出す。
「ねぇ、羅臼の語源って、アイヌ語で『獣の骨があるところ』だって、知ってた?」
「きいたことはあるけど」
「その獣の骨って、何の骨だと思う?」
「うーん、トド、とか」
「トド!」
 意外な答えに驚いて、右を向くと正史が礼美を見下ろしていた。視線をあわせると見上げる格好になり、礼美は正史との身長差に再び驚く。
 小中学校とずっと一緒のクラスだった正史と礼美。同じ年の子供が六人しかいなかった羅臼では、必然的に一緒に過ごした。その頃は、身長差など気になったこともなかったのに。
 礼美の驚きに気付かずに、正史は言葉を続ける。
「トドって、海獣だろ。海の獣。けっこう身近な獣。浜にたまにトドの死体が打ち上げられてたりもするし、骨とかも昔は落ちてたんでない?」
「トドね。海の獣は想像してなかったな」
「じゃあ、なんだと思ってたの」
「鹿とか、熊とか。獣って言ったら、山にいる動物を想像しない?」
「鹿はね、ありかもな。でも熊の骨は、人目につくところにはなさそうでない?」
「あぁ、それは一理あるかも」
 礼美は向きなおり海を見る。羅臼の海は荒々しい。鈍色でとても冷たい。
 羅臼は、そういう場所だと思う。
 たいてい曇っていて、夏でも風は冷たくて、なんとなくぱっとしない町。
 人が少ないし、遊ぶ場所なんて皆無だし、さびれていて何にもない町。
 けれど、何もないからこそ、この町には獣の骨がありそうなのだ。そこかしこの草むらや砂浜に、ひっそりと獣の骨がありそうなのだ。
 悪くないと思う。羅臼のそういう人を寄せない雰囲気を礼美は嫌いではない。だから羅臼に帰ってきた。
 無自覚に育てていた郷土愛みたいなもの。そういう気持ちをホームページに載せられれば、それがきっと『羅臼に遊びに来たくなるホームページ』になるのだろう。あの仕事に求められているのはそういうことで、それはやはり難しいことだ。難しいけれど、できないことはないことだと、礼美は思う。
 礼美は両腕を空につき上げて、身体を反らした。海風になぶられながらも深く息を吸い、吐きながら両腕を海に向かって振り下ろす。
「よし、行こっか」
 礼美の声が弾むように響いたので、正史は思わず笑顔になって返事をした。

      *

 流しに放っておいた稚貝は、散らばっていた。重なって積み上がって袋に収まっていたはずが、あらかたの貝が袋から出て流しいっぱいに広がっている。稚貝は、生きている。貝殻を動かして、伸びやかに空気を吸うために、広がっていくのだ、きっと。
 礼美は、赤いゴム手袋をはめる。
 海で吹っ切れた気持ちになったのに、帰宅して流しの前に立てば気持ちが萎えている。
 礼美は、流しの下からアルマイトの金色の鍋を引っ張り出す。稚貝を一枚ずつたわしでゴシゴシとこすり、鍋の中に入れていく。流しから鍋の中に、幾分きれいになって積み上げられる稚貝。全部の稚貝を鍋に入れてしまったら、蛇口をひねってひたひたに水を入れる。そして火にかける。流しの下から、ボウルとざるを出して重ねて、流しの中に置く。
 立ったまま、稚貝が茹だるのを待っていると、鍋からカタカタと音がし始める。熱に貝殻が開いて、鍋の中で稚貝が動く。水が湯になり、白濁する。潮のにおいが湯気になって立ち上る。
 ガスの火を止めて、鍋を持ち上げる。そして、ざるを重ねたボウルにざあっとあける。ボウルには汁、ざるには稚貝、と右手と左手に持ち、ボウルの汁を鍋に戻す。それから、味噌を溶く。
 椀に、形よく口を開いた稚貝を二つ入れ、横から味噌汁を注ぐ。立ったまま椀に口をつけ、一口すする。
「うまっ」
 不意に脳裏に『獣の骨』という言葉が浮かぶ。
「稚貝の貝殻」
 骨と貝殻は似ている。命が失われた後に残るもの。食われ、あるいは腐敗して土に還り、その後に残るもの。
 大げさだな、と笑いがこみ上げてくる。ははっと声に出して笑ってしまってから、礼美はホームページの案の続きを考えることにする。
 流しの中のざるに入った稚貝からは、湯気が立ち上っている。殻から身をはずす作業は、稚貝がすっかり冷めてしまってからの方がいい。冷めるのを待つまでの時間に、仕事のことを考えようと思う。
 礼美は、冷たい水で手を洗った。

      *

「前回よりは、ずいぶん良くなったけれど、まだブログの域を出ていないね」
 月曜日。午前九時三十分。
 始業と共に係長に提出した礼美のホームページ案は、三十分で不受理が決定したらしい。礼美は、ただ係長を見返す。
「海に行きました。風が冷たかったです。知床峠に行きました。景色がきれいでした。行った場所と一言コメント、これだけだとブログなのよね。・・・観光課のホームページなんだから、かっちりした情報も入れていかないとね」
「はぁ・・・」
「ちょっと獣の骨にもこだわりすぎかな。視点は悪くないって思うけど、オチがないのよね」
「オチですか?」
「海、トドの骨。山、鹿の骨。っていうだけではね、無理矢理っていうか、こじつけ感が否めないよね」
 係長は、獣の骨として礼美が示した文字に蛍光マーカーを引く。蛍光ピンクの線が、原稿の上にぽつぽつと光る。
「でも、本当に、悪くはないんだよね。トドも鹿も羅臼にいる生き物だからね。まとめ方、見せ方を工夫すれば、面白い記事になると思う。観光地紹介は、従来のホームページを踏襲して、この獣の骨のくだりは、コラムにまとめてしまうとか」
 係長が、原稿から顔をあげて礼美を見た。礼美は、思わず背筋を伸ばす。礼美に視線を向けたまま、係長は原稿の中程に貼ってある付箋の上に指をのせ、そのページをガバリとった。
「それから、この稚貝の味噌汁のレシピ。これは、とてもいいわ」
「はなまるっ」と弾むように言いながら、係長は蛍光ペンでピンクの花丸を描いた。
「え、これ、私の適当レシピですけど」
「そこがいいと思う。羅臼で暮らしている人が普通に食べているものだからね。ただ、稚貝は流通しているものではないし、地元の人以外はなかなか口にできないものだから、もう少しレシピの数を増やしたいわね。今、時期じゃないけど、スケソウダラの料理とか、あるといいと思うんだけど」
「タラ鍋とかですか?タラ鍋も料理って感じじゃないと思うんですけど・・・」
「だから、そこがいいのよ。ということで、もう一回なおしてみて。次で決済あげられるように」
 差し出された原稿を受け取る。稚貝の味噌汁のページが開かれたままになっている。何の変哲もない椀に盛られた味噌汁の写真とだらだらと文字ばかりの説明文。分量など量りようもない適当料理だから、苦肉の策で、作り方を文章だけで説明したのだ。掲載不可だろうと思いつつ、『地元の味覚紹介もあった方がいい』と言われたことを思い出し、駄目元で書いたページだった。そのページにはなまるとは。
「本当にいいわよ、そのページ。稚貝の味噌汁が飲みたくなったもの。そういうのって大事。ということで、がんばってね」
 反射的に「はい」と返事をすると、係長は微笑んで、自分の席に戻る。礼美は係長の背中を見送って、それから机上のパソコン画面に視線を移す。そこには、礼美が撮影した、昨日の羅臼の海が映っている。鈍色の海。獣の骨と貝殻と命のないものが沈んでいる海。そして、それより多く、スケソウダラにコンブ、カレイにホッケ、ホタテ、命あるものがすんでいる海。
 どちらのことも伝えられたらいい。
 そっと思って礼美は、蛍光ピンクが光る原稿に目を落とした。

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