小説『睡蓮』第七回

    乳房

     
 止まない小雨に濡れながら睡蓮とトデチが公園に戻ると、周囲にあわただしい雰囲気が漂っていた。
「睡蓮さん、遅いよ、清水さんの赤ちゃん生まれちゃうよ」
 瓶底眼鏡のマツモトが興奮して綺麗な標準語のイントネーションで叫んだ。 
「あら、マツモトさんが大阪弁じゃなくなった」
 テントの中で濡れた髪を拭きながら睡蓮が笑った。
「睡蓮、彼は新潟生まれの東京育ちなんだ。フェイク!」
「あら、よく知ってるのね」
「みんな嘘つきだよ」
 トデチが無表情に応えた。
 睡蓮は一瞬、別の人を見たような気がしてトデチの顔を見た。
 公園の隅には取材のための機材らしきものが、雨よけの青いシートに覆われて置かれていた。
 その周囲にボランティアの若者が数人立っており、解体屋もおり、ユーさんもいる。
「お医者さんはちゃんと来ているのかしら?」
 トデチに言った言葉にマツモトが答えた。
「来てはる。今な、清水さんの奥さん、うーんって、いきんではる」
「聞こえるの?」
「聞こえる」
「清水さんの旦那さんは?」
「仕事なんやー。あかんなー、こんな大事なときに」
「そう。彼女、痛いんでしょうねぇ」
「そりゃ痛いさあ。ありゃ睡蓮さんは産んだことないんかいな?」
「産んだことないわ」
「へーえ。そんなら俺の子、産んでくれへん? あんた、いま幾つや? いや、睡蓮さんけっこういっとるなあ」
 マツモトの瓶底眼鏡が睡蓮の顔をまじまじとのぞきこんだ。
「痛いのはイヤなの」
「うん、冗談や。ちょっともうあんた無理やな。痛すぎやな」
 マツモトが歯を出して笑った。
 噴水の周囲を今日はたくさんの見知らぬ顔が歩いている。
 雨は噴水の面にもやわらかく降り続き、睡蓮はテントの中からぼんやりとあちらを眺め、トデチは段ボールに籠ってしまった。
 やがて清水夫婦のテントの中から赤ん坊の泣き声がけたたましく上がり、心配気にテントを囲んでいたボランティアたちの間から一斉に拍手が湧いた。
「女の子やて、女の子!」
 マツモトがとびはねるようにしてふれてまわった。
 いのちがひとつ産まれた。
 公園の片隅の出来事に、睡蓮の心も少し浮き足立つ。
 むこうから雨に濡れた解体屋がやって来ると、睡蓮の手を煩わせる事が無くて良かったと、それだけを告げて帰っていた。
 その背中がどこかしら重そうに見えたことが睡蓮のかすかな気がかりになった。
「トデチ、寒くない?」
 トデチはいまにもひしゃげそうになっているダンボールハウスの中で何か一心に書き留めていたが、顔を上げて言った。
「大丈夫。雨の後には虹が出るって母さんが言ってた」

 それから数日、放送機材を抱えた男達が清水夫婦のテント周辺を歩き回り、それを物珍し気に、しかし遠巻きに眺める通りすがりの人々で公園は賑やかだった。
 あたたかな日向で若い母親がたっぷりと張った心臓側の乳房を子供の口に含ませ、遠い時代の懐かしい子守唄を歌うのを睡蓮は少し離れた場所から眺めて過ごした。
 この排気ガスまみれの空気の中、若い母親の乳房からまぎれもなく溢れ出るものがある事が、睡蓮にはなにか奇異にも思えた。
「トデチのお母さんも、あんなふうに君を抱いたのかしらねぇ」 
 睡蓮がぼんやりとそう言うと、トデチはすこし戸惑い、立ったまま片足の膝から下をぶらぶらさせた。
 
 数日後、滅多に周囲の住人と会話を交わさない清水夫婦が、赤飯を炊き、公園の住人に配って歩いた。
 父親が七倫と鍋を器用に使い、母親の手で丁寧に握られた赤い握り飯には胡麻がまぜられてあった。
 睡蓮は若い夫婦からうやうやしく両手で赤飯を受け取った。
 母親に抱かれた生まれたての生命の塊は、まだ母体から完全に生まれ出ていないかのように豊かな胸の肉に埋もれ、小さな手を固く握りしめていた。
 睡蓮はどこか苦悶しているようにも見える顔つきの赤ん坊に微笑みかけながら礼を言い、口に運ぼうとして、それをどうしてか食べる事が出来なかった。
 やがてトデチが睡蓮のテントにもぐりこんで来て、まだ手のつけられていないそれを発見し、何故食べないのかとたずねたので、睡蓮は黙ったままそれをトデチの口に突っ込んだ。
 トデチは自分の手を使わず、睡蓮の指についた最後のひとつぶまで嬉しそうに睡蓮の手から食べつくした。
 食べつくしたあともいつまでも睡蓮の指を舌で舐め廻していた。  
 

     予兆

 その日、ベンチで寝ていたマツモトが何か大声で怒鳴るのと同時に、中学生らしき子供が数人、公園に走りこんで来るのを睡蓮は見た。
 彼等は笑いながら、近場にいたホームレスたちに突然小石を投げ付けはじめた。
 真冬も常に大汗をかいている木村という男の後頭部にその石のひとつがまともにあたり、そこからひゅっと血が吹き出した。
 子供達は斉藤のテントに向けても石を投げたが、それは大きくそれ、噴水めがけて飛んで行った。
「馬鹿やろう、このガキ!」
 斉藤がテントから半身を出して叫んだ。
「このガキだって」
 ひとりの子供が鼻で笑った。
「おまえら、朝から晩までこんなとこで寝てんじゃねぇよ」
 そう言った少年の声はまだ、声変わり前の甲高い声であった。
 その声を聞いた斉藤が少年の胸ぐらを猛然と捕らえ、ドスの利いた声で言った。
「他人に余計なせっかいやくな! お前はお前の事だけ考えてろ」
 耳もとで怒鳴られた少年は突き放された拍子に弱々と転び、しかし格段こたえた風も無く、ゆるりと起き上がると不遜に笑った。
「アーホ!」
 子供達はそのまま笑いながら走り去った。
 木村は頭からぽたぽたと血をしたたらせ、公園の真ん中に憮然として突っ立っていた。
 ちょうど周囲のパトロールに来ていた女性ボランティアたちが慌てふためいて駆け寄り、木村の傷の手当てをした。
「まったく、どんな躾をされてるんだろう」
 斉藤もボランティアたちも、怒りで顔を赤くしている。
「余計なおせっかいやくなって、私に言われたのかと思ったわよ斉藤さん」
 ボランティアの女性のひとりが木村の傷口にガーゼを当てながら自嘲気味に言った。
「何いってんの、あんたらのおせっかいは有り難いよ。もう何言ってんだよ」
 斉藤が女性の背を勢い良くパンとたたいた。
「あとで警察に言っといてよ。また来たら今度は四の字がためしてやる」
「四の字がため」
 木村がぷっと笑った。
 トデチは一部始終を噴水の縁に腰掛け、黙って見ていた。
 
 やがて近所の病院で包帯を巻いてもらった木村がひとり満足そうに戻ってくるなり、公園の隅を指差した。
「また猫が死んでるよ」
 木村には幻視幻聴があり、三年前に失くした紫色の帽子を果てしなく探しつづけている男である。
 紫色の帽子は、NHKの電波塔が発する強力な電波に操られたイタリア人が盗って行ったのだと主張してやまない。
 そして足しげく福祉の窓口へ通い、帽子の盗難についての訴えで受付を煩わせるのである。
 おかしなことを口走るが攻撃性は無く、公園の最も目立たない片隅にひっそりと住んでいる大男である。
 その彼の言う事をすこしばかり疑いながら睡蓮が確かめに行くと、はたしてそこに、ちいさな子猫の死体はあった。
「あの子たちがやったのかしら?」
 睡蓮はその場にしゃがみこんだ。
「きっとそうだよ、他に誰がやるのさ」
 木村が頭の包帯を片手で撫で回しながら言った。
 睡蓮は猫の死体を見ながら、坂道の途中で眠るように死んでいた黒猫を思い出した。
 同時に、子供の頃に飼っていた一匹の猫を思い、思わず自分の膝に顔をうずめた。

    フラッシュバック

 睡蓮の母は猫好きで、田舎の家には一時、十匹近い猫がいた時期があった。
 その中でも特にひ弱な黒い子猫を睡蓮は可愛がったのだが、猫は皮膚病にかかっており、全身の体毛が抜け、かさぶたに覆われていた。
 当時、学校でのストレスで毛髪が抜け落ちるという体験をした睡蓮は、その猫を自分の身代わりのように愛していたのである。
 近所からの苦情は回覧板に挟まれて廻って来た。
 特にその皮膚病の猫の治療なり処分なりを、小さな子をもつ家の主から再三請われていたのであるが、ある時、繰り返される苦情に腹を立て、睡蓮の父がその猫を処分してしまった。
 それは保健所へ連れいてくというような事ではなく、自らの手で処分してしまったのである。
 子猫は非常にあっけなく死んでしまうということを、その時、睡蓮は知った。
 母が喚くように何かを言うと、父は、皮膚病が他の猫に伝染するから可哀想だが仕方が無いと言い、埋めてやりなさいと言い残し奥の間へ消えてしまった。
「保健所へ連れて行ってもみな、同じ様に死ぬのだからね」
 母のとりつくろいは意味をなさなかった。
 殺された猫を抱きながら睡蓮は声を上げて泣いた。
 冷たく動かなくなった子猫を抱いて睡蓮は果てしもなく寂しく恐ろしくなり、独りその子猫を抱え、走って家を離れ、海の乾いた砂の中に埋めに行った。
 乾いた砂はいくら掘っても深くは掘れず、さらさらと崩れ落ちて来るのを何度も掘りなおし、ようやくごく浅いところに埋めると、あとは二度とそこへ行かなかった。
 父はいつか自分を殺すのではないかと睡蓮は思った。
 母は、その父から片時も離れようとしなかった。
 自分の育った家がどのように他の家庭と違うかということは、家の中にいる子供にはわからないものだ。
 今思えば寒々とした家であった。
 あの父と母のどこか深く病んだ寒々しさが、子供であった自分の前に常に石壁のようにそそり立っていたのだと睡蓮は思う。
 けれどもう、その父も母も死んでこの世にいない。
 父が病に倒れ静かに死んで行ったあと、母もすぐそのあとを追う様に自ら逝ってしまった。
 家に残されたのはまだ二十歳にならない睡蓮だけであった。
 睡蓮が父母の事を他人に話したことは一度も無い。
 世界は皆、平等に息苦しいものだと思っていた。
 そうではないことに気付いたのは、結婚後であった。
 あの短い結婚生活は、睡蓮にとってひとときの別天地であった。
 彼はこのような自分をとりもなおさず愛してくれたと、睡蓮は思う。
 そしてみんな消えてしまった。
 睡蓮は、公園の片隅で子猫の内側からはみ出ているものをそっと身体の中に戻そうとしてみたが、うまく出来なかった。
 猫の死体を両手で抱え、隅の植え込みの根元に深い穴を掘り、埋めてやった。

 その夜遅く、彼女は公園を抜け出し、ひとり行くあてもなく電車に乗った。
 子猫の死を見たことで甦った暗い記憶から逃れるように。
 あの頃もいつもこんなふうにあてもなく逃げ出したかったのだ。
 子供の頃にしみついた逃避癖は、何年経とうがどんな環境に身を置こうが大して変わらないものらしいと睡蓮は思う。
 自分が何から逃げたいのかよくわからないが、ただ、逃げ続けることで自分の命を保てると信じて来たことだけはわかる。
 逃げ延びて今、こんなところにいると思う。
 帰宅ラッシュの始まった夕方の電車に飛び乗ってみてはじめて、ようやく自分の身なりが気になった。
 数着の服を着廻しているうち、どれもみなくたびれてきていた。
 そろそろこれからの生活について考え直さなくてはならないと思いながら電車のドアの脇に立ち、せめて姿勢を正した。
 みな清潔な服を着て、自宅へと運ばれて行く。
 みな、あたたかな家というものがあるのだ。
 その様子を眺めているうち、睡蓮は彼等のまなざしの緩さに気付いた。
 どれもこれも、どこかしらすこし死んでいる様に見える。
 自分もあんな死んだ目をして生きていたにちがいないと思い、もしや、今もそうなのだろうかと思う。

(つづく)

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