春は好きではない。
ネコヤナギだけではないのだ。春は、
幾分早歩きになる。風が頬をなでる。その
自宅の門扉を開け、そのまま真っ直ぐに離れの自室へ入る。肩にかけていた鞄を机の上に置き、水槽のガラスの蓋をずらす。指を差し入れると、ヤモリがするすると這い上ってくる。ためらいなく学生服の袖口から潜り込み、腕を這い上り、襟元から顔をだす。そのまま垂直に首を這い、左頬でぴたりと止まる。ひんやりとした感触に、気が休まる。ここは静かだ。外の音が窓を震わせてはいるけれど。
史仁は椅子に座り、チェロを抱える。弓を引き、ぶわーんと窓に向かって、低い音を出す。そうすると、外からの音が打ち消せる。爽快である。
流れるように大きく腕を動かして、地を這うような音を出す。ネコヤナギや草の息吹、それらを舐め尽くすように音。何も考えずにひたすら弓を振る。たえまない音。史仁の音楽。史仁を
頬に止まるヤモリの存在からも、自分がチェロを弾いていることからも意識が離れる。ぶーんぶーんと空気を震わせ史仁は音を出す。左頬ではヤモリが何の音も出さずに止まり続けている。そのヤモリと同化していくのか、史仁は音を出せば出すほどに静まりかえっていった。
或る春の日のことである。