嶋岡晨の「愛する日日のレクイエム」

「愛する日日のレクイエム」は、二〇一一年の震災直後、五月に刊行された嶋岡晨の詩集である。私は嶋岡氏には、学生時代に大学のプロ・ゼミの席で接して、強烈な印象を受けた思い出がある。同級生以外の詩人という存在にはじめて会ったのだった。その頃の私は、文学部、それも日本文学科の愚かな教室生の一人であった。四年生のゼミの前段階にあたるプロ・ゼミだから、参加者がいちいち発言を求められるのだが、学生のほとんどは無教養で、不勉強で、薄っぺらで、自分も含めて(この点は強調しておかないといけないが)、あまりにも愚かなことに、毎回私は絶望的な気分を味わっていた。先生の方も、たぶん同様だったのではないか。たいてい二日酔いらしい、薄赤い顔をして授業にいらしていた。何年か前に、閉店になる前の新宿西口の道草というスナックに二度ばかり行ったことがあるが、ママは嶋岡氏のことをよくご存知のようであった。

夜よ来い 鐘も鳴れ 漕ぐ腕もなく月日は流れ
壊れかけた世界のさまざまの橋をくぐり 時代は流れ
ぼくらのゴンドラは それでも緩やかに波まかせ

老いの詠嘆曲(ラメント)は止めよう
遠去かる思い出の窓窓 へたなソプラノ 気取ったテノールよ
ぼくらの生の核心は 移動しつづけながらも 齢はとらず
深く皺刻む木木のかげ若葉ゆらめき 白髪の岸辺 未知の草花ひそみ
色あせた遠景にも体験の花火あがり 波波あらたに揺れ

「老いた妻のためのバルカローレ」という題の、全八連の詩の最初の二連を引いた。
一連目は、言うまでもなく、人口に膾炙した堀口大學訳のアポリネール、ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ、われらの恋が流れる、という有名なフレーズを下敷きにしている。「夜よ来い 鐘も鳴れ」という冒頭の一行は、日も暮れよ、鐘も鳴れ、月日はながれ、私は残る、といった名調子を踏まえているだろう。 
二連めは、一転して「老いの詠嘆曲は止めよう」という、退嬰的な気分に落ち込むことを自ら拒否するところから始まる。さらに重ねて、「ぼくらの生の核心は 移動しつづけながらも 齢はとらず」と意力を示し、「深く皺刻む木木のかげ若葉ゆらめき 白髪の岸辺 未知の草花ひそみ」と、皺と髪の境涯にも、「未知の草花」はひそんでいるのだと言う。最後まで生を信じる立場である。つづけて最終連の詩句から前半を引く。

変わらない最初の想いは一世紀後の緩やかな河となり
運命が架けた脆い橋をも 二人してくぐり流れ
感謝賛歌(サンクトウス)を 風雨にしぶかせきらめかせ
落ちる瓦 崩れる石垣 折れる橋脚 それが何だろう

あらゆる絶望を振り切って、妻と二人が生きて来た事実を、以後の時間の豊穣へとつなげてゆく。大震災以後を生きる者にとって、これ以上の励ましの言葉があるだろうか。

彼方 見えない合唱団一〇〇〇人の子一〇〇〇人の孫たち
歌っている 舟歌
老いた妻よ きみはりっぱだ 不誠実でだらしなく役立たずだった
きみの名ばかりの夫の嘘八〇〇を許してくれ
これが無能な三文詩人の名人芸 さいごの曲芸!

一〇〇〇人の子、というのは、「古事記」のよもつひらさかの事を踏まえている。「無能な三文詩人」というのは詩人の謙遜で、よぼよぼのおじいさんになっても、こんな痛烈な皮肉と反語に満ちた詩集を出せる詩人が、三文詩人のわけがない。「きみの名ばかりの夫」というのは、たぶん家にいるより酒場にいる時間が長くて、ほとんど家にいなかったからだろうと思うが、戦後詩人の酒にまつわる武勇伝というのは、黒田三郎の奥さんの書いた本があったが、おとなしい我々の後の世代の真似できるものではない。そもそも戦争体験と、焼け跡での経験が、生の深度のようなものを規定してしまっている。彼らの酒の飲み方にも、それはあらわれている。何かに狂うにしても誠実に狂うのだから、道ばたで刃物を振り回すのとは、わけがちがう。こんな詩もあった。

ジュースのボタン押すと酒がどろどろ溢れ
煙草押すとラーメンがぞろぞろと垂れ
避妊具からは鼠どもが鳴きながら飛び出し
ATMはとめどなく紙幣を吐き出し
狂った自動販売機のむれ泥の海をひろげる

あれは顔のない通り魔 世界の未知なる主
どこの庖丁屋も売ってない殺意そのものを
思想のないきみの心臓に突き刺し 銃弾より早く走りさった
兇器は天を切り裂き沖へ落ちた 太陽の断片
シュレッダーさながら渚は 夢をこまかく裁断し
泡立つ言葉のむれを 倦きもせず押し返す 彼方へ
             「溺死者のためのセレナード」

「どこの庖丁屋も売ってない殺意そのものを/思想のないきみの心臓に突き刺し」。
これほどあの一連の通り魔事件の「溺死者」の本質を端的につかまえた言葉があるだろうか。三連目には、少し謎解きの言葉がある。

通り魔というより疾走する権力が投げ捨てた
兇器を探すには広過ぎる この共有する俗情の大洋

これも鋭い。まさに「俗情の大洋」に動かされて、自動的に人を襲ったのが、あの通り魔事件なのだ。そうして「疾走する権力」というのは、いわゆる国家権力とか、警察権力のようなものではない。たとえて言えば、最先端のネット検索エンジンが持っている力のようなもの、それを作者は「疾走する権力」と言っている。ここでは、個人の営みのなかに、気がつかないうちに忍び込んでいる「俗情」にも注意が行き届いている。これこそが、近代の詩人たち、たとえば中原中也以来綿々と受け継がれて来た詩人の文明批評・クリティックというものである。
集中には、「一匹の蚊に捧げるノクターン」とか、「蠅叩きのプレリュード」とか、ユーモラスなタイトルの詩がいくつも収められている。これらの自在な諧謔が、シュールリアリズムの手法によって得られた詩の言葉として機関銃のように打ち出される。しかも無意識にもたれた曖昧さはなく、詩句のいちいちが明晰である。

最初いったい何者の悪意が存在させたのか
蝿叩き
卑小な善人の魂の些細な傷や膿に
わたしらが執念(しつこ)くつきまとったからといって
「蠅叩きのプレリュード」

 
「卑小な善人」。こういう言葉をこの頃われわれは口にしなくなった。意力の衰えた善人の善意ぐらいタチの悪いものはない。そういう「善人」の言葉が満ちあふれているのが、ネット空間というものである。現代の耳なし芳一のための護符として、嶋岡晨の詩は、多少の効能はあるかもしれない。

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