エッセイ「再び剣を抜く」 他五篇

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
本を買うならAmazon…?

 十年近く前からだろうか。「せどり」という言葉を聞くようになった。「せどり」のシステム(?)については、ここでは詳しく書かないけれど、3年程前から2年近くにわたって、私もインターネット古書店を経営していた。もちろん、私の場合は「せどり」ではない。「せどり屋」は一般の書店でしか(いわゆる)商品を仕入れないが、私はちゃんと公安委員会から古物商許可証の交付を受け、個人宅にしばしば買い取りにも出掛けた。「個人事業主」だったが、誰かを雇うほどの規模ではない。買い取りから始まって一冊一冊の値段付け、ネット上での商品の登録、売れた分の発送作業などを、全て私一人で切り盛りした。住宅供給公社から許可を得て、市営住宅の自宅の一室を倉庫兼作業部屋にしていた。
 古物商の中でも、特に古書を扱う場合は「書籍商」という呼称を使う。だからって何ということはないのだが、公安委員会から青地に白抜きで「書籍商」と印字されたプレートが届いたときは嬉しかった。だって、「書籍商」って、ちょっと格好良くない?
 こうして開業したネット古書店だったが、この職業、当初予想していた以上には難航を極めた。私の使っていたプラットホームはAmazonのみだったが、初めは本が飛ぶように売れた。読者の皆さんも思い出して欲しい。数年前、Amazonでは、「本体価格1円+送料257円」という古書がざらにあった。要するに、この価格設定でも、古書店は黒字になっていたのである。今、この価格帯(本体価格+送料)の商品は、Amazonといえども殆どない。
 Amazonと古書店(出品者)との契約内容は、実質的にはAmazon側が一方的に決定するシステムになっている。Amazonからある日、古書店に通知が来る。たとえば、「来月からAmazon側の手数料(取り分)を○○%だけ値上げします。」みたいな…。Amazon という媒体をやめるのなら兎も角、Amazonというプラットホームを利用し続けたい古書店(出品者)としては逆らえないので、その値上げされた手数料分を、商品である古書の価格に上乗せすることになる。他にも、この数年でクロネコヤマトや日本郵便は、一斉に配送料の値上げを敢行した。(配送業者の値上げについて言えば、それまでが余りにも安価過ぎたのだ。)この値上げ分だって、古書店は価格に上乗せするしかない。私の経営する古書店も、売り上げはそれ程変わらなかったが、売り上げに占める儲けが徐々に減って行った。
 2年の間だったが、四人家族で2LDKの比較的広かった市営住宅は、居住空間としては1LDKにしか満たないものになっていた。そして大きくなった子供たちと飼い猫たちが、私の倉庫兼作業部屋に四六時中忍び込もうと画策するようになっていた。倉庫兼作業部屋には、廉価本から稀覯本きこうぼんまで、様々な書籍が所狭しと置かれている。自力でガラスの扉(引き戸)を開けることに慣れた猫たちを追い出すのには、相当苦労した。だが、大きくなった子供たちが勝手に扉を開けるのは防ぎようがない。狭い家で常に私は子供や猫たちに怒鳴り散らしていた。私のストレスは極限に達していたし、妻からも「もうこんな商売はやめてくれ。」という圧力(懇願?)が凄いことになっていた。
 そんなわけで、ようよう決断して古書店を廃業したとき、私は久し振りに広くなった自分の家で、ぐっすりと安眠することが出来た。それまでは、私の携帯電話は、注文が入るたびに朝晩構わずじゃんじゃん鳴っていたから…。
 インターネットで、ワンクリックで物が買える時代。それを人々は、「楽になった。」と安易に喜び過ぎているような気がする。その便利さの背景にある、Amazonや他のプラットホームによって搾取されているたくさんの人たちを想像して欲しい。私は別に、町の小さな古書店や書店も、大きな古書店や書店も好きではない。ただ、私は今、Amazonという巨大なシステムに取って替わり得る、別の小さなプラットホームの構築を夢想している。Amazonと似たような楽天市場やYahoo!系はハナからだめだし、「日本の古本屋」は余りにも不便過ぎる。もっと違う売り方、もっと違う顧客とのつながり方を、私は今、模索しているのだ。

初出=RANGAI文庫通信第12号(2020年8月25日配信)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
インゲンとまんぷくのはなし

 アルバイトが終わって帰路に着く頃、時刻はたいてい夕方になっている。大きな川が流れていて、そこに架かる一本の橋を渡る。宇治川沿いを二十分ほど自転車を漕ぐ。川の流れはどっぷりしていて、結構急だ。この前、橋の上から改めて眺め下ろして、そう思った。
 コロナ禍が始まって以降、私の外出頻度はだいぶ減った。アルバイトは介護職なので、利用者さんが元気でいる限り、コロナ禍だろうが何だろうが仕事に呼ばれる。マスクを嵌めて呼ばれたままに仕事に行く。「新しい生活様式」だの「ウィズ・コロナ」だの、そういった掛け声の下、日常が徐々に旧に復して行く(ように感じさせられる)。だが、何かが完全に変わってしまったと感じているのは、私だけでもないだろう。何より、直に会って笑い合える友達がいなくなった。マスクを着け、消毒液を手に吹き付けることが日常化している。いつまでこの状況が続くのか、いつこの悪夢から覚めるのか、全く先が見通せない。そんな中、メディアを始めとして、SNSにおいてすら、「コロナ」が在ることが逆にただの「ムード」となって行く。この「ムード」は何なのだろうか。「ムード作り」とは何なのだろうか。私はもう十年近く前の、テレビに垂れ流され続けた金子みすゞのCMを思い出す。何かがどんどん鈍麻させられて行く感覚…。
 アルバイトと子供の世話と、まあ趣味みたいなものでしかない本作りと、それだけで暮れて行く日々の中で、どのようにしたら自分の感覚を保ち、研ぎ澄ますことが出来るのか。あのよく分からない〈鈍麻〉から距離を取ることが出来るのか。せめて鮮明な記憶を保ちたいと思う。精確な記録と情報に触れること。時に、それらの情報からも離れること。
 この状況下で詩を書くことが難しくなったと書けばそれまでだが、別にこれは私にとって「詩」だけの話ではない。いや、生活の話をしている。だが、私の場合、生活は文学に直結する。やはり、「詩を書くことが難しくなった」と私は告白せざるを得ない。
 アルバイトの行き帰りに渡る橋は、隠元橋いんげんばしという橋で、たもとに大陸式の、大きな亀に乗った一体の石碑が建つ。江戸時代、中国から招聘しょうへいされた隠元禅師が此処に上陸し、この地に黄檗宗おうばくしゅう萬福寺まんぷくじを開山した。が、今だったら野菜のインゲン豆の方が、この寺よりは全国的によっぽど有名かも知れない。インゲン豆を日本に初めて持ち込んだのが、隠元禅師らしい。萬福寺は旅人たちにも余り知られていないのか、何時行ってもたいてい閑散としていた。寺のある辺り一帯が「黄檗おうばく」という地名で呼ばれる。
 三度目の精神科入院のとき、初めて「おうばく病院」に入院した。退院した後、アルバイトを再開して、自転車の行き来の途中で、自分が入院していた白い病棟が丘の中腹に遠く見えることに気付いた。その病棟を眺め遣りながら、今、ペダルを漕いでいる。秋になろうとしていて、何時かまた家族と、あの閑散として美しい萬福寺の中国式庭園に行けたら、と思う。

初出=RANGAI文庫通信第13号(2020年9月5日配信)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
イチローのカレー

 私がまだ某福祉施設で正職員として働いていた、そう遠くはない昔。と言っても、十年以上にはなる昔。私は毎夕、チキン・カレーライスを食べていた。決して高くはない月給の中から、詩集の自費出版費用を捻出するために案出した、私なりの苦肉の策だった。と書けば、響きはまあ何とはなし格好良くはあるが、私が無精をしていた側面もある。
 スーパーで大量の安い鶏胸肉を買って来て、大鍋に屑野菜とぶち込んで煮込む。一番安いルーを溶かしておしまい。冷めたら冷蔵庫に仕舞う。一人暮らし用の三合炊きの炊飯ジャーで、毎日米を仕掛けて置く。仕事から帰宅して、チキンカレーを喰って寝る。読書は朝早くする。晩酌も結構した(ひとりで)。
 両親が地方公務員という、経済的には比較的安定した家庭に育った私だった。が、「大学中退」という学歴のせいで何度も面接で/面接すら断られた果て、それでも流れ着いた職場が、その某福祉施設だった。月給は高くない。しかし、とても過ごしやすい職場だった。贅沢をしなければ十二分にやって行ける手取りではあった。が、ここで難問にぶち当たる。
 詩人として世に出る(出世する)ためには、まず詩集を出版しなければならない。これは鉄則だ。しかも、第一詩集が何かの賞を受賞しても受賞しなくても、「詩」をライフワークとするつもりなら、第二、第三、…、と詩集を出し続けることが一般的である。当時、詩集一冊発行するのに数十万。その某福祉施設の職員の手取りでは、詩人としての将来は、かなり厳しいものになることが見込まれた。結局、私の場合、第一詩集から第三詩集までの出版費用に、3年かけて約250万円のお金が必要だった。第三詩集を上梓すると同時に、自分の体調が悪くなったこともあって、私はその職場を退職した。
 今、ここまで書いて来て、計算機で計算してみるとこういうことになっている。私の月収のうちの4割強が詩集の出版費用に消えていた計算。愕然とした。自分はチキンカレーをせっせこせっせこ喰いながら、当時、結構裕福だ、幸せだ、と感じていた気がする。が、心の底、無意識では結構かつかつだったのかも知れない。(もうここで明かしますけど、私の月収は額面で16万でした…。)もともとの学生時代の生活もかなりの酷さだったからなあ、と苦く思い出す。フリーターをやっていて、その時は7万くらいでひと月を遣り繰りしていたから…。
 その頃、野球選手のイチローは大リーグで相変らず大活躍を続けていた。彼の隠されたプライベートに密着取材した番組。なんと、イチローは試合前の朝食に、毎日同じカレーライスを食べていたのだった。(そうするとコンディションが維持出来るらしい。)
 自分をイチローになぞらえながら、何時か開花することをひたすら願った。今、当時の作品たちを読み直してみると、自分で言うのも何だけど、極めて切れ味が鋭い。よく書けている。だから、まあ、チキンカレーを食べ続けた時期も、何かの役には立ったんだろう。

初出=RANGAI文庫通信第14号(2020年9月25日配信)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
共産主義的言語

 十一月初めの日曜日、ナカムラさんの運転する車で、滋賀県の湖北にある養鱒場に連れて行ってもらった。中仙道の宿場町、米原市醒井まで、京都から約二時間の道のりを、私は後部座席で子供の世話をしていた。助手席に座った私のパートナーが、ナカムラさんとあれこれ喋っている。このナカムラさんとは二十年以上の付き合いになるが、今でも頻繁に会って、家で酒を飲んだりしている。一日を終え、帰宅するともう夜になっていた。
 養鱒場で、子供とパートナーが喜んで池の鱒に撒き餌をやっている間、私とナカムラさんは喫煙所で煙草を吸っていた。特に二人で話すことはなかった。考えてみれば、この十年ほど、二人きりでまともに会話した記憶がない。以心伝心とは程遠い。向こうも、私が何を考えているのか、よく分かっていないだろう。山間の養鱒場全体にぐるりと配置された池の畔を歩きながら、走り回る子供を私が追い掛け、パートナーとナカムラさんだけが会話している。他の家族連れの客たちが、ベンチに腰掛け、美味そうに鱒の塩焼きを食べていた。
 ナカムラさんは、私の第一詩集、それも巻頭の作品「共産主義的言語」に登場する。
 何年か前、ナカムラさんがぽつりと言ったことがあった。「大谷の詩集は、あれはやっぱり『薄明行』がいちばんよかったな。」『薄明行』――第一詩集か、そうか、と思った。
 私が今、なかなか書き進められないながらも準備している詩集は、もしちゃんと発行出来たなら、第五詩集になる。思えば遠くへ来たものだ、とつくづくは思う。第一詩集さえ上梓することが出来ずにいた二十代の前半期、「もし一冊でも詩集を出して世に問うことが出来たなら、死んでもいい。」と本気で考えていた。せっせこせっせこ詩を書き溜めていた。あれから二十年近く、結構色んな作品を残しては来た。
 それでも、ある人たちに言わせると、作家や詩人は誰でも、その第一作にその後の作品が全て詰まっているものであるらしい。きっとナカムラさんもそういうことを言いたいのだろう。(よく知らないし、めんどくさいので本人にも聞かないけど。)
 『薄明行』を刊行して、或る程度は世間からも評価され、まあ「詩人」と名乗ってもよい状態になった時、私は却って暗然としていた。心が空っぽになってしまった。26歳にして、人生最大の目標が、もう達成されてしまったのだ。これからどうして、何をして生きていけばいいのか、すっかり分からなくなってしまった。その後も何とか、しがみつくように、半ば祈りのように詩を書き続けて来たが、第一詩集を上梓するまでの期間に比べると、いまいち気合は入って来なかったかも知れない。
(それでも一冊一冊に、自分なりに愛着はあって、特に第四詩集『午前五時』なんかは死ぬ気で書いたので、出来れば皆さんに読んで欲しいです。←宣伝…。)
 何かある度に、第一詩集『薄明行』を取り出し、それも巻頭の作品「共産主義的言語」を繰り返し繰り返し読み直す。「共産主義的言語」は二十歳、私が初めて書けた作品だ。第五詩集の刊行は、はてさて、何時になるのやら…といった感じの制作状況だが、まあ、焦ることではないし、深呼吸でもして、気楽に肩の力を抜く。

 以下は、その「共産主義的言語」です。今月のエッセイはこれでおしまい。

—–
 共産主義的言語

百万遍のミリオンで
短い煙草をくゆらせながら
ナカムラさんは
言ったのだった
新しい言語の構築が急務である と
そしてその言語こそ共産主義的言語である と
それから彼はゆっくりと
一番安い
ブレンドコーヒーを飲み干した
ナカムラさんの言ってることは
私には何のことだかさっぱり分からなかったし
それに「共産主義」なんて
新しいどころかもう時代遅れなんじゃないか
「共産主義的言語」となると
初めて聞かされる言葉ではあるが……
たいして興味も湧かなかったけれど
ナカムラさんの眼鏡の縁が
レンズの奥の目が、キラリと光る
こわいぞ、やけに自信たっぷりだ
きっと例の長い説明が待っているのだ
聞きたくないなー、だがもう遅い
もう蛇に睨まれてしまった
睨まれて身動きできなくなってしまった
自分は蛙と想像すると
尚更逃げられなくなる
口が思わず、
へーそれは何ですかと応えてしまう
慌てて水を飲む私
コップが汗をかいている
それはな、とナカムラさんが身を乗り出してくる
内心焦り、後悔する私

ナカムラさんは長い説明を始める時いつも
右手の人差し指を立てて
それはな、と言う癖があるのだ

初出=RANGAI文庫通信第18号(2020年11月25日配信)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
春の伏見港公園

 春の伏見港公園で焼肉をした

春の伏見港公園で焼肉をした
モルツさんに呼び出されて
初対面のはずのリズとミサが
仲良く話していておかしかった
子供と犬のお守りが私の役目で
だが缶ビールを三本飲んだら寝てしまった
きみに出逢ったばかりの頃の
なつかしい夢を見た
日差しの中、
春の伏見港公園で焼肉をした

(詩集『ひなたやみ』2007年に収録。)
—–

 かつて、「モルツ」という友人がいた。立ち飲み酒屋で知り合った友人で、建設現場でコンクリートを流す仕事をしていた。勿論、「モルツ」というのはあだ名で、何処に行ってもサントリーのモルツを飲んでいたことに由来する。私は「ぼん」(関西弁で「坊ちゃん」の意。)と呼ばれていた。モルツは五十歳を過ぎたおっさんだったが、私のことを格別にかわいがってくれた。
 その頃、私は酒店の斜め前のアパートに住んでいた。この酒店、「角打かくうち」と呼ばれるところで、店の端が立ち飲みのスペースになっている。要は、立ったまま酒が飲める酒屋だ。カウンターがあり、ちょっとしたおつまみ(と言ってもあられやせんべいの類だけど。)も食べることが出来る。私たちはここにしょっちゅう入り浸った。
 夕方、私が仕事を終えて帰って来ると、この酒屋の前にモルツが突っ立っている。私を待ち伏せていたのだ。
「ぼん、お疲れ! まあ一杯やってけや。」
私が暖簾をくぐると、仕事帰りのおっさんたちが既に顔を真っ赤にして、一杯も二杯も引っ掛けている。「おう、ぼん! お疲れ。」酒店のご主人とおかみさんも声を掛けてくれる。
 午後八時の閉店まで飲み、閉店後も粘って、午後九時までは立ち飲み続ける。ビールの瓶ががらがらと空く。
 モルツはカウンターに凭れてふらふらになりながら、よくこう言っていた。
「酒を飲みたいだけなら、俺はうちで飲むねん。寂しいからここに来て飲むんや。みんなだってそうやろ? 誰かと話したくてここに来るんやろ?」
 前回のRANGAI文庫通信で、早坂さんが私の作品「春の伏見港公園で焼肉をした」を引用してくれたが、モルツが自ら命を絶ったのは、ちょうどリーマンショックで建設関連の仕事が激減していた春だった。場所は、やはり伏見港公園の高架下だった。
 その時期、モルツから屡々しばしば私に電話が掛かっていた。もう訳の分からないと言っていいような電話だったが、多分、モルツは私に、精神的な助けを求めていたのだろう。彼は相変わらず、あの酒店に入り浸っていた。私は一人目の子供の育児が始まって、立ち飲み酒屋に行くどころではなかった。引っ越したのを機に、酒店から足が更に遠退いていた。
 モルツの訃報も、私が知ったのは大分経ってからで、酒店のご主人やおかみさん、常連のおっさんたちが、口々に私に言った。「ぼん、モルツはあんたにすごく会いたがってたんやで。」私は言葉を失っていた。
 私たちが入り浸ったこの酒店は今でもあるが、モルツはもうこの世界にいない。私は近頃ではほとんど外で酒を飲まないが、それでも少なくとも年に一日だけは、必ずこの立ち飲み酒屋に足を運ぶようにしている。五月、モルツの命日だ。
 酒店なのに最近はドリップ式のコーヒーがメニューに加わり、私は熱いコーヒーを啜りながら、おかみさんに目配せする。「おかみさん、今日って何の日か分かるか?」
 日めくりの暦を振り返って、ああ、と頷くおかみさん。分かるに決まってるじゃない、と笑う。「ぼん、今年も来てくれたんやなぁ。」

「春の伏見港公園で焼肉をした」には、私だけのこんな後日談があった。今回のエッセイも、短いけどこれでおしまい。

初出=RANGAI文庫通信第20号(2020年12月25日配信)

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
再び剣を抜く

 この五、六年ほど、まともに詩を書いていない。かつての憑き物のような詩(言葉)に対する強迫観念は、今は何処かに去ってしまった。詩を書けないことが詩人にとって不幸だとは思わないが、しかし、幸福だ、とも感じられない。何か、ふわふわした夢の中にいるような時期がずっと続いている。悪夢ならば覚めて欲しいが、果してこの夢は悪夢か、判別は付かない。
 言葉の躍動を感じられなくなった。以前、生き生きと感じていたあのリズム。口を衝いて出て来たリズムが、今は枯れてしまっている。私は砂の浜辺のようなところに座りながら、もっと別の波に耳を澄ませる。世界の呼吸、とでもいったようなもの。これは、私の生を揺する、大きな波動の感覚だ。私の生に波動が来る。次に来るのは大きな波か? 引いて行く波か? 波は来ないのか? 茫漠とした、自分を慄然とさせる世界の端っこに立ちながら、この波を感じていることは、結構苦痛であり、同時に私を言葉から遠ざけて行く。この波動の前で、私の言葉に意味などあるだろうか? これまでとは異なる、より高次の、世界を語る言葉が欲しい。そうでなければ、私に語る資格などあろうか? 自己を試されているようであり、自然、ペンは動かなくなった。私は寡黙にならざるを得なかった。
 現実の生活において、私は労働者であり、一家庭の父親だった。その日その日を暮らすことにあくせくしていた。仕事を終えて、息を切らせて保育園に向かう夕方、暮れた冬空を見上げながら、自転車を漕ぐ。もうすぐ四歳になる子供を後部座席に乗せて、今夜の飯のことを考える。昔ならば、こんなことさえ詩に書けた筈だ。何故、自分は今、これを詩に書かないのか。気持ちの問題だった。私はうんざりしていた。こんな人生から、私は逃げ出したかった。いや、毎日逃げ出したいし、それを堪えるので必死だ。
 私は自身の生活を、妻を、子供を、愛している。それなのに、空虚を感じている。この矛盾。――あの波動に、俺はいつかさらわれるかも知れない。不安だった。だが、半分くらいのところで、自分はそれ(攫われること)を望んでもいるのだろう。先が見えないから不安なのか? 委ねることが不安なのか? しかし、お前はもう委ねると決めたのではないのか? 言葉が役に立たなくなって初めて、見えた世界がある。
 かつて共に戦った仲間たちへ。俺はまだ此処にいるよ、虎視眈々と獲物を狙っている。ただ、もう昔みたいなリズムが見えないんだ。大人になってしまったのかな? 焦るけれど、此処でやって行くしかないと感じている。
 朝がまた光り輝く時、私は再び剣を抜くだろう。この、俺だけに更新された世界を、あんたたちに見せようと思っている。今はただ、夜明けをひたすら待ち望む。

初出=現代詩手帖リレー連載「わたしが詩を書くとき」(2021年2月号)

ページの上部に戻る