白蝶

あの頃
十二の息子は苛烈な受験を勝ち抜くため
大きなナップザックで毎夜 塾と家を往復した
混雑したホームで
京浜東北線下り電車を待っていたのだった
「ホームの先頭に並ばないで」
狂気な事件が起きるたび 念を押していた
私の言葉に倣い
息子は列の後方で歴史の年号帳に目を落としていた

ホームは
暗い海に浮かんだ人工島のように
無機質な明るさで雑然としていた
台風の接近を予感する雨が
ホームの中ほどまで吹き込んでいた
息子は
上目で暗い空をみやった

遠くから線路が低く鳴って
アナウンスがひときわ高く響き
雨が強くなった
電車は遅れていた
いつもの夜だった
電車が緩慢に滑り込んできただけだった

その刹那
息子の傍らを何かが走った
兎のような白く敏捷なもの
それは彼の右肘に僅かに触れた
年号帳が落ちて転がる擦れた音に交じり
吐息のような声が
急速に細まって闇の中に吸い込まれた

その後の時間は硝子片のごとく
粉々になり
無秩序に散らかった鋭利な断片を
危なげに繋げながら
想像するしか私にはすべがない

電車は急停止し 人が泡のように膨張し
奇声と興奮が熱気となって 雨を水蒸気に変え
夜のホームは一個の生命体のように俄かに活気づき
生温かく息子を呑んでいった

遅い朝刊を玄関で待って
廊下で立ったまま開く
下段の隅にそれはあった
「十九歳、女子学生、即死、電車、上下線で九十分の遅れ」
息子の見た白い躍動は
単語の羅列で輪郭を表す

息子は三日間、発熱し嘔吐し
吐息の意味を掴みあぐね
白目をむいて昏々と眠り続けた

少女は純白のワンピースを着て
息子の後方に立ち
まるで夏の砂場の
跳躍のような快活さで
生の境界を超えたのだった

あの時の少女と同じ十九になった息子は
ペン先もまともに見ることができぬ
先端恐怖症である
真夏の譫妄と 繰り返す胸騒ぎは
尽きぬかに思えた吐瀉物とともに
吐き流されたが
物事の終わりを連想させる切っ先は
彼を永遠に寄る辺なくさせた

京浜東北線下りホームで私は
焼けた線路にとまっては舞い上がる
白蝶の飛翔をみた

停滞した熱波で
線路もゆがむ眩惑グレアの季節が
また 東京まちに来たのだ

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