造本の旅人・5 『猫の事務所』宮沢賢治

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造本を、と考えたとき、何か一冊は宮沢賢治を取りあげたいと思った。私にとっての宮沢賢治は少々変形した思い入れのある作家だ。

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最初に読んだ賢治の作品は「なめとこ山のくま」か「注文の多い料理店」だったと思う。けれど、「宮沢賢治」という名前がはじめて視界に入ったのは、数少ない生家の蔵書の中の、ポプラ社の子どもの伝記全集の一冊としてだったと思う。
その伝記シリーズの中で、とりわけよく読んだのが賢治の伝記だった。採石用の小さなハンマーを持ち歩く石コ賢さん、「ずんばい」の実を風呂敷にいっぱい拾ってきてしまう賢さん、「夜の学校」でレコードを聴きながら持ち寄りの餅をストーブで焼いて食べる賢さん、訪ねてきた生徒に、井戸のつるべを上げて、冷や飯の醤油がけを振る舞う賢さん。繰り返し繰り返し読んだ伝記の、これらのイメージは強く印象として残った。私にとって宮沢賢治は、作品より先に伝記で出会った作家、ということになる。
小学校の高学年になった頃、「オッベルと象」や「注文の多い料理店」の朗読テープを授業で聴かされるようになり、作品そのものも読むようになると、そうした賢治の作品世界は、伝記の中のできごとと地続きのように感じられた。ざわざわいう森や、鞭をうならせたり、泣いて星になってしまったりする動物たちは、賢治の森の住人で、見えないような暗がりにひっそり隠れていたものたちのことだと思っていた。

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今回の造本のポイントは表紙の印刷にある。これはプリントゴッコでおなじみの理想科学が開発したリソースクリプトというシステムで印刷したもので、仕組みとしてはガリ版刷りになる。
原紙の下にヤスリ板を挟んでガリを切り、原紙の上にインクを塗り、紙を敷いて上から圧着させる。ガリ版と違うのは原紙を切るものが堅めの鉛筆で、細かい印字に対応していないことと、やはり原紙の違いから、早い段階で目詰まりを起こすため、大量の印刷ができないこと。取扱説明書にも一枚の原紙での印刷可能数は「最大で20枚ほど」と記載されている。

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左)リソースクリプト本体 右下)原紙 右上)箱 印刷はローラーではなく、本体を上から手で押さえて行う。

インクも付属のもので、油性のため多少のニジミがある。「宮」を猫の後ろ姿、「猫」「事」を猫の眼模様にしたつもりが、鮮明さには欠ける仕上がりになってしまった。
リソースクリプトはもともとの用途が絵手紙用ということもあり、手軽さがウリのもののようだ。原紙の保存もきかないし、インク止めもないため、いろいろと使い捨ての要素の多いツールだった。

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「猫の事務所」は事務所に詰めた猫たちの小さな世界の物語で、急にすぼまったように終わるラストが童話らしからぬ不条理感を突きつける。
いや、そうではないのか。童話はもともと不条理なものなのだ。ライオンの一声で閉鎖される事務所はもとより、あらぬ噂により大事な仕事を奪われた「かま猫」氏の不条理さ、けして届かぬ前脚で、床に落ちた弁当を拾おうとする虎猫の不条理さ。勧善懲悪であって欲しい期待は裏切られ、もっと大きな暴力的なものによってすべてが失われる虚しさが、批評性や寓話性にストップをかけたような格好になっている。

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本文はOrdano明朝を使用。インク色全体を桃色→青のグラデーションにした

題簽は最近読んではまっている「描き文字のデザイン」(雪朱里著/グラフィック社)に影響され、手書きのタイポグラフィをスキャニングして印字した。描き文字って楽しい。今後もより描き文字装に精進したい。

ともあれ、私としては「かま猫」氏に敬意を表し、箱を原簿のかたちに仕立ててみた。
この原簿は、もう誰にも奪われない。かま猫氏ただひとりのための物である。

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[DATA]
本体 W49 D10 H66(mm)
箱 W58 D20 H74

本体 表紙 ポルカ アケビ 70kg
見返し ビオトープGA-FS カカオビーンズ 60kg
本文 コミックマガジン<69>
箱 表張 スキバルテックス オーストリッチ 黒
  背張 製本用クロス コットン生成
  内箱 ブンペル ホワイト 55kg

函題簽 リサイクルPPC用紙

表紙 リソースクリプト(ガリ版印刷)
本文 カラーレーザープリント
函題簽 モノクロレーザープリント

四方山話「造本の旅人annex」はコチラ

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