「メダカと柿とラブレター」  第2章 じいちゃんと補聴器

 翔ちゃんは補聴器があまり好きではないらしい。手のひらに乗せたらすっぽり二つとも収まってしまうくらいの大きさの補聴器はちゃんと二つ揃っているにもかかわらず、たいてい左の耳にしか翔ちゃんは掛けようとしない。何で左の耳なんだろうと思うけれど、おかっぱにした髪の毛で隠れた左耳と反対に、右の耳にだけ髪を引っかけている横顔が結構かわいくみえたりするので、僕も黙って見ている。
 近頃、特にそうしていることが多くなった。教室でどうしているのか確かめたことはないけれど、多分同じなんだろう。先生にしても母さんにしても、翔ちゃんが補聴器を外しているのを見つけるとすぐさま、危ないから付けなさいと繰り返すけれど、僕は最近ちょっとそれは違うんじゃないかと思い始めている。僕は翔ちゃんに、この間の山内先生や大木先生のようにわざわざ耳元で話しかけるなんてことはしないし、そもそも自分の声の大きさを気にしながら話しかけるなんてほとんどしたこともないけれど、同じ部屋にいてごく普通に話している分には、翔ちゃんの鼓膜はちゃんと僕の声に振動していると思う。補聴器云々よりもむしろ、僕がうわの空で話しかけているのか、向き合ってはいなくてもちゃんと翔ちゃんに話しかけるんだと思って話しかけているのか、その違いの方が、翔ちゃんが反応するかしないかにつながっているように思えて仕方がない。たとえば、この間メダカが死んじゃったとき、山内先生と大木先生は翔ちゃんが握り拳の中に隠してしまった補聴器を取り出そうと必死になっていたようだったけれど、もしあの場で翔ちゃんの拳から補聴器を取り出すことができても、翔ちゃんの耳に先生たちの声は響かなかったんじゃないかと僕は思う。ああいうときって、慌てれば慌てるほど、必死になればなるほど、不思議なことに自分の言いたいことばかりでいっぱいになってきて、それをどうにも聞き入れてもらわなくてはたまらないような気持ちになってくる。多分、母さんと僕が言い合いになるときがそうなんだろう。両方でそれぞれの気持ちを分かってほしくて結局怒鳴り合ってしまう。でも実に皮肉なことに、そうやって分かってほしいとばかり思えば思うときほど、結局それがちっとも伝わっていないことを思い知らされるだけなんだ。それでも言い返すことができる僕は、こっちはこっちで勝手にわめいて相手の声を潰しているんだからお互いさま、で済むけれど、そういうときの翔ちゃんはほとんど声を持たない。だから相手の声だけが翔ちゃんの耳に雪崩れ込むことになる。そのせいだと思うんだけど、母さんや僕なんかがたとえば捨てゼリフで相手を叩き伏せてしまおうとする代わりに、翔ちゃんは別の方法で自分の耳を守っているみたいだ。僕はそれを回転扉と思っている。分かってよ、聞いてるのって感じで誰かが翔ちゃんに乱暴に訴え出すとき、翔ちゃんはすっと、自分の心の中に持っている回転扉を押して向こう側へと行ってしまう。そんな気がするんだ。誰だって、土足で心の中にズカズカ入り込まれっぱなしじゃ、たまったものじゃない。
 それともう一つ、補聴器をつけた翔ちゃんの耳は、この夏という季節が何より苦手みたいだ。同じ兄弟でも恵子さんや僕と違って翔ちゃんはひどく汗っかきで、少しでも暑いとなると、まず鼻の下に玉のような汗をかく。しばらくすると額やらあごあたりからも汗がふき出してきて、鼻息もふうふう荒くなってくる。そうなってくると、翔ちゃんはたいてい補聴器を思い切り外してしまう。耳の穴につながっている外側の窪みがやたらに大きいからなのか、耳の穴の中に汗が伝って落ちていってたまってしまうんだそうだ。おかげで翔ちゃんが中耳炎にならなかった夏はないといっていいほど少ない。そんなんだから、プールにはもちろん入れない。だから、僕にとって夏休みは最高の代物でも、翔ちゃんにとっては最低最悪、地獄のような日々に違いない。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

 今年もその夏休みがやってきた。翔ちゃんは今日も朝から扇風機の前に陣取って動かない。僕は、窓のすぐ外に植えられている、二階に届くほどの大きな金木犀が部屋の中に作ってくれる木陰で、母さんたちが二階から下りてくるのを待っていた。
 パタパタパタッと階段を勢いよく降りてくるスリッパの音と一緒に、ドアの向こうから恵子さんの声が響いた。
「そろそろ行くよ」
 僕らが靴を履いていると、やがて父さんと母さんが順に降りてきた。台所へ取りに行った何枚かの汗拭き用タオルを鞄に詰め込みながら恵子さんも玄関へ戻ってくる。ぞろぞろと家族五人で車に乗り込むと、父さんは千葉の船橋へと車を走らせた。
 正月とお盆の年に二回、うちが家族揃って出掛ける唯一の行き先は、船橋にある母さん方のじいちゃんの家だ。ばあちゃんが亡くなってからというもの、じいちゃんは一人でその家に住み続けている。耳の上から五センチくらいの幅でふわふわっと毛がひっついているだけであとはぴかぴかに禿げ上がっているじいちゃんの頭が、僕は何度見ても見飽きないほど好きだ。でも昔は当然そこにもふさふさと黒い髪の毛が生えていたわけで、恵子さんや翔ちゃんと去年こっそり盗み見た写真には、地味な柄の着物を着ているばあちゃんの隣で、水玉模様の蝶ネクタイを締め白いスーツを着込んだじいちゃんが、そのたっぷりあった髪の毛をポマードか何かでぴたっと撫でつけたりして、ひとりで格好つけてる姿がしっかり写っていた。洒落モノの性格というのはすっかり歳をとった今でも変わらないらしく、遊びに行くたびに洗面所には新しい育毛剤が置いてある。いろんな新製品を試しているらしい。そんなことをしなくても今は今で充分魅力的だと思うのだけれど、そんなことを言おうものならじいちゃんの大目玉を食らうから、とりあえず黙っている。
 最近めっぽう耳が遠くなったと言って電話で話すのを厭がっているじいちゃんだが、お化けの話をさせたらもうピカ一なんだ。化け猫やヒキガエルの恨み辛みといった動物たちの話から始まって、座敷童や右目っこ、飯食わぬ女といった話は、全部じいちゃんから教えてもらった。でも、僕が一番覚えている話は、実はお化けの話ではない。確かばあちゃんの七回忌で集まった夜にじいちゃんが話してくれた、戦争の時の話だ。
 大正生まれのじいちゃんは二十歳になるかならないかの頃、徴兵で軍隊に引っ張られた。配属先は海軍だったのだけれど、何故かそこでほとんど炊事係をさせられていたのだそうだ。あるときその船が敵に攻撃されて沈没してしまう。口やら鼻やら身体中の至るところから海水がネジ込まれるような感覚の中で、逃げ遅れた仲間がみんな海に呑まれていくのを目の当たりにしながら、それでもじいちゃんは何とか浮いている木切れか何かにつかまることができた。それからどのくらい波間を漂っていたのか覚えていないが、ふと見ると、灰色の空と海との境が橙色に膨らんで波も橙に染まってきた。辺りを見回すと、自分の周りを、さっきまでいなかったはずの大勢の仲間が取り囲んでいるのに気が付いた。助かったのか、大丈夫かとじいちゃんが声を掛けると、そいつらは、大丈夫だ、もう少しだぞ、と応える。じいちゃんは嬉しくなって、海水ですっかりふやけてしまい、痺れて解けそうになっていた腕にもう一度力を込め直して浮きにしがみつき、自分を取り囲んでいる仲間と声を掛け合いながら頑張ったのだという。それでも時折遠くなっていく意識の中で、この仲間の声だけがじいちゃんを支えてくれた。ふと気付くと、それまでいたはずの仲間が誰一人いない。驚いて大声で呼んでみると、幾つか向こうの波間から声が帰ってくる。慌ててその方向へ足をバタつかせて行ってみると、おまえ、生きてたのか、と声を掛けられた。まじまじとその顔をみるとさっきまで周りにいたはずの仲間の中のどの顔でもない。もう岸はすぐそこだ、辛抱しろ、と隣にいるもう一人が声を掛けてきた。ようやく岸に辿り着くと、もう何人かの兵隊がすでに辿り着いていたが、じいちゃんがさっき見た仲間は一人としてそこにはいなかったという。少なくとも一〇人はいたとじいちゃんは言う。そんなに大勢の人がいっぺんに消えてしまうわけがない。そのとき初めてじいちゃんは、自分を助けるために波に呑まれたはずのみんなが声を掛け合って励ましてくれていたんだと気付いた。思わず振り返って、海に両手を合わせずにはいられなかった、とじいちゃんはそう言った。そして、戦争からどうにか生きて帰って以来ずっと今日まで、神棚へのお参りを毎日欠かさないのは、あのときの仲間の声が今も忘れられないからだと、じいちゃんは話してくれた。
 多分じいちゃんは、死ぬまで神棚を奉り続けるのだろう。今日も僕たちが帰るまでの間に、きっと一度は神棚に手を合わせるじいちゃんの背中に出会うに違いない。僕は今のところ、じいちゃんと同じような経験はしないで済むような気がするけれど、でももし同じことに出会ったら。そう思うと、じいちゃんのこの話はどうしても忘れることができない。
 車の中に二時間ほど閉じこめられてようやく、僕たちはじいちゃんの家に着いた。金歯、銀歯だらけの奥歯がすっかり見えるほど口を大きく開けて笑いながら、じいちゃんは玄関まで迎えに出てきた。母さんも父さんもたばこを吸わない中、じいちゃん一人がぷかぷかとうまそうに吸っている。三人が座っている座卓の狭い部屋がじいちゃんの煙に占領される頃、三人の話も終わってじいちゃんは早速僕たちの方へやってきた。
「おい、翔子、見てみろ、見てみろ」
 じいちゃんはやけに機嫌良くでっかい声で翔ちゃんを呼んだ。その声に弾かれるようにして翔ちゃんがそばに行くと、じいちゃんは隠していた手のひらの中のモノをパッと開いてみせた。
「ほれ、お揃いだろ」
 恵子さんと僕は顔を見合わせて何のことかと思っていたら、翔ちゃんはよく分からない笑い声を出して大ウケしている。じいちゃんの方も、ジイもとうとう世話になることになっちまったよ、とか言いながら笑っている。見に行くとそれは、補聴器だった。
「じいちゃんもつけるの?」
「おうよ」
「いつから?」
「しばらく前に医者に言われたンが、まぁ、翔子が来る前にはと思って先週買いに行ってナ」
 僕と恵子さんはもう一度顔を見合わせてしまった。翔ちゃんは左耳につけていた補聴器を早速取り外すと、じいちゃんの補聴器と並べてみせた。それはまるでネズミの親子みたいに、仲良くじいちゃんの手のひらに並んだ。
「これがまぁ、大変なんだ」
「大変って? 何が?」
「つけたもンにしか分からんわ、なぁ、翔子」
 じいちゃんがそう言ってまたにぃっと笑うと、翔ちゃんもにぃっと笑い返す。何だか外された感じがしてちょっと目をそらすと、じいちゃんが、
「つけてると、聞こえてほしい音じゃない雑音までが全部でっかくなって飛び込んできよる。耳が痛いの何のって、たまらんわ。翔子はいつもこれつけて、よう我慢しとるわ」
「・・・だって、それつけなくちゃしょうがないじゃんか」
「しょうがなかろうが何だろうが、痛いものは痛い。だから、つけたもンにしか分からんと言ったんだろうが、なぁ」
「・・・」
「翔子はよう我慢しとる、偉い、偉い。じいちゃんの方が根負けしそうだわ」
 翔ちゃんは、にこにこしながらじいちゃんの言うことに耳を傾けている。右の耳にだけじゃなく補聴器を外している左耳にも髪の毛をかけて首を微かに傾けながら聞いている翔ちゃんの格好が、僕には何だかいつもよりちょっとかわいく見えてしまった。
 翔ちゃんが補聴器をしばしば外したがる理由は、きっとそれだけというわけでもないのだろう。じいちゃんの言う通りだ。つけたもンにしか分からない。補聴器をつけていない僕がああでもない、こうでもないといくら考え巡らしてみても、本当の理由なんて決して分かることはないんだろう。思いがけないところでこんなふうに気付くのが精一杯なんだ。じいちゃんの戦争の話と同じように。
 その日、夕方になって恵子さんが作ったひじきご飯と肉じゃがをみんなで囲んで食べた後、僕たちはじいちゃんに手を振られながら、家へとまた車を走らせた。

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