「メダカと柿とラブレター」  第1章 翔ちゃん

 僕の名前は啓太。安藤啓太。今年で小学校三年になる。
 うちのクラスには、あんどうって苗字のヤツが何故か三人もいる。安東ってのが一人と僕と同じ安藤がもう一人。幼稚園のときにも確か一人、女の子で同じ苗字の子がいた。だから僕は、誰かに苗字で呼ばれたことがまだない。先生も友達もみんな、啓太って呼ぶ。それなのに、成績表を配るときや席順を決めるときになると、あんどうって苗字のせいでたいてい前の方にさせられる。苗字なんて、かたつむりの角みたいに調子のいいヤツだと、つくづく僕は思っている。
 今ちょうど、うちのクラスは五時間目の国語の授業中だ。でも僕はといえば、保健室へ向かって階段を駆け降りている。どうしてかって?
 翔ちゃんがまた、ぶっ壊れたからだ。
 さっき、六年二組の担任の大木先生が僕のことを呼びに来た。だから僕は、授業中にもかかわらず翔ちゃんを迎えにこうして走ってるってわけだ。
「あ、来た、来た」
 校舎の一番隅っこ、一階の東端にある保健室のドアを開けると、保健の山内先生と大木先生の顔が揃って振り向いた。
「すいません、翔ちゃんは?」
「こっち、こっち」
「今日は、あの?」
 いつもこんなセリフのやりとりから始まる。馴れたもので、僕ももう驚いたりしなくなった。
「ん、それが、ね、今朝、クラスで飼育していたメダカが五匹とも、ね・・・」
「死んじゃったんだって」
 どうして五匹もいっぺんに死んだんだろう。二人の先生に見下ろされながらベッドの上で身体を固くして縮こまっている翔ちゃんは、膝の上に揃えた両の拳も同じくらい固くきっちり握り合わせていた。多分、僕が来る前にもう何度も先生たち二人がその拳を開こうとしていたに違いない。二つの拳のつっぱった白い皮膚の所々が、赤く脈打っている。先生方の皺が目立ち始めた手の甲と何となく見比べながら、僕は、先生たちに半ば挟まれるようにして立っていた。
「何かの間違いだと思うんだけど・・・」
 大木先生は、心持ち目を伏せながらそう言った。つまり、理由はよく分からないけれど、どうであれ、メダカは全部死んじゃったってわけだ。
「翔子ちゃん、それ見てからずーっと、水槽から離れなくなっちゃって。クラスの友達も代わる代わる話しかけたりしてくれたんだけど、誰が何を話しかけても動こうとしないのよ、全然。補聴器もまた取っちゃうし。それまでは、ねえ、結構調子良さそうに見えたのに・・・」
 確かに今日の翔ちゃんの調子は良かったと思う。今朝は朝飯も服着るのもひとりでさっさとやってたもの。
 僕はもう次に来るだろう先生たちの言葉がだいたい分かってしまった。結局困って始末に終えなくなった翔ちゃんを家に連れて帰ってほしくて、いつものように僕を呼んだってわけだ。
「はい・・・」
 とりあえず返事をした。でも余計なことは言わない方がいい。先生二人がどうしてくれって言うまでは黙って申し訳なさそうに僕は俯いていることにする。
「啓太君、授業中で悪いと思ったんだけど、これ以上翔子ちゃんを一人にしておいても何だと思って」
「・・・」
 なかなかはっきり言わないのが大人のルールらしいことは、僕も知っている。でもここで逆に子供の方がはっきりモノを言ったりすると生意気だととられるだけなんだ。だから僕は黙ったまま、この季節になると翔ちゃんに必ず憑きにやってくる汗疹が耳から首筋にかけて作ったまだらな赤い地図を目で順繰りと辿ってみたりする。そうしていると、ようやく保健の先生と大木先生とが目配せし、僕に向かって、
「啓太君、大丈夫かな、いい?」
 いいも悪いもないだろうと思うんだけど、先生たちはいつもそういう言い方をするんだ。連れて帰ってほしいから僕を呼んだっていうのに。
「はい、分かりました」
「悪いわね、ほんとに」
 いつものことなんだけど、僕はこの、「大丈夫?」とか「悪いわね」って言葉が大っ嫌いだ。だって本当は、悪いとも何ともたいして思っちゃいないくせに、でも一応挨拶って感じで、ほとんどの大人が使っている。だから、そういうときは僕も同じようにおべんちゃらの返事しかしたくなくなる。この一瞬が、僕はやっぱり唾を吐き掛けたいほど嫌いだ。
 そんなことに気付いているのかいないのか、それともそんなことには一向にかまわないのがこれまた大人のやり方なのか、先生達は僕への用事が済むと、さっさと翔ちゃんの方へ向き直ってしまった。
「翔子ちゃん、啓太君が迎えに来てくれたよ」
 保健の山内先生が、少し大きなゆっくりした声で翔ちゃんの耳元で話しかける。
 こういうとき、翔ちゃんは絶対こういう人たちの顔を見ようとしない。返事だってもちろんしない。どうしてそうなのか確かめたことはないけれど、翔ちゃんは翔ちゃんなりにこういう人たちが好きじゃないんだろう、と僕は思っている。だって、もう十二歳にもなる翔ちゃんを、こいつらときたらいつだってガキ扱いするんだから。返事をしなくて当たり前だと僕は思う。
 二人は返事をしない翔ちゃんにお手上げだと言わんばかりのため息をつき、僕はそれに気付かない振りで、翔ちゃんの右手を引っ張ってベッドから降ろした。
 僕は、大人たちの前では翔ちゃんにはほとんど話しかけないことにしている。だって、特にこんなときは、翔ちゃんも僕もホントのことなんて何一つといっていいほどちゃんと喋ることができないからだ。僕はどうしてなのか分からないけどすぐヘラヘラしちゃうし、翔ちゃんは翔ちゃんで、こんなふうに首を傾げて遠くを見たまんま、石になっちゃう。
 だからこんなときの僕は、決まり文句を忠実に繰り返すことにしている。
「すいません、じゃ、今日はもう一緒に帰りますので」
「そうしてくれる? あ、谷口先生には私の方からちゃんと伝えておくからね」
「はい、よろしくお願いします、じゃ」
 大木先生と保健の山内先生を安心させて解放してあげるには、こうしたやりとりが一番手っ取り早いみたいだ。これまで一度だってこれでうまくいかなかったことはない。僕の担任の谷口先生にもちゃんと都合つけてくれるんだから、僕は堂々と早退もできる。
 誰もいない校庭に沿ったレンガ敷の道を、僕は翔ちゃんの手を引っ張りながら歩いていく。翔ちゃんはまだ身体を固くして、くちびるをぎゅっと結んだまま僕にしぶしぶ付いてくる。この分だと今日は一日中、翔ちゃんは黙ったままだろう。晴れ渡った青い空にうろこ雲。今日の空は翔ちゃんの大好きな空だけど、それも多分、今の翔ちゃんの目には映らない。
 学校から家まで、僕一人だったら一〇分、翔ちゃんを引っ張って歩くと二〇分はかかる。歩きながら、僕はさっき聞いた死んだメダカの水槽を思い描いてみた。昨日まで生きて泳ぎ回っていただろうメダカ。透明な水槽の水。今日、多分水面に、下っ腹を見せて浮かんでいたんだろう死んだメダカ。死んじゃった水。止まった時間・・・。見上げると、空の透明な水色と頭の中の水槽の水色が重なった。
 玄関の前で僕はポケットから鍵を取り出す。左手は翔ちゃんでふさがっているから右手で。
 ただいまぁ。
 ふつうならここでそう言うらしいけど、僕はほとんど言ったことがない。そういう習慣は僕にはない。いわゆる鍵っ子ってヤツなんだ。
 「翔ちゃん、ほら、早く入って」
 僕は玄関を鍵まで締めて、ようやく翔ちゃんに話しかける。翔ちゃんが、僕より大きな体を屈めて靴を脱ぎ始めるのを確かめてから、僕は部屋に上がる。玄関を上がってすぐの左端の部屋が僕と翔ちゃんの部屋だ。二段ベッドの下が翔ちゃんのスペースになっている。僕は広い方がいいと思うんだけど、翔ちゃんは狭い隅っこの方を好んでいるようで、部屋の中で何をするにも隅っこに陣取っている。今日みたいな具合の日には、たいていベッドでお気に入りのクッションとぬいぐるみとを抱えて丸くなるのがクセだから、僕はそれがちゃんと揃っているのを目で確かめると、ランドセルを放った。
 翔ちゃんも靴を脱ぎ終えたらしい。ペタン、ペタンとスリッパの音が近づいてくる。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

 「おかえり、帰ってたんだね」
 五時を回る頃帰ってくるのが一番上の姉さんだ。うちで唯一、ただいまとかおかえりを言う人かもしれない。
 僕より五つ年上の恵子さんは、僕が通う小学校の隣の中学に通っている。頭脳明晰で運動神経抜群なのは昔からで、何をやらせても器用にこなしてしまう町内の有名人だ。つい先週にあった幼稚園の頃から習っているピアノの発表会でも、トリで三〇分近くかかるリストの何とかって曲を見事に弾きこなし、誰よりも大きな拍手と花束とをもらっていた。客席で聞いていた同じ教室に子供を通わせているオバサン連中が「羨ましいわぁ、安藤さんとこのお嬢さんは。何をやらせてもお上手で」と繰り返しため息をついていた。でも、恵子さんは何もしないのに何でもできるってわけじゃない。この発表会のために、眠る時間も削って夜毎小さな音で練習していたのを、僕は知っている。
 そのうえ、弟の僕が言うのも何だけど、恵子さんはけっこうキレイときてる。そのせいで、恵子さんが中学に上がってからというもの、僕はもう何度か顔も知らない制服姿のヒトから呼び止められては、ラブレターらしきモノの配達係をやらされている。恵子さんは一応僕から手紙を受け取ってはくれるけれど、それを読んでいたり返事を書いたりしているところは、まだ一度も見たことがない。
 そんな恵子さんのコンプレックスは、唯一あるとすればそれは、声、かもしれない。恵子さんの声は、その色白で面長のきれいな顔にはひどく似合わない低音なんだ。そのうえ、はっきりゆっくり喋るものだから、受話器を通したりすると、とんでもなく低く冷たく聞こえてしまって、よく相手に誤解される。つい一昨日も、電話で誰かと喧嘩していた。僕の予想だと、その声が冷たいとか何とか、しつこく言われたんじゃないだろうか。恵子さんは、これが私の地声なの、それをそこまで言うならもう何にも言わないよ、やめよ、それじゃあね、と、ドスの効いた声で言い終えると、受話器が割れるかと思うくらい乱暴に電話を切ってしまった。ああ、彼氏と別れちゃったのかしらんなんて、余計な心配をしたりしているんだけど、恵子さんはそういうことを口に出したり顔に出したりなかなかしないヒトなので、僕も「大丈夫?」なんて下手に聞けない。今のところ突然泣き出したり寝込んだりはしていないから、自分でどうにか保っているんだろうと僕は様子をうかがっている。
 そういう恵子さんは、こっちが言うことをそれなりに感じ取ってくれる人なので、僕は今日先生たちから聞いたことをそのまま言った。
「え? それで翔ちゃんは?」
 恵子さんの声がますます低く、小さくなる。だから僕は目でベッドの方を示す。恵子さんは、翔ちゃんがぬいぐるみをいつもよりぎゅうっと抱きしめて、ベッドの隅っこに隠れるように丸くなっているのを見ると、
「ずっと?」
と聞いてきた。僕がうなずくと、切れ長の目を覆う長いまつげを一瞬ふるわせて、
「この分だと、今日はずっとこのままだよね」
そう言って小さくため息をついた。僕が黙っていると、恵子さんは今度は僕に顔を向けて、
「じゃ、早退したんだ、学校、平気?」
「大木先生が大丈夫って」
「そっか、ならいいんだけど」
 そう言ってドアを閉めかけたところで、恵子さんが振り返った。
「今日の晩ご飯は、翔ちゃんの好きなホワイトシチューにしようね」
 制服を着替え終えた恵子さんが晩ご飯の用意を始めたんだろう。しばらくすると、台所からコトコトと聞こえ始めた。

 恵子さんが晩ご飯の準備をそろそろ終える六時頃になると、母さんが仕事から戻ってくる。母さんもやっぱりただいまとは言わない。おかえり、は言う必要がないのでもちろん聞いたことはない。玄関のドアを黙って開けて靴を脱ぎ終えると、早速この部屋のドアを開ける。そしてただいまの代わりに必ず僕と翔ちゃんにこう言うんだ。
「今日もまた途中で帰ってきたの?」
 僕としては、早退していないときの方が多いんだから決めつけないでせめて、どうだった、とか言ってほしいんだけど、母さんがそういう言い方をしてくれたことはまだない。もう習慣なんだろうと思う。だから、僕もあまり真剣には母さんの言葉を聞かないことにしている。
「ん」
「まったく・・・何でうちはこうなのかしら」
 これも口グセらしい。どうでもいいけど、僕こそそう聞きたいと思っていたりする。もちろん黙っているけど。それに、僕がここで余計なその日の報告やら何やらをしない方がスムーズにいくんだ。母さんはよっぽど機嫌が悪くないかぎり翔ちゃんには話しかけようとしないし、どうせ僕と話していても途中から脱線していくんだから。
 たとえば、下手に今日の報告なぞを僕が律儀にしてみせたとする。翔ちゃんのクラスのメダカが死んで、翔ちゃんはショックを受けたらしくて具合が悪くなって途中で帰って来たんだよ、なんて具合に。すると、何でそれくらいであんたまで早退するのとか、いつまでそんなことやってるの、だからわたしは反対したのよ、とか始まってしまうんだ。そう言われちゃうと、僕もヒトがいいもんだから、でも翔ちゃんはとか、翔ちゃんが言わないでいることを言おうとしちゃったりする。もうそうなると始末に終えなくなるんだ。僕は翔ちゃんの気持ちや自分の気持ちを何とか伝えようと懸命になるし、母さんは自分の世界を訴えようと必死になるから。そして、しまいには矛先が僕にだけ向けられて余計な説教が始まってしまう。あんたはそんなことばかりして、ちゃんと授業に追いついていってるの、そんなんでいいと思ってるわけ、なんて具合に。で、最後はやっぱり、何でこうなるのかしら、だから言ったのよってセリフが出てきて、あとはもう延々と母さんの独り言が続いてしまう。
 だから僕は言わない。習慣だけちゃんと済ませればもめ事は起こらないんだから。今日だって案の定、それだけ言い終えるとさっさと着替えに二階へ上がってしまった。
 僕は、締まったドアをしばらく眺めていたけれど、二階の寝室のドアのパタンと締まる音が聞こえて、読みかけのマンガに視線を戻した。
 と、タイミング良く、
「ご飯だよぉ」
 台所から恵子さんの大きな声が響いてきた。僕はまた、翔ちゃんの右手を引っ張ってベッドから降ろすと、部屋のドアを開けた。

 仕事や僕と翔ちゃんへの愚痴を、念仏のように唱え続ける母さんの声ばかりが響く食事が終わってだいぶ経った頃、いつものように父さんが帰ってくる。父さんもただいまとは言わない。台所から恵子さんのおかえりなさいと言う声が聞こえるけれど、父さんは台所までは届きそうもない小さな声で「ああ」とか返事するだけだ。
 それでも昔はちょっと違っていた。翔ちゃんが学校に上がる前なんかは、父さんはよく僕たちの部屋をのぞきに来ていた気がする。別に一緒に遊んでもらったとかいう覚えはないけれど、部屋にぶらっとやってきては、僕や翔ちゃんの顔を覗き込んで、でも目を合わせるということはなく、やってるか、とか何とか言っていた。
 でも今は、ドアが開くこともなく、階段を上がる父さんの足音が部屋の天井に響くだけだ。きっと、そうすることにも疲れちゃったんだろうと僕は思っている。仕事にも家にも疲れ切っちゃったような感じがするんだ。ビシッとした渋い背広を着ていても、この足音を聞いたら誰だってみんなそう感じるだろうと思う。母さんの足音がイガイガ虫だとしたら、父さんのそれは踏まれてペシャンコになった空き缶、ってとこだ。

 控えめなノックの音がして振り返ると、
 「まだ起きてる?」
 恵子さんが顔をのぞかせた。ドアの上に掛かった時計を見ると、もう十時を回っている。でも翔ちゃんも僕も、まだ眠ってはいなかった。
 「やっぱり今日はダメそう?」
 狭い部屋の中に、ドアの締まる音が響く。机の前で回転椅子に座っている僕と、翔ちゃんが丸くなっている二段ベッド、そしてドア近くの床にペタンと座り込んだ恵子さん。あとは作りつけの天井まである本棚で、部屋はいっぱいだ。
「母さん、来た?」
「別に」
「そっか、いつもと同じか」
「まあね」
 恵子さんも僕も、そこで言葉が止まってしまう。動いているのは時計の針と翔ちゃんの指先だけ。何となく手持ち無沙汰って感じがして、僕はランドセルに明日の時間割通りの教科書を詰め込み始めた。それを見て恵子さんが、
「勉強の方、啓太、大丈夫?」
と聞いてきた。
 恵子さんは時々そういうことを聞いて来るんだけど、僕はいつも返事に困る。だって、大丈夫と思っていたって成績は全然ダメだったりするし、逆にこりゃダメだと思っていた科目が花マルだったりする。大丈夫、という意味がイマイチよく分からない。分からないなら黙っているか分からないよと返事をすればいいんだけど、僕はここでもついついこんなことを言ってしまう。
「今日は国語の時間に退けて来たし、大丈夫だと思うよ」
 恵子さんが何か言いかけたとき、天井から声が落ちてきた。
「だから言ったじゃないですか、今日も啓太は早退してきたのよ」
「・・・」
「何とか言ってくださいよ、ねぇ」
「・・・」
「あなたが言い出したんでしょ、わたしの言うことなんかちっとも聞いてくれなくて」
「おまえはいつもそればかりだな」
「言わせるのは、あなたじゃないですか」
 あと一〇分くらいは続くだろう。始まってしまうと、父さんと母さんの言い合いは、最初から食い違っているから解決して終わることなんてない。今日もきっと最後は、父さんが部屋を出ていくか、母さんの捨てゼリフで終わるに違いない。
 天井からの声を振り切るようにして恵子さんが、
「何でこうなのかしらね」
 そう言って僕の方を見て苦笑いした。母さんの口グセは、こんなときにこそ使うモノだと僕も思っている。恵子さんはさっき言いかけた言葉を言う気を失ったのか、
「宿題とか、分からないところがあったら言いなよ、ね」
 それだけ言って立ち上がると、翔ちゃんにおやすみと声を掛けて出ていった。
 階段を上がる恵子さんの足音に気付いたのか、天井の声はパタッと止んだ。
「翔ちゃん、今日はもう寝ようよ、電気消すよ」
 僕がそう声をかけても、翔ちゃんは向こうを向いたままだ。仕方なくそのまま電気を消すと、ようやく布団に潜り込む衣擦れの音が聞こえた。僕はまだ時折天井から聞こえてくる母さんの声を跳ね返すように、天井に背中を向けて目を閉じた。
 その夜僕は、泳げないはずの翔ちゃんが、メダカと楽しそうに泳いでいる夢を見た。

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