展示会期前半が終了致しました。

展示会期前半が終了致しました。お陰様で遠くは沖縄や富山、大阪からいらして下さったり、懐かしい方々や初めましての方にお会いでき、展示というものは時間的にも体力的にも精神的にも奪われて本当にクタクタになるのに、やはり久し振りにやると楽しいことの方が絶対多いですね。会期も後半に入るので少しだけ組の例をアップさせていただきます。

今回のQuodlibetは上下で1組の写真。上段がいわゆるメロディラインで、私の写真、下段がベース的役割のカマウチヒデキ氏の写真です。
1組から感じて頂くストーリーはご想像に委ねます。来週末23日土曜日と24日日曜日は日暮れ後、音楽に合わせて互いの過去作品含め10分弱のスライドショーを放映する予定です。クリスマスですがお近くにいらした際にはぜひにお立ち寄りください。皆様のお越しをお待ちしています。

展示の前半が終わり、カマウチの作品は、何を撮っているのか?という質問が多いのですが(特にポーオフォリオ二冊)、私は先にイメージがあって撮るのか、という質問と何で撮っているのか、と、撮り方。
今回はフィルム、デジタルともにフィルムスキャン、補正のみのストレート、それから多重、合成もあるし、フィルムとデジタルの合成もあります。
フィルムとデジタルの合成の際は、どうしてもフィルムの粒子とデジタルのノイズ感、合成するものの大きさで違和感が出るのでフィルムの粒子に合わせてデジタルのノイズをハイライト、中間部、シャドー部、それぞれ調整しています。
そして、先にイメージがあるか、という質問は半分イエス。その時にはその創りたいイメージに近づけるためにどう制作すればいいのか、を考えて、それによってどの媒体を使うのかを決めています。
けれど、元写真をセレクトしている間に一瞬捨て写真になりそうなものに閃きが生まれて、レタッチでも10分でできてしまう事もあれば、三日から一週間かけてほぼ完成に近づいて、なんだかつまらないな、とオジャンにする事も多々。
見せたいイメージに近づけるために、デジタルだろうがフィルムだろうが、多重だろうが合成だろうが手段はとにかく後付けです。

カマウチは本をよく読みますが、私もカマウチ程ではないけれど好きな作家はとことん読むタイプ、昔、短歌を、詠む、でなく、読む事にハマっていた時期があって、作品のラフスケッチ的なイメージは、好きな作家や歌人さん、詩人などの文章、短歌、詩から、色味や実際の作風は好きな監督の映画の影響はたぶん受けている気がします。

さて、長くなりますが今回二人展の相方カマウチが今回の展示に関し書いたものをそのままご紹介させていただきます。

—Quodlubetについて(カマウチヒデキ)

野坂はいうなれば自分の頭に描いた完成図に向かってコツコツと自分の写真を磨いていくタイプ。
カマウチは自分の美意識を信用しない、つねに外からのノイズを受け入れながら撮るタイプ。
そういう意味でも真逆な制作姿勢の二人が、同じ壁面に展示をしたら、これがまたなぜか不思議な共鳴を起こします。
時間を編む野坂と時間を解剖するカマウチ、という対比もあり。
ベクトルの異なる抒情性が複雑に絡み合って、クォドリベットを歌います。
クォドリベットは「別の歌をせーので一緒に歌う遊び」。
ちゃんと「聴ける」ものに織りあがってますので、ぜひぜひ見に来てください。

僕の写真にはやたらと昆虫が登場します。たまには生きているのも写ってますが、たいてい死んでるか、瀕死です。
蝶が多いですが、バッタ類も多いし、特に昆虫の種類に特別なこだわりがあるわけでもありません。
蝶に何か比喩的な意味を求めているわけでもない(性的なものの比喩とか、死蝶=折れた翼=夢破れた状態とか 笑)。
蝶が多いのは「なぜかよく出会うから」です。しかも、どちらかというとずっと下ばかり見て歩いてることが多いので、飛んでいる蝶よりは死にかけに出会う確率のほうが高い。
今回展示している「瀕死で交尾するボロボロの麝香揚羽」なんて、道脇の草むらなんですが、自転車で高速で飛ばしながら目の端で見つけました。どれだけ蝶センサーが鋭敏なんでしょう(笑)。

昆虫の死骸が多く登場するのは、ひとつは、やはり人間も昆虫も含めて、生物が「生きる、そして死ぬ」という現象に対する興味、謎、畏れ、のようなものが常にあるから。
ふたつめは、人間と昆虫が、同じ「生物」という括りに入るものなのに、あまりに「生きる仕組み」が違う。昆虫には人間みたいな「心」だとかはなさそうです。なにかもっと別の仕組みで生きている。
心以外のシステムで生を営むものへの非共感性。なのに、同じ「生物」という括りに入ることの不気味と、わけのわからなさ。
そういうものに惹かれるからだと思います。

野坂と僕の写真ユニット、「Quodlibet」は今回が2回目の展示になります。
最初は2014年春、大阪Acru Gallery。
どうして二人でやろうと思ったのか、どうにも思い出せないのですが。Flickrか何かでお互い知ってて、でももしかしたら一回も会ったこともなかったんじゃないか。
いや、2011年に僕がギャラリー・ライムライト(大阪)でやった個展『BC』を野坂が見に来てくれたと言ってるので、そのとき会ってるのか?(記憶にない)
あれ、新宿ゴールデン街で一緒に飲んだ記憶が、今唐突に蘇ってきました。
そのときが初対面かも? そうだった気がする。
なんせはじまりはちゃんと思い出せないのですが、そんなに顔も合わせたこともないくせに、なぜか、二人展をしようという話になりました。
webでしか知らなかった時代から、お互い何か通じるものがあったのですね。じゃないとしませんよね、二人展。

作風も全然違うし、写真に対する考え方も全然違うし、でも二人並べたら面白い空間が生まれる。双方にそういう勘のようなものが働いたのです。
ユニット名はバッハのゴルトベルク変奏曲の第30変奏「Quodlibet」からつけました。二つの歌を同時に歌う遊びという意味だと、何かの本でたまたま読んだあとだったからです。野坂もその曲が好きだと言うので即決でした。

実際の第一回展ですが、ちょうどその頃、野坂がなんでだったか長期的な体調不良に襲われて、あまり話し合いもままならないまま、とにかく出展写真だけは揃えてもらって、僕一人で搬入に向かいました。
そのときたまたまギャラリーに来ていた成田貴亨さんを巻き込んで、成田さんと二人で並び順から考えた記憶があります(成田さんありがとございました)。
野坂が上列で僕が下段という展示方法はもともと考えていたのですが、野坂がメロディライン担当、僕がベース、という明確な役割分担は、展示してみてはじめてはっきりした感じ。よりわかりやすくするために僕の写真は床面に直置きにしました。
そのかわり、コの字型の展示スペースの奥の部分だけ僕の写真が単独で上位置に上がるという、曲途中のベース・ソロ、みたいな構成。そういう意味では第一回目の方がより「音楽的」だったかもしれない。
床置きの写真が見にくい、という意見をもらったり、いやあれはあれで面白いと言ってもらったり、賛否あった展示でしたが、Acru Galleryのたたずまいにも合って、自分では(会期途中に来た野坂も)良い展示だったと思っています。

体調不良で展示そのものを楽しめなかった野坂の要望で、東京でも巡回展をしようという話が出ましたが、なんだかんだで延期に延期、のびのびになってしまったので、もう巡回展じゃなくて新しい展示にしましょう、ということになったのが、今回の『vol.2』です。
第一回展と打って変わって、今回は野坂がぐいぐい主導で引っ張ってくれた感があります。
第一回展のメロディ担当とベース担当、という役割はそのままに(逆は作風的にありえない)、開催場所のQUIET NOSEさんのオシャレな作りも相俟って、第一回よりも端正な展示になったと思っています。
今回は奥コーナーの僕のベース・ソロがありませんので(会場に「奥の壁面」がない)、真ん中で僕が目立つ場所がない(笑)。
なので、前回ほど「ベースに徹する」のはやめて、ベースはベースなりにvocal担当にぐいぐい絡んでやろう、という作戦?です。僕は勝手にカマウチ・ミック・カーン化計画と呼んでいます。野坂はデヴィッド・シルヴィアンですね(わかるひとにしかわからない)。

ギャラリー「QUIET NOISE arts and break(クワイエット ノイズ アーツ アンド ブレイク)」http://www.quietnoise.jp/

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