さいかち真「詩に賦活される」

 久しぶりに安井浩司の全句集をひろげた。私は本を読む時にパッと適当に真ん中を開いて、目に飛び込んできた場所から読み始める癖がある。そのため、いつも『全句集』では『霊果』と次の『乾坤』の間を行ったり来たりしてしまう。見えたのは、『霊果』(一九八二年刊)に所収の

苦しみの家柱(はしら)にかりん投げられて

という句だ。この柱は、床柱のイメージがするが、「家柱」と書いて「柱」に「家」を冠すると、何となく〈家長〉を連想させる。苦しむ父。そこに「かりん」を投げつけるのだから、家族や血縁との諍い、息子の反抗、などの状況が設定できる。かりんは青く、あくまでも固く、ここに葛藤し、懊悩する人間のイメージが、あざやかに浮かび上がる。がつんと音を立ててぶつかる青実は拒絶的で、断固とした敵意を感じさせる。父はひどく苦しんでいるのに、かりんの礫まで浴びなければならない。火宅に七転八倒する身には沁みる言葉だ。これに次の句が続く。

白煙をおもう首無きかまきりが

 農作業の鎌などによって首を切り払われたか。両手の鎌をもたげた攻撃の姿勢のままに、羽根をざんばらと拡げて立つかまきり。こんなふうに白刃を一閃して、苦しむものの当体、苦悩のかたまりを切り払ってしまわなければならない。その時に「白煙」と化したかまきりの脳中の思考は、まだそこいら辺を漂っているかのようだ。妄念の恐ろしさである。それは同時に〈私〉自身の朦朧とした思念の比喩ともなるであろう。

 二句は連句ではないのだが、並べて読むと私の頭のなかに発火するものがある。この二つの句の間にある非連続の連続に、読者である私は、自らの内側に反響するものを見出して癒される。「白煙」は視覚化された空無であり、それによって「苦しみの家柱」が消去されるような爽快感がある。さらにここでは、同時に〈かまきりの攻撃的な姿〉の空しさと、それを抹殺する行為の〈無根拠〉性を暴き出しているように思われる。これは禅機の感じられる〈否定性〉である。『乾坤』の後記に安井は次のようなことを書いている。
「前著によって私自身の高さを仮設し、本著によって幅を模索するような(ママ)合となったが、いずれにしても『霊果』によって揺り起こされた精神の原理性を、さらに追い上げた恰好となっている。」

 ここでのべられた「高さを仮設」する作業として、私がここに読解のための仮説として示した〈否定性〉が〈無根拠〉であることの探求的な闡明がある。ここに自罰的なニュアンスの戦慄が生ずるのである。

 それを作品行為の中で押し進めてゆくと、一般的に人が現実と呼びならわしているモノゴトは、安井浩司の場合、おしなべて、これも私の用語でいうと〈幻相〉(げんそう)としてあらわれるほかはないのである。

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