禍々まがまが 【序】

 春は好きではない。
 史仁ふみひとは、道ばたの銀色に光るネコヤナギを眺めながら思う。その銀のふくらみから、音が聞こえてくるのだ。ざわざわと空気を震わす波動のようなもの。膨らみゆく花穂、その息吹、それが音になって聞こえてくる。史仁に、その音は不快に響く。
 ネコヤナギだけではないのだ。春は、草原くさはらや小川、いたるところからざわざわと音が生まれてくる。大気がざわざわとうごめいている。この春のざわざわの渦中にいると史仁は落ち着きを失う。自分の身体までざわざわと蠢きだし、苛々とする。自分の中からわき上がってくる得体の知れない力、こみ上げてくる怒り。春の中に立ち尽くす悪人のようだ。特にこの銀白色のネコヤナギがひときわ大きく震えていて、忌々しい。奥歯をぎゅっとかみしめて、ざわざわと流れてくる音から逃れる。
 幾分早歩きになる。風が頬をなでる。そのぬるい空気も不快である。これだから春は、と強く足を振り下ろし、大きな足音を立てる。大気を蹴散らしてやるように。
 自宅の門扉を開け、そのまま真っ直ぐに離れの自室へ入る。肩にかけていた鞄を机の上に置き、水槽のガラスの蓋をずらす。指を差し入れると、ヤモリがするすると這い上ってくる。ためらいなく学生服の袖口から潜り込み、腕を這い上り、襟元から顔をだす。そのまま垂直に首を這い、左頬でぴたりと止まる。ひんやりとした感触に、気が休まる。ここは静かだ。外の音が窓を震わせてはいるけれど。
 史仁は椅子に座り、チェロを抱える。弓を引き、ぶわーんと窓に向かって、低い音を出す。そうすると、外からの音が打ち消せる。爽快である。
 流れるように大きく腕を動かして、地を這うような音を出す。ネコヤナギや草の息吹、それらを舐め尽くすように音。何も考えずにひたすら弓を振る。たえまない音。史仁の音楽。史仁をさいなむ音に打ち勝つ史仁の音楽。
 頬に止まるヤモリの存在からも、自分がチェロを弾いていることからも意識が離れる。ぶーんぶーんと空気を震わせ史仁は音を出す。左頬ではヤモリが何の音も出さずに止まり続けている。そのヤモリと同化していくのか、史仁は音を出せば出すほどに静まりかえっていった。
 或る春の日のことである。

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