葉々語り

ha-sawori-2

 気がつくと君はベランダにいた。
 さっきの口喧嘩はあまりに些細でくだらなくて、なのに部屋の中充満する気まずさが息苦しくて、僕はダイニングにいる筈の君を探した。自分が悪いと思っているわけじゃないけど、どちらかが謝ってしまえばこの息苦しさも消えるのだろうし、ならさっさと僕から謝ってしまってもいいかなとそう思って僕は君を探した。こういう時君がいつもしゃがみこんでいるダイニングの床に君の姿はなく、代わりに、君はベランダにいた。何をしてるのかと窓を開けると、生ぬるい風と一緒に君の小さな鼻歌が僕の顔をべろんと舐めた。思わず僕の口は別の言葉を吐いていた。
「何、やってんだよ、そこで」
「え?」
 その時振り向いた君の顔は僕の予想とあまりに反していて、だから、僕の中に芽生えた謝ろうなんて気持ちは一挙に潰れてしまったんだ。振り向いた君の顔があまりに、晴れやかだったから。
「何?」
「…別に」
「そう」
 それだけ言うと君は誰に笑うでもなく、でも微かに確かに笑いながら、僕が声をかけたことで中断された行為を再び為し始めた。知らぬうちにベランダの片隅に置かれた三つの鉢植え。君はその鉢植えを丹念に、撫でまわすようにいじりながら如雨露で水をやっている。
 急にこみ上げてきた言い知れぬ憤りに吐き気を覚えて、僕は窓を閉めた。
 さっきの口喧嘩は何だったんだ?
 いつもなら君は、僕が声をかけるまでずっと、ダイニングの床にしゃがみこんでべそをかいているじゃないか。だから僕は、早く謝ってこの気まずい雰囲気をどうにかしようと思ったんだ。なのに。
 なのに君は、知らぬ間にベランダにいて、知らぬ間に買い入れたのだろう鉢植えを愛でて笑っている。
 何なんだ?
 いや、別にいいじゃないか、どうせ些細な口喧嘩だったのだし。いつもへこたれてる君が笑ってるならいいじゃないか。
 いや、そうじゃない、君は何故今笑ってるんだ?
 むらむらと腹の中湧き上がってくる憤りは、まっすぐ君へ向いていた。そんなことおかしいと思いつつ、それは筋違いだと思いつつ、それでも僕の腹の中湧き上がってくる憤りは、どうしても君に向いた。今も尚ベランダで笑っているのだろう君に。
 いつもなら。
 いつもなら。
 君はここでべそをかいていた筈だ。僕が声をかけるまで。どうしてそんな些細なことを気に病むのかと思う時でも君は、いつもここでべそをかいていたんだ。僕が声をかけるまで。
 その習慣が、こんなにあっけなく壊れるなんて。
 僕は、知らなかったんだ。

 その日から君の姿は、ふと見るとベランダにあった。いや、もしかしたら。もしかしたら君はこれまでもベランダにいたのかもしれない。僕が気付かなかっただけで。
 部屋の中、僕と君との間で、ちょっとしたすれ違い、ちょっとした行き違いのあった後、君は必ずベランダにいた。

 或る朝、君にいつものように起こされて食卓につくと、いつもと何処か違った。何だろう、皿の位置もハムエッグにサラダにトーストというメニューも、別に特別なものじゃなかった。なのに何かが違う。ふと顔を上げると、テーブルの向こう、窓の外、影が在った。じっと見るとそれは、君があの日愛でていた鉢植えの一つだと気付いた。そしてそのまま下方へ眼を落とすと、生々しい紅染みと白い脈がそこに在った。
「何、あれ」
「え?」
「窓の外、吊るしてあるの、何?」
「あ、あれね、ポトスっていうのよ」
「その下にあるのは?」
「えっと、赤い花が咲いているのがアンスリウムで、葉っぱだけのがフィットニアっていうの」
「…」
「かわいいでしょ? 向かいの花屋さんで買ったの」
「…」
 どこが可愛いと君は云っているんだろう。僕は返事に詰まった。
 ポトスという代物は鉢からすっかり蔓を伸ばしていて、風が吹くと窓を破ってこちらに絡んできそうだった。アウンスリウムとかいう代物は、まるで誰かのベロのようなべっとり赤い花びらをしていた。フィットニアはフィットニアで、学生時代、生物室の片隅に置かれてた人体標本のよう、血管の代わりに白色の葉脈がありありと浮き出ているような代物だった。こんな代物にどうやったら可愛いという形容ができるのだろう。僕には分からない。だから尋ねた、君に。
「なんでこんなもの買ったの?」
 何故かと訊いているのは僕なのに、振り返った君は僕に何故そんなこと云うのかといわんばかりの顔をしていた。
「だって白い壁だけじゃ寂しいでしょ、ちょっとでもこうして緑があった方が気持ちがいいじゃない」
 だからってこんな気持ち悪い代物を集めてくることはないだろ、と、そう云いかけて僕は飲み込んだ。無理矢理半熟のハムエッグを口に入れると、黄身が妙に舌に纏わりついた。珈琲で腹の中流し込んでみたけれど、珈琲の味自体、よく分からなかった。
「行ってくる」
 食事を残されるのを君が嫌うのを知ってて僕は、半分も食べないうちに席を立った。なのに、君は
「行ってらっしゃい」
 と、そう、笑って僕を玄関まで見送りに来た。
 違う。これも違う。
 今までなら、君は、僕が食事を残したのを見れば、そのまま俯いた。俯いて、そんなに私の料理ってまずいの? と罪悪感いっぱいの声で僕に尋ねてきたんだ。それが僕は面倒くさかった。食欲がないときだってあるし、実際に食事がまずい時だってある、でも、どっちであっても「食事がまずかったの?」といちいち問うてくる君に返事をするということが煩わしかった。なのに、君はいつの間にか、僕に聞かなくなっていた。僕が食事を残しても、いつも来るはずの問いは、投げ返されて来なくなっていた。いつの間にか。
 ふたりが喧嘩をして気まずい時も。
 食事を残した時も。
 違っていた、これまでと、気がついたら違っていた。
 一体何時からだ、何時から…
 そして気付いた。
 君があの三つの鉢植えを、僕が知らぬ間に買い込んできた頃からだということ。気がついて、悪寒を覚えた。訳もなく、背中が凍った。

 日に日に窓の外、吊り下がった鉢からは蔓が伸び、下からは葉が繁ってゆく。いつのまにか窓の半分が彼らの影になるほど、彼らはぐんぐん育ってゆく。君は日毎、僕らの間で生じる摩擦を何事もなかったかのようにやり過ごす術が巧くなり、逆に僕は、いちいち躓くようになった。かつて「何でそんなことでやりあわなきゃならないんだよ」と怒鳴っていた僕の方が、ひとつひとつ躓かずにはいられなくなっていった。
 全部、全部この、鉢植えのせいだ。
 植物に腹を立てるなんてどうかしてると思いつつ、でもやはり腹が立った。最近の君の態度もいちいち苛立つけれどそれ以上に、こいつらを赦しておけない。
 明るいはずの食卓を翳らせる茂った葉たち、そこから目を逸らすと飛び込んでくる気味の悪い赤い色、身体中の血管がざわめかずにはいられなくなるようなあの白い葉脈の姿、どれもこれも、もう我慢がならない。
 僕は流し場に立っている君の背中を越えて窓を開けると、一番手近にあったフィットニアの鉢を投げつけた。鉢は一声ぱりんと声を上げ、あっけなく割れた。血管のような葉脈たちが一瞬、いっせいにこちらを凝視したような気がした。でもそれも一瞬のことで、直後、僕の背後から君の叫び声が上がった。
「何するのっ!」
 君は僕を突き飛ばしてベランダに飛び出した。割れた鉢の破片を踏んで自分の足から血が出ていることにも気付かず、君はフィットニアの苗を拾い上げた。
「なんで、なんでこんなことするの?!」
 君は何も気付いてないんだ、僕はこいつらを見てると苛々する。たまらない。もう我慢がならない。
「どうして? 私が大切にしてるのに」
 だからこそだ、だからこそ。どうしてこんなものを大切にしてるんだ、不愉快以外の何者でもないんだ、僕にとっては。
「信じられない…」
 信じられないのはこっちの方だ。
 君は、僕に背中を向けると、黙々と鉢の破片を拾い始めた。僕はもう、見ているのも反吐が出そうで、窓から離ると、ひとりで先に布団を被った。
 口をきかない眼も合わせない一日が過ぎた次の朝、君は、昨日という一日はきれいさっぱり帳消しになったかのような笑顔を浮かべてキッチンに立っていた。
「おはよう」
 訳のわからないざわめきが胸をよぎった。君の笑顔で胸が不快になるなんてどうかしてると思いながら、でも、どうしても胸がざわめいてしょうがなかった。
「もう朝ごはん、できてるよ」
 食卓につこうとして、僕は、息を飲んだ。
 窓越し、ベランダには、僕が割ったはずの、殺したはずのフィットニアの姿があった。しかも、君は株分けしたのか、ひとつだったフィットニアの鉢が二つに増えて。
 キッチンに立つ君は、鼻歌を歌ってる。
 あぁ。…

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