小説『睡蓮』第六回

 

 
      千本のラッパ

 翌日、睡蓮のテントを無遠慮に覗きこみ、興奮気味に話しかけてきたのは、ブレスレットを売りつけそこなって以来しきりに話しに来るようになった瓶底眼鏡のマツモトである。
「睡蓮さん、今日な、テレビ局の取材の人が清水さんとこに来るんやて! あんたもついでにテレビに映るかもしれんからな、もしテレビに映ってもまずいことないんやったら、よう化粧しときや!」
「そう。わかったわ。綺麗にしとくわ」
 マツモトが甲高い声でたたみかけるように言う。
「菊地さんがな、世話したんや、清水さん夫婦な、テレビ局から五万円ももらえるんや。菊地さん、ええ人やろ、睡蓮さんも菊池さんによう挨拶しとき」
 軽く頷きながら、今、テレビ画面で自分の姿を見かけて驚くのは従姉妹くらいだと睡蓮は思う。
 マツモトの甲高い声を聞き付けた斉藤が、首を横に振りながら睡蓮に近づき、そっと言った。
「菊地はトラブルメーカーだから挨拶はしないほうがいい」
 斉藤によると、ボランティア達の先導する抗議デモなど、ネタをみつけてはテレビ局の取材をわざわざとりつけてくるのが菊池であるという。
 しかし睡蓮にとってそんなことはどうでも良い遠いお話しである。
「清水さん、もう、産まれるの?」
 マツモトに訊くと、
「さぁ、どうなんかなぁ」
 彼は重そうな瓶底眼鏡を中指で持ち上げながら答え、さぁどうなんかな、さぁどうなんかな、と、ここ数日のうちにますますひしゃげてきたダンボールハウスの中でトデチが馬鹿にした様につぶやいた。
「ねえトデチ、お腹空いたでしょう? にぎやかになる前にごはんを食べに行きましょうか。ごちそうするわよ」
 睡蓮がひしゃげたダンボールハウスに向かって言うと、トデチが這い出して来た。
「コンビニ?」
「コンビニのお弁当は飽きちゃったでしょう?」
「ロロロロロ、ロイホ!」
 巻舌でトデ・チが叫んだ。
「オーケー」
 睡蓮が立ち上がった。
「はよ戻りや」
 マツモトが幾分やっかみ加減に言うのを背後に聞きながら、睡蓮とトデ・チは公園を脱出した。

 渋谷の裏道をのんびりと歩き始めた睡蓮のあとを、ロロロロロ、ロロロロロ、と、舌を鳴らしながらトデチがつづく。彼のスニーカーは踵を踏みつぶしすでにぼろぼろであり、膝の破れたジーンズから痩せて尖った膝がのぞいている。年中身に付けているらしい銀のネックレスは酸化して黒ずみ、細い首にぴったり巻きついている。首から長い紐でぶら下げたボールペンはそろそろインクがなくなりかけており、昨日、噴水で洗濯したばかりのTシャツの胸には油性マジックで太く「たばこ屋」と書いてあるのだが、何故たばこ屋なのかということはトデチにとってどうでも良いことらしかった。

「睡蓮、あのね、僕ね」
 彼は睡蓮の視野に自分が確実に入っている事を確認してからしゃべる癖がある。
「僕、結婚するの?」
 睡蓮はふとそう言ってみた途端、彼とならば結婚しても良いような気がして楽しくなった。
 それは普通の結婚では無い、あの、いつかの幻の花のような結婚なのだ。
 そんなことを気楽に無責任に思う。
「誰と?」
「私とよ」
「わぉ!」
 トデチが嬉しそうに笑った。
「なあに? 僕、何?」
「ああ、僕ね、ユーさんの目がすごく綺麗だと思うんだ」
「ユーさんて、ボランティアの外人さん?」
「そう! 僕、はじめてユーさんの青い目を見たときすごくびっくりしたなぁ。なんでユーさんの目だけが僕たちと違って、あんなに透明で綺麗なんだろうって」
 いつになくトデチが筋の通った言葉でしゃべるのを、睡蓮は不思議な想いで聞いている。
 トデチが続ける。
「よく外国の古い詩にあるでしょ、君のブルーの目はなんて素敵なんだっていうくだらないのがさ。でも、僕、ユーさんの目を見たときにわかったんだ。あれだけ糞くだらなくなるのはそりゃもう、その目がほんとに綺麗だからだって。ユーさんは男だから僕とは結婚できないんだけど、僕はあのブルーの目玉と結婚したいくらいだ」
「トデチは何にでも感動するのね。馬鹿みたい」
 睡蓮は足元に転がっていたコーラの缶を軽く蹴った。
 それはゆるい坂道を少し転がった。
「馬鹿みたい? そうかなあ。ああ、睡蓮はユーさんの目に嫉妬してるんだ」
 睡蓮は驚いてトデチを見た。
「何故?」
「だって僕は馬鹿じゃないし、睡蓮は僕と結婚したがってるから」
 睡蓮が少し笑った。
 トデチは骨ばった体をあちこち奇妙に動かしながら睡蓮の傍らを歩きつづける。
 街をゆく人々の目に、ふたりの姿は見えていないようだ。
 誰もがふたりを目にも留めない。
「花」
 と、睡蓮がいつかのトデチの手ぶりを真似ながらつぶやいた。
「花」
 と、トデチがにこやかに続けた。
 ふたりは幻の花をあちこちに撒き散らしながら行進した。
 睡蓮は片手に持った古い布製のバッグを見えない花でいっぱいにし、トデチは何も持たない両腕から次々に見えない花を産み出しながら。
 彼女はこの裏通りの行進が永遠に終わらなければ良いのにと思う。
 ただ歩き続けて何かの境を不意に越え、どこか美しい場所へ出て行けたらどんなにか良いだろう。
 しかしそれが一体何処なのか、睡蓮にはわからない。
 そしてついにふたりの前にロイヤルホストはあらわれなかった。
 ふたりは人気のない小さな店へたどりつき、各々適当なものを注文した。
 睡蓮はほおづえをつき、今、この目の前にいる何を考えているのかよくわからない、けれど食べるためによく動く口と奇妙な詩をつぶやくためのよく動く口を持っている若者の所作を、つくづくと眺める。
 どんな生い立ちで、何故あんなダンボールの家に住んでいるのか。
 正気なのかそうでないのか。
 けれどほんとうのところ、彼女はそんなことに真剣に興味を抱いているわけでは無いのだ。
 ただ、あの日に出会った完璧な〈花〉にひかれて、今ここにいるのだから。

 しばらくすると街全体をうすく柔らかく覆う紗のような雨が降って来た。
 睡蓮はほおづえをついたままその細い雨を店の硝子ごしに眺めた。
 春の暖かな雨は街にしばらく降り続き、傘を持たないふたりが雨が止むのを待ち続けるあいだ、トデチが紙ナプキンに、小学生のようなぎこちない手つきと文字で詩を書いた。

      千本のラッパ
  
   凶暴な犬が大地の底から逃げ出していって、
   幼稚な声で吠えたてています。
   そいつを神様があわててあたふた退治しに行った。
   けどボクは退治になんか行かないのだ。
   僕らには愛も体毛もあるんだから。
   OK? 
   千本のちがうラッパを同時に吹くことが僕の夢なんです、神様。       

                               トデチ

(つづく)

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