野口あや子「ヨカナーンの首が刈られるまでを」

 

小佐野彈とのザルツブルグ音楽祭滞在に寄せて

 

   10時20分、中部国際空港発。

どこへでもいつでもいけるひとりきりのからだよ濡れてしたたるものよ

   機内モニターで繰り返し映画「シンデレラ」を。

どの女人も皆/否とのみ記されてプリンスからの招待状は

   小佐野千砂・彈親子が滞在するホテルザッハー。
   徒歩数分先に、私の常宿。

ワーグナー語るあなたの正装の袖をのぼって西洋の蝿

生牡蠣のフリルをフォークで寄せながらあなたから聞くナチス風刺を

塩のかたちの蠟燭のまえ千砂が着る肩紐細き絹のフクシア

ルッコラの葉をくしゃくしゃとまとめあげマッスにも弱者にも軽蔑を

よこたわりかねのねをきくひんがしの果てなるひとの返信を待ち

   社交界、という世界がある。

カンカンを待っていたのに 中庭できつい紫煙を吐き出している

美しい青年だった 悪酔いをさせるオレンジリキュールのように

ダンスダンスそののち社交 またすこし照り出す昼の陽を浴びながら

錠を深く下ろしておきます、ひんがしの果てなるきみが声ほそくいう

愛すべき不毛、ときみに嘉されて今晩もまた白布をひらく

不毛なる愛とすら言わず10Euroのリーフレットが揃いの我ら

オペレッタゆるゆる語りこうやって物乞いだったことを忘れる

食べられるものがなかった 寒かった 祖母と血が繋がってなかった

   あなたがいないときは1Euroのパンと4Euroのエスプレッソ、
   5Euroのリキュール。教会と美術館を渡り歩いて過ごす。

歌をもて割れそうなオーナメントのこと教えてくれたきみだったのに

タックスフリージェンダーフリーだとしてもここに確かに手に入るもの

もっと光るものが好きだな 強くって安いスワロフスキーのような

光らせて千砂の豌豆の耳飾り、あれはいいねとメールで告げて

有り金全部使い果たそうしゃらしゃらとすわろふすかせて街をゆくなり

足音であなたとわかるかつかつと生き急ぐ躁の甲高い音

目印はきみのたてがみというように横に香って歩き煙草よ

巻き煙草さらさらと積み昨夜きみが歌を離れていくように見き

   西洋のレディーファーストは、作法。
   テーブルマナーと同じで、感情ではない。
   あなたがレディーファーストの作法を愛するのは
   決して女を愛しているからではないのだ。

エスプレッソにくちびる濡らし拭うとき上座にドレスの俺を飾るな

ジェントルマンのおまえを飾るためだけに口紅を塗る俺がいるから

あなたと呼ばれときに汝と呼ばれつつうしないたきよというもん

くびすじにみずからの指寄せる癖くりかえしつつ語りかけたり

彼氏への贈り物ならこれかなと片眉あげてすわろふすかす

抜け道をわがことのごとくぐりぬけいつかはなりたし宮廷作家

   家族小説を書くのだと言う。

火を灯す 丸く小さな蠟燭が揺れる 父親の顎の形に

少し暗い乾いた空の夕まぐれ 血縁は急いて描くべからず

絶対音感めいてどうしても鼻につくわたしのなかにいるオイディプス

くびすじに指を当てつつ目を覚ます 昨日のきみに言いすぎたから

鍔を濡らして雨は降りくるひんがしのきみにとどきましょうかこの音

鐘の音に目を覚ます昼 夢のなかきみを英語で罵っていた

   「サロメ」の席が取れなかったから今回は一緒に行けない、と言ったら、
   小佐野家の権力が動いたこと。

ヨカナーンの首が刈られるまでを待つ 愛液のような雨に降られて

総柄の君の背広に守られてとりおとす厚きリーフレットを

欲しいのは男そのまま たてがみの馬のそのまま 愛などいらぬ

馬洗わばオケピットまで流れ落つ水もて君を殺してみたし

鞭打たれ走る男の悲しみを洗いざらい知り得ないぼくたち

誘惑の果てなるひとよ よごれたる衣にあつき聖句かかえて

おしゃべりがしたかっただけ 首抱えなんてしずかな奈落だろうか

殺したい 愛などいらぬ そばに置きたい だけど愛などいらぬ僕たち

魂をビーズのバッグのごとかかえ首のごとくにソファーに放る

   その晩のビーフコンソメに浮かぶ西洋葱と、
   あなたの歩き煙草の煙が一番美味しかったこと。

じゃあ東京で、そう言いさして紫煙くゆらすその隙だ強く抉るのならば

にっぽんに持ち込めぬ刃のマグダラのマリアのかたちに殺意は宿る

   隣にいたのは、千砂、という美しい生き物だった。

なべて母は諦念のなかにあるものを全てマリアと名を付けられて

 

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野口あや子

野口あや子近影

歌人。1987年岐阜生まれ。第一歌集『くびすじの欠片』で第54回現代歌人協会賞を最年少受賞。歌集に『夏にふれる』『かなしき玩具譚』。また朗読、コラボレーション、散文などジャンル横断の経験を生かし、コラボレーション歌集『眠れる海』を刊行。各地で朗読を行い、フランスでの朗読の機会を得る。またエッセイ、小説執筆の機会を得て、散文にも精力的に取り組んでいる。

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