造本の旅人・8 『Incidents』ROLAND BARTHES

ロラン・バルト「Incidents」は1968年から1969年のあいだにモロッコで見聞したことを記録し集めた小文集。作者の死後、「La lumière du Sud-Ouest」(南西部の光)「Au Palace ce soir…」(パラス座にて、今夜…)「Soirées de Paris」(パリの夜)とともに纏められ「Incidents」(偶景)として1987年に刊行された。邦訳は1989年にみすず書房から刊行されていて、それぞれの邦題は邦訳本からのものになる。
題となったIncidents(アンシダン)は英語のインシデントにあたるもので、突発的、偶発的な事故や出来事であるアクシデントに対して、ごく些細な出来事を指す言葉になる。邦題「偶景」は翻訳者沢崎浩平によるものだ。

内容はモロッコの道ばたや広場、街角で通りすがりに見聞きした人、物事を記した短い文章で、原著では文と文の間が○記号で区切られている。短いものは2行、長くて10行ほどのこのテキストは、エッセイというには短く、小咄と呼ぶには筋書きがない。観察文のようでもありながら、少しの批評や皮肉のこもった表現も散見する。旅の喜びを短く表す、綺麗なものを拾い集めた、といった性格のものでないことは、読み始めてすぐにわかる。
文章はとても簡潔で、そっけなくて、ある意味容赦がなく、しかしなんの誇張もない。

Un garçon fin, presque doux, aux mains déjà un peu épaisses, a soudain, rapide comme un déclic, le geste qui dit le petit mec : faire sauter la cendre de cigarette d’un revers de l’ongle.

手はもうすでに少し分厚いが、華奢で、ほとんどなよなよとした少年が、突然シャッターのようにすばやく、男であることを表す仕種――爪の裏でたばこの灰を落とす――をする。

バルトの定義による「偶景」形式とはどんなものか。みすず書房版「偶景」の花輪光による解題には、こんなふうに書いてある。

偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ、わずかに書きとめることができるもの、何かを書くために必要となるちょうどそれだけのもの、表記のゼロ度、ミニ゠テクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ(中略)これをただ一語で訳すことはとうてい不可能である(後略)

さらに『表徴の帝国』におけるバルトにとっての「俳句」について、こんな記述もある。

バルトにとって「俳句」とは、ある豊かな思想を短い形式のうちに圧縮したものではなく、「ある短い出来事」を一挙に「正確な形」で示したものである。といっても、現実を正確に描写すること、つまりいわゆる写生や写実の正確さが問題になっているわけではない。シニフィアンとシニフィエが「完全に一致する」ことによって、そのずれから生ずる余計な意味、解釈、注釈が遮断されるということである。

なんだかちょっと膝をぽんと打ちたい気もする。さきの文章に、俳句というものの本懐を思わぬ方向から摑まれている感触があるからだ。ある短い出来事を一挙に正確な形で示す…。たとえばここに、虚子の顔など浮かんでくる。
ただ、それは美しい夢なのかもしれないな、とも思う。シニフィアンとシニフィエが「完全に一致する」夢を、意味の帝国から眺めた「表徴の帝国」に、バルトは見ていたのだろうか。

今回の造本は製本としては特段変わったことはしていない。角背の上製本で、かがりは1本パピヨン、表紙は背とヒラが別々な接ぎ表紙になっている。
ただ、本文が変わっている。ほぼ全ページにおいて、ページ毎にそれぞれ別な紙を使用している。

本文128頁(紙の枚数に直すと32枚、2冊作成したので64枚)をすべて違う紙にするのはさすがに難しかった。のべ40種類ほどの紙を使用した。
レーザープリントは定着時に高熱がかかるため紙が伸縮したり詰まったりする。印字にはインクジェットプリンターを使用した。それでも印刷に適さない紙を無理矢理使っているので、15枚ほどの紙は印字や紙送りの不調でふいになった。
あまりに薄くてプリンターに通らない紙、春雨紙のように穴の開いた紙には、薄い紙に印字した本文を貼り付けた。

原著とは異なり1頁に1章が入るようレイアウトをほどこした(いちばん長い箇所のみ2頁にまたがった)。
はっきりいって読みやすくはない。ただ、本という物体として、この形状が「Incidents」の、私にとってのあるべき姿だった。
ネパールの紙と四国の紙と京都の紙と埼玉の紙、和紙と洋紙と手漉き紙がかわるがわるあらわれ、それぞれのページに「偶景」をのせている。

Recherche vaine d’une djellaba bleue. Remarque de Siri : il n’y a pas de moutons bleus.
青いジェラバを探すのは無駄だ。シリの指摘。青い羊はいないから。

※ジェラバ 頭巾のついた長衣

Sur la plage de Tanger (familles, tantes, garçons), de vieux ouvriers, comme des insectes très anciens et très lents, déblayent le sable.
タンジールの浜辺で(家族、男娼、少年たち)、年取った労働者たちが、大昔の動きのとても遅い昆虫のように、砂をならしている。

※邦訳引用はすべて『偶景』(沢崎浩平/萩原芳子訳・みすず書房)より。
作品に収録したのは原文のみで、邦訳はこの文章のために付しました。

[DATA]

本 体 [A]W80 D15 H110(mm)[B]W80 D13 H110(mm)
表 紙 [A]スキバルテックスとかげ 山吹 シルビーヌDC DC21[B]羊皮紙 茶〈80〉ブラNホワイト
題 簽 [A][B]共通 NTラシャ 漆黒〈70〉
見返し [A][B]共通 ブンペル クラフト〈75〉
本 文 [A][B]共通
マガジンテキスト/大礼紙/三椏紙/小川和紙・版画用紙/細川紙/楮紙/わら半紙/阿波紙・コピーができる和紙/横野和紙・箔合紙/春雨紙/葦紙/墨運堂OA和紙・鳥の子かすがの・雁皮あすかの/雁皮紙/月桃紙/小川和紙・コピー用紙/麻紙/大和ちり紙/ロクタ紙/コミックマガジン/民芸紙/桑ちり紙/コンケラー・レイド/その他和紙

表 紙 インクジェットプリント
題 簽 スタンピングリーフ(白)
本 文 インクジェットプリント

※造本のよもやま話「造本の旅人 annex」はコチラ★

ページの上部に戻る