造本の旅人・3 『かめれおん日記』中島敦

かめれおん日記

 調べずに書くが、中島敦の作品は今でも国語の教科書に採用されているのだろうか。「李陵」「山月記」「名人」「弟子」といった中国物の作品群と、「南島譚」「環礁」「光と風と夢」などの南方を題材とした作品群があるが、今回の「かめれおん日記」はそのいずれにも属さない、作品に作者本人が色濃く顔をのぞかせているっぽい作品である。

「かめれおん日記」は女子高の非常勤講師である「私」が、生徒からカメレオンを譲り受ける場面から始まる。「私」は自分の下宿で飼おうとカメレオンを持ち帰るが、日に日に衰弱していく様子を見て、動物園に引き取って貰うことを決意する。

物語の合間(というよりかなりの部分)にさしはさまれる自己省察が、なんというか、たいへんに自虐的かつ自愛的で執拗である。持病の喘息の発作に苦しみ、頭痛に苦しみ、眠れぬ夜の苦しさの中に自らを抑圧し持て余す「私」の懊悩を、部屋に留まっている間、カメレオンはその円錐形の目で、きょとんと見続けていたことだろう。

 一月程前、自分の體内の諸器關の一つ一つに就いて、(身體模型圖や動物解剖の時のことなどを思ひ浮かべながら)その所在のあたりを押して見ては、其の大きさ、形、色、濕り工合、柔かさ、などを、目をつぶつて想像して見た。以前だつて斯ういふ經驗が無いわけではなかつたが、それは併し、いはゞ、内臟一般、胃一般、腸一般を自分の身體のあるべき場所に想像して見たゞけであつて、頗る抽象的な想像の仕方だつた。しかし此の時は、何といふか、直接に、私といふ個人を形成してゐる・私の胃、私の腸、私の肺(いはゞ、個性をもつた其等の器關)を、はつきりと其の色、潤ひ、觸感を以て、その働いてゐる姿のまゝに考へて見た。(灰色のぶよぶよと弛んだ袋や、醜い管や、グロテスクなポンプなど。)それも今迄になく、かなり長い間——殆ど半日——續けた。すると、私といふ人間の肉體を組立ててゐる各部分に注意が行き亙るにつれ、次第に、私といふ人間の所在が判らなくなつて來た。俺は一體何處にある?
(中略)
 身體を二つに切斷されると、直ぐに、切られた各々の部分が互ひに鬪爭を始める蟲があるさうだが、自分もそんな蟲になつたやうな氣がする。といふよりも、未だ切られない中から、身體中が幾つもに分れて爭ひを始めるのだ。外に向つて行く對象が無い時には、我と自らを噛み、さいなむより、仕方がないのだ。

現代なら中二病と揶揄されてしまいそうな表現でもあるなと思いつつ、同時に己の身も穿たれるような描写だからこそ、痛いなあ、と感じてしまうのだろう。
中島敦は33歳という若さで亡くなったが、死の年の夏、妻子の不在に草稿やメモを自分の手で焼却処分したことが年表に記されている。現在私達が目にしているのは、中島敦が読むことを良しとして残した、彼の言葉の「一部」に過ぎない。
生前、自分の著作が活字になるのをほんのわずかしか見届けられなかった彼が、己の作品が長く学生達の目にふれていることを知ったら、どのように思うのだろう。

この本については、外箱に穴をあけ、そこから表紙のカメレオンの顔をのぞかせることを早々に思いついた。
他にもいろいろ装飾をこらす案もあったが、結局は必要最小限の装飾にとどまった。カメレオンのイラストレーションと、ハンマートーンGA表面のうろこ状の凹凸が、かすかな屈託をもたらしてくれている。

カメレオンのイラストレーションは、サウスフロリダ大学による学術研究のためのクリップアートサイト*のものを使わせていただいた。

* ClipArt ETC http://etc.usf.edu/clipart/

[DATA]
本体 W89 D10 H131
函 W91 D14 H134

本体 表紙 ぐびき 黒 100kg
   表紙上張 ハンマートーンGA 苔 100kg
   見返し OKカイゼル けしずみ 110kg
   本文 書籍用紙 <70>
函 ぐびき 黒 100kg
函内張 OKカイゼル けしずみ 110kg

表紙 インクジェットプリント
本文 レーザープリント

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