財部鳥子・小説連載『航海日記』第一回

 

 


人はいつから死を想うようになるだろうか。
現役時代に雪子さんはロンドンの大英博物館で運動場いっぱいくらいのミイラを見た。一緒に行ったカメラマンのKは「おれは結構よ。ここでタバコを吸ってるからゆっくり見てきてよ」といった。彼はたぶんミイラが気持ち悪かったのだと思う。五十代の雪子さんはドキュメンタリー番組のディレクターをしていた。仕事でアフリカ大陸からの帰路だった。そのころは鼈甲のような色をして横たわるミイラたちと自分との回路はなかった。ミイラはミイラ、生者は生者。つまり想像力の不足していた時代だった。ミイラを見たのはジャーナリストとしての義務からだと雪子さんは考え、Kを職業意識に欠けて自己本位だと思ったりした。


当年八十歳の雪子さんは豪華クルーズ船に乗っている。六時半に目が覚めた。カーテンを開けてみるともうジョギングの身支度をした老若男女が遊歩甲板を流れるようにすいすいと歩いて行く。八時の朝食の前にロビーへ出て行ってモーニングティを飲むのが脚の悪い雪子さんの習慣だ。彼女は身をよじってベッドを滑り降りた。ベッドのふちを伝い歩きして椅子に身体を投げ込む。昨夜からデスクの上に用意させておいたフェイスタオルの入った小さな盥に魔法瓶の熱湯とピッチャーの水を注ぐ。この配合した湯の熱さに雪子さんの激しい好みがある。手をやっと突っ込めるほどの熱さである。タオルを引きあげてぎゅっと絞る。じっと握って入られない熱さ。それを広げるやいなや顔を蒸すのである。持続した熱さが目の周り、おとがいの柔らかい肌に沁み入る感じはこの世の快楽に似ていた。しばらくじっとしていてやがて顔全体を拭くと上気した素顔が現れる。そのときの無表情の顔は眉にも唇にも色がなく、痩せていて、ミイラの二千年の諦めきった世界を担っているようだ。雪子さんは化粧水をコットンでていねいに塗布する。目のまわりの深いしわ、口元のしわ、こめかみの茶色の染み、首筋のしわ、もう隠しようもないけれど、隠せると彼女は信じて化粧のテクニックを駆使する。口紅はかなり濃く赤く塗られた。それでミイラから二千年も遠くに存在する気持ちになれた。ふわりとしたバイオレットのブラウスと灰色のスラックスは昨夜、長椅子に出しておいた。引き出しから宝石のバッグを出して猫目石に金をあしらったネックレスとイヤリングをつける。それは彼女の華やかになった顔を地味目に落ち着かせる。引出しの鍵を閉めるとグッチのバッグを腕にかけ、壁に立てておいた赤い杖を持って低いパンプスに足を突っ込んだ。まるで出陣である。ドアのそばの鏡に全身を映す。腰と脚のまがった老女がキラキラした飾りをつけて、杖を握った指には小さなダイヤを光らせ、薄青いレンズごしに微笑んでいる。もちろん老眼鏡である。


ダイニングに通じる歩廊は片側が大きな窓である。窓に沿っていくつものテーブルがあり、そこで早朝はアーリーモーニングティが供される。ウェィトレスはロシア人でたいていは金髪に青い目で背が高い。その一人のマリアがにこにこして「マダーム、おはよございます」と近寄ってくる。「クッキーを一つね、そしてティ」と雪子さんはいう。この船ではモーニングティにクッキーはつけないが、これはマリアが特別にどこかから出してくるのだ。まず口の中に唾液を誘い出さなければ紅茶は飲めないと雪子さんは頑固に信じているのだった。木の実が入った小さなクッキーとティポットが出てきた。椅子に寄りかかって窓に眼をやると、一望して灰色の海ばかりが見えた。船がどこを航行中なのか雪子さんには興味がない。どうせ日本列島の周囲を回っているだけなのだ。しかし眼路のかぎりが大量の海水だというのは気が晴れるものだった。船に乗ったからといって何をしようというのでもなかった。海を見たいからといってもあまりに平凡すぎてそうではないように自分でも思う。海を見るといっても、毎日、船の十一階にある甲板のプールの傍のデッキチェアに海水パンツのまま凭れかかってしみじみと航路を眺めている老いた男のようには眺めたくない。雪子さんの習性であるカメラ越しの目線で眺めればそれは見るからに退屈を覚えるようなことだった。雪子さんなら十二階に聳えているガラス箱のようなバーの窓から少し酔いながら眺める海のほうがいい。その場所で潮流と船のエンジンの震えが合奏しているような音楽的な揺れを見せてくれる波を見たい。ダイニングへ通じるプロムナードの窓から覗く海はこれといって個性があるわけではない。窓で区切られているので海は海のようには大きくない。だからこそそこには何もないと同様で落ち着くのだった。クルーズ船は二万トン以上ある。いってみれば十二階建てのビルのようなものでいま雪子さんは七階で紅茶を飲んでいる。そろそろ船客たちが朝食に向かう時間で人通りがはげしくなる。雪子さんに挨拶して行く人もいる。「おはようございます」と雪子さんも笑顔を向けるが顔見知りというだけで誰だか知らない。ほとんどが老人で、話し出せば現役時代の自分にどんなすばらしい社会的地位があったか、現在どんなに係累が出世しているかなどという自慢話がちらちらと出てくる。


この船は日本船だけれど、雑役や掃除係やボーイたちはフィリピン人、バンド演奏もそうである。バーやカフェのウェィトレスはロシア娘だった。
朝のダイニングの入り口には白い制服のほっそりした中年の日本人マネージャーが迎えているが、ほかに緑色の制服のフィリピン人ボーイたちが二、三人、助けが必要な船客をフォローするために待機している。
雪子さんもそのなかの一人に腕を取ってもらう。「グッドモーニング、お元気ですね」とボーイが笑顔でいう。
「元気よ、あなたも?」
「イエース」。色の浅黒いがっちりしたこのボーイはジョージという。ほかにもケーンとかフランとかチャールスとか彼女の顔見知りは数人いる。彼らは彼女を椅子に坐らせ、彼女の赤い杖を折りたたんでテーブルの下に引っかけてくれる。バイキング形式の朝食のときは料理を運んできてくれる。雪子さんは食べ物に興味がないふりをしている。体重が増えると不自由な足に負担がかかるので警戒しているのだ。ほんとうは美味しいものには目がないほうだ。
「サラダ、クロワッサン、トマトジュース。それでいいわ」
「オー、ソーセージ、ポタージュ、エッグはいかがですか」
「いらない」
「オーケー、オーケー」
雪子さんは英語を話せるがフィリピンボーイには日本語しか使わない。ときどき日本語が通じない相手にあきれるけれど腹も立てない。ただシャンデリアが無数に下がった豪華客船のダイニングにいてもこのボーイたちを相手にしていると、場末の食堂にいるような気分のすることがあるのが欠点だと思っている。
食事が終わってプロムナードへ出るといくつかの店舗が開店準備中である。雪子さんは図書室へいって新聞を読む。海上にいるのだから今日の新聞があるわけもないが、そこのアールデコ風の肱掛椅子がいい。上海の和平賓館にも同じデザインの椅子があったっけ。腰掛けるとじつに心身ともにリラックスできるのである。そして三日前に寄航した港の旧い新聞をひろげて見慣れた文字をたどるのも船旅のよいところだと雪子さんは気に入っている。
雪子さんの船での旅はもう四回におよぶ。ずっと独身で仕事一途のテレビディレクターだった彼女には家族といっても誰もいない。未亡人になった老いた妹が最初は船旅の道連れだったが、彼女は姉の面倒を見ながら退屈な船旅をするのを二度目からはことわった。雪子さんが口やかましいのと毎日同じ生活を二週間あまり続けるのに耐えられないといっていた。口やかましいといわれて雪子さんは少し反省したが、半世紀ほども離れて暮らしていれば五つ違いの妹は赤の他人なのだと認識した。けれども自分の生活の流儀を変えようとはまったく思わない。甥も姪もそういう雪子さんを敬遠した。というよりも壮年になった彼らには空いている時間とてなかった。
次にはテレビ時代の親しい女友だちを誘ってみたが、その人は足の不自由になった昔の友人と旅をしたいとは思わなかったらしい。万事に手数がかかると遠慮したのだろう。費用はこちらで出すからといっては失礼だと雪子さんは口に出さなかったが、心積もりとしてそれを匂わせた。じっさい一人でも船室はツインを取るのだから二人分近い費用を見込まなくてはならないのである。


白い船体が秋の日を浴びて停泊しているのは地味な漁港の風物のまえでとりわけ際立っていた。日本の列島を一周しながら三日に一度くらいは寄航する。この美しい白亜のビルのような高層の豪華船を歓迎するセレモニーが港々で行われた。雪子さんはセレモニーを八階のデッキから眺めた。
小学生たちが手に手に風船を持って岸壁に並んでいる。少しもじっとしていない。仲間とじゃれあっているうちに赤い風船が空に流れた。わぁっと追いかけて行こうとする数人が女教師に止められていた。
船客たちのためのセレモニーテープがスーパーの買い物籠のようなところへ入れて運ばれてきた。出港の短い汽笛が鳴って、船が少しずつ岸壁を離れるころに雪子さんは青いテープを確保して杖を足元に置き、舷側にしっかりとつかまりそれを投げた。他の船客の投げる赤や青や黄色のテープがいっせいに流れた。風が出てきたのだ。雪子さんはテープをもった右手をふりまわす。左手はよろけそうになる体重を手摺で支え続けねばならない。風が吹き上げるようにさわぐので色とりどりのテープが空中で絡み合っていた。何かを掬う大きな美しい網のように見えた。子供たちはいっせいに風船を手放した。そして落下するテープを拾って船を見上げ手を振っている。
「かわいいわね、さよなら、さよなら」
雪子さんは涙ぐみテープを捨てて小さく手を振る。大きく振ればよろよろするから。何だか遠い思い出のなかにいるような気がするのだった。それはどういうときだったのか思い出せないが彼女も登場人物のひとりの子供だった。港の風物はどんどん遠ざかった。子供たちはまた整列をはじめるがきちんと隊列を組む緊張感は空中に霧散している。やっとひとかたまりになった子供たちは教師に引率されて歩き出した。
「これは社会科の勉強でしょうな」大学教授だったというI氏が雪子さんにいった。
「今日は月曜日でしたね」
「うちにも孫がいてちょうどあれくらい、ええと二年生か三年生くらい」
「恐れ入りますが杖を拾ってはいただけませんか」
雪子さんは美しい笑顔になった。笑顔だけがわたしの取り柄であると彼女は思っている。
その笑顔で有無を言わさずI氏の役目を知らせてやる。じつは彼の孫の話題に続ける言葉を持たないのでもう部屋に帰るつもりだ。
孫というものとさっき岸壁に列を組んでいた子供たちとはどう違うのか。彼女の妹は子供にも孫にも執着はないらしくさっぱりとしていた。しかし妹が孫を話題にしないのは姉の機微にふれるので遠慮しているのだと雪子さんは思わない。孫を話題にしないのが妹の唯一の取柄だと思っているだけである。
「失礼をいたします」
雪子さんは丁寧に挨拶をして非常に身体の曲がった老婆にもどって杖を支えに地を這うように歩き出した。突然彼女は醜い虫に変身したように見えたが、長身のI氏は気づかぬ振りで「お気をつけて」と見下ろした姿勢のまま目送した。そう、彼はというか、日本の男は彼女が仕事で行った欧米の男たちのようにフランクかつ親身に女性の世話をすることが出来ない。I氏の夫人は肥った背の低い老女で看護婦時代には選ばれてアメリカへ留学し、そこでやはり留学中のI氏に出会ったといったけれど、二人は典型的な日本の夫婦だった。I氏は夫人をお供のように連れていた。
甲板から船内に通じる重いドアをボーイに開けてもらって部屋へ帰る。雪子さんの部屋はセレモニーをみていた八階甲板のドアからも洗濯室からもエレベーターからも近い。人の往来でにぎやかだが、歩く距離の少ないのが脚の悪い老女には便利だった。


プロムナードのテーブルに午後のお茶に行くとマリアがきて、
「プチケーキはどれに決めましたか。お飲み物は?」という。
午後のお茶の時間にはさまざまなケーキが出揃っている。
「チーズケーキに決ってるでしょ」
「あら新しいケーキありますよ。見ませんでした?」
「見てない」
「それはマロンケーキです。マロン好きですか」
マリアの声は少しかすれていて深い。雪子さんはその声を聞くと思い出す。シベリアのタイガだろうか、凍てついたモスクワだろうか。想像の視野がどこまでも広がるようで気持ちがいい。
「やはり、チーズケーキがいいわ。ウィスキーのシングルとレモンティーもね」
「はい、今日はアルコールを飲みますか。雪子さん」
「そうね、昼寝をしようと思っているの」
「ゆっくりお休みをしてください。夕方はカクテルパーティですからね」
ピアノの流麗な音が階下から上がってきた。
「グレゴリーね。音がそうね、甘い甘い」と雪子さんはいった。
マリアには意味不明のようだった。
「雪子さん、この音楽好きですね」
それは半世紀前に流行ったシャンソンの「今宵ただひとり」だったが、フィリピン人の彼が弾くと装飾音が入りすぎたコンチネンタルになり、しかし甘い憂鬱な気分は尾を引いていてそれは雪子さんのウィスキーの酔いに添加された。チーズケーキとウィスキー入りのティもいいけれどもっと荒々しい食べ物がいいのではないか。鰯の酢漬けとか。
カクテルパーティが始まるまでプロムナードの奥のバーで粘っていてもいいけれど、夜の服装はフォーマルに決っていたから彼女は着替えのために船室へ戻った。年を取ると飲み食いの欲望しかなくなるのだろうか。雪子さんはお洒落も好きだけれどその目的は美しいドレスでテーブルに付くことである。男の目を引くということを諦めたというのではなく、男への興味がまるでないのだった。ただ実存的な趣味はある。親切であまりおしゃべりでなく、行儀がよく、清潔で、けっして歯をせせったりしないなどと。
薔薇色のスーツに薔薇色の薔薇のコサージュ、朝からずっとつけている猫目石のネックレスに金の鎖をプラスして金のブレスレッドをつけた。靴はブルーのエナメル。指輪は「ええっと」と考えているうちに非常に眠たくなり、時計を見るとまだ五時だったのでそのままベッドに倒れこんだ。
「寝過ごしてはいけないわ」とつぶやくより早く眠ったらしい。


ドアがガタガタと鳴ったので目が覚めた。雪子さんは急いでドアを開けようという気持ちから遠ざかって四年経つ。四年前に膝が座礁した。だからべッドの上で身をよじり滑り降りた。靴ははいたままだったので、そのままドアに近づく。
「どなた?」
雪子さんは腰が伸びないので覗き穴を見ることができない。
「マリアです」といっている。
「ああ、マリア?」
ドアを開けると背の高いウェィトレスが笑顔で立っていた。
「雪子さん、ロシアンバーが開きましたよ。キャビアと鰯の酢漬けはいかがですか」
「どこなの?」船がローリングを始めたので雪子さんはドアに縋りついた。
「七階メイン・ダイニングの隣です。お連れしましょう。きれいなドレスですね」
「ちょっと待って」と雪子さんはいった。
少したたらを踏むようにして化粧室へいった。そこで顔をなおして栗色に染めてある髪をととのえた。バッグは真珠色のビーズ。指輪は猫目石にした。赤い杖をもって出て行く。
マリアは雪子さんを小脇に抱えるようにしてエレベーターに押し込み、また抱えるようにして七階のゆらゆらする床に置いた。マリアについて行くとピアノ室の横に細い廊下があって覗くと暗い電気のついた店があった。
「バイカル湖のキャビアがありますよ。はい、どうぞ」
マリアは雪子さんを坐らせると杖を短くして椅子の背にかけて行ってしまった。
五つのテーブル席と止まり木の椅子が七つあるカウンター、なかには男と女の若いロシア人が働いていた。この船は三十年も前に乗ったことのあるソビェト船に似ていると雪子さんは思った。そう、ザ・バイカル号だ。なつかしいザ・バイカル。
さっそくコニャックとキャビアと鰯の酢漬けを注文した。金髪を山のように盛り上げた鼻のそりかえった女バーテンが「ダー」と答えて、グルジャ産の七つ星はどうかと聞く。女バーテンの肌からは動物油脂の匂いがした。雪子さんは頷いた。女バーテンは赤いラベルのボトルをカウンターに出して一杯注いでくれた。非常に乾燥してそりかえった黒パンにキャビアがどっさり載った一皿が目のまえに。
「水もちょうだい」と雪子さんはいった。
船はひどく揺れてきた。
カウンターには三センチほどの囲みがついていてコップなどが揺れで滑り落ちないようになっている。パンの上に載ったキャビアをパンごとそっと頬張ると、雪子さんの唾液はすっかりパンに吸取られてしまう。そこへコニャックを流し込む。強烈な香りが鼻へきた。
雪子さんが鼻の脇にしわを寄せてブランデーグラスを抱え込んでいると、
「お嬢さん、その酒のアルコール度を知っていますか」
カウンターの端の暗がりにいた青年が椅子を下りて雪子さんのそばへやってきた。この店に他の客はいなかったからお嬢さんと呼ばれたのは雪子さんだろうか。八十歳になる老人をそう呼ぶのはまぁ悪くはないけれど、雪子さんは知らん振りをした。青年は隣の椅子にやってきてなおもいう。
「七十度、つまり七十%がアルコールですよ。強い酒ですから口へ放り込むようなそんな飲み方は止めたほうがいいですよ。歩けなくなっちゃう」
「ご心配有難うございます。でもわたし案外に飲めますのよ。さっきウィスキーを一杯いただいてちょっと眠って、まだ飲み足りないのでここへ連れてきてもらったの」
「あれ、呑兵衛なんだ。それならご注意は不要でしたね。ごめんなさい。ところで僕はソビエト経由でフランスへ行くのですがあなたはどちらへ」
「わたしはナホトカへ上がってイルクーツクまで」そういうと雪子さんは突然月日がねじれるような気がした。 ソビエトへ行くなんて! もうそんな国はないのに!
「何しに行くんです。そんな辺鄙なところへ」と注意する青年を見るとビートルズ風に長髪である。雪子さんはずっと昔の若い気分になった。
「イルクーツクはお仕事ですよ。もちろんバイカル湖へも観光に行きますけれど」
隣に席を移した青年はウオトカを飲みながら胡瓜のピクルスをつまんでいる。
「お嬢さんの仕事って何ですか。そんなに遠いところまで行くなんて僕には分からない」
「あら、わたしをお嬢さんだなんて!」
雪子さんの声はなんだか艶めいてきた。
「じゃあ人妻ですか。それともスパイですか」と青年は一昔前のジョークを言った。
「何でもいいじゃありませんか」
雪子さんは腹が立ってきた。青年の下司な女性観が分かった気がして鼻白んだ。
「よくないですよ、たった一人でシベリアへ行くのは人妻かスパイですよ」
「なにが人妻よ!」と雪子さんは若い女のように怒りを発している。
「でもまぁスパイは許してもいい」雪子さんはバーを出てよろよろと歩く。
小脇には赤い杖と七ッ星のコニャックを一瓶抱えていた。  (つづく)

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