美しいバス

ふいにやってくるバスは美しい
湖面を吹き渡る風のように唐突に
冷たい静けさでドアが開く
純白の手袋をした運転士が銀貨の投入口を指し示す
私は促されるまま二枚のコインを入れ
最後尾のシートに腰を下ろす

ドアステップ近くの一人がけシートに座っているのは
昨年息子さんを事故で亡くしたハマダさんだ
横顔が澄み切って
懐かしい遠景を見るような眼をしている
ハマダさんも このバスに乗っていたのですね
私は視線で挨拶をし ハマダさんの無音の返礼を待つ

吊革に体重をかけるように立っているのは
晩秋 薬を飲んで運ばれたミカちゃんだ
ミカちゃんの指はささくれ立って乾き
長い爪がドライフラワーの花弁のようだ
私は あなたが弱いなんて思ってないよ
ミカちゃんは伏せた瞼を一瞬上げて
私の視線に応えてくれた

私の知らない老婦人が一人と
穴のあいたブルージンの若者が一人
ベンチ型のシートに座っている
発車はいつなのか どこまで行くのか
幾つの停留所に停まるのか
彼らは どこで降りるのか

バスは予定を持たずにやってきて
予定のない人だけを乗せて
急ぎもせず 緩慢でもなく
いつでも停車出来る速度を保って
薄暮の中を一艘の舟のように漂うのだ

無口で美しいバス
私にも理由があるのです
このバスに乗り合わせた 偶然を受け入れるだけの
私のつぶやきは バスの中をしばらく彷徨って消えた

発車します。
蝶のような薄い掌をひらりと挙げて
運転士がギアを入れる
バスは起きあがるように振動して 乗客の視線がわずかに泳ぐ
ハマダさんが体の向きを変えて 後方を振り返った
私を見ずに 遠ざかるバス道を見ていた

時刻表にないバスは
時を持たない人々をひろって
空のように果てしない時間をゆく
ハマダさんの瞳に映っている夕日は
まだ見ぬ街も照らすだろうか

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