「メダカと柿とラブレター」  第3章 みしらず柿

 東京に生まれ育ったという父さんには田舎と呼べる場所がない。父さんの両親はとうの昔に亡くなっていて兄弟もみんな東京に住んでいるというけれど、何故か全然つきあいがない。でも、小学生だった父さんが疎開していた何年間かを過ごしたという家になら、行ったことがある。福島県の田島って小さな町だ。名前は知らない細い川に掛かる橋のたもとにその家があって、当時からずっとその田島の家に住んでいる父さんの親戚が、今もそこには住んでいる。家族で二、三回行ったことがあるその家のおじさん、おばさんが、毎年十一月になると庭の渋柿を詰めた木箱を送ってきてくれる。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

 今年もその木箱が届いた。恵子さんを手伝って台所の裏口近くへ届いたその木箱を運ぶ。箱はこれからそこで半月くらい置きっ放しにされる。色付き始めた柿は、枝からもがれてこの木箱に詰められるとき、日本酒を一升分くらいドボドボとかけられて来るのだそうだ。渋柿だった実は、その箱の中でお酒をいっぱいに吸い込んで、渋味を失う代わりに甘く柔らかくなっていく。暗い所に置きっ放しにされるのは、渋柿がお酒を充分に吸い込むまで待つためだ。
 木箱の箱にマジックペンで書かれた日付通り、二週間待って恵子さんが箱を開けると、台所中がぷうんと甘く発酵したお酒の香りで満たされる。箱の周りに新聞紙を敷いて、その上に恵子さんと翔ちゃんと僕の三人で柿を並べていく。箱からいったんは全部の柿の実を出してやらなくてはいけないからだ。かけたお酒は下の方に溜まるから、下の方に詰められた柿の実の方がお酒を吸い込みやすい。つまり、下に並んだ柿の方が早く、果肉が橙に透き通ってくる。指で強くつかんだりしたら潰れてしまいそうな、大事に手のひらで包んでやらないといけないくらいにやわくなった柿の実。父さんに言わせると、こうなったときが食べ頃なのだそうだ。そんな柿の実はナイフで皮を剥くことはできない。その代わりに、半透明色の実のヘタの周りに果物ナイフで切れ込みを入れ、ヘタを取る。それでできた穴から、スプーンで実を掬って食べる。
 もうずいぶん前にこの食べ方を父さんから教えてもらった。恵子さんと僕と翔ちゃんの前で、父さんは得意そうに、とってもおいしそうに柿の実を食べてみせてくれた。
 今その食べ方をするのは、父さんと翔ちゃんだけだ。僕はいまだに上手くその食べ方ができず、途中で皮を破ってしまう。そのせいというわけではないけれど、僕は、箱の真ん中ぐらいに並んでいる山吹色の柿が好きだ。持ち上げても実に指の窪みができない、包丁でちゃんと皮を剥くことができる固さをもった柿。恵子さんも僕と同じみたいで、父さんと翔ちゃんが二人してスプーンで実を掬っている横で、僕と恵子さんはナイフで柿の皮を剥いて食べている。母さんはあまり柿が好きではないのか、ほとんど手を出さない。
「翔ちゃん、ちょっと、そんなところに並べちゃダメよ」
 恵子さんの声に顔を上げると、さっきまで僕の隣で新聞紙の上にちゃんと柿を並べていたはずの翔ちゃんがいない。
「駄目だってば、それはこっちに並べるって言ったでしょ」
 箱を挟んで向かいに座っていた恵子さんが立ち上がる。振り返ると、いつの間に行ったのか、居間の窓のサッシに沿って、とろけそうな橙色の柿を一個ずつ並べている翔ちゃんが見えた。
「翔ちゃん、食べ物で遊んじゃいけないって言ったじゃない。いい? みんなが歩くところに食べ物を置いたりしたら汚いでしょ、ね?」
 翔ちゃんの鼻歌が聞こえる。
「全部元に戻して。ほら、一緒に向こう持って行くんだよ」
 翔ちゃんの鼻歌は、いろんな音のつぎはぎだから題名がない。傍らで聞いたらワケが分かんない代物だけど、ちょっと離れたここからだと、不思議と恵子さんの声と合奏してちゃんとしたメロディを奏でているように聞こえてくる。
「翔ちゃん、あっち持っていくの、駄目だってば、ここに並べちゃ」
 繰り返す恵子さんの声を聞いているのかいないのか、翔ちゃんは、恵子さんに、並べた五つの柿の実を得意そうに指さしてはにこにこしている。観念したらしい恵子さんが、それだけだよ、それ以上は駄目だよと言いながらこっちへ戻ってくる。しゃがみ込んでいる翔ちゃんの足元に並んだ柿の実は、僕のところからだと、ガラス越しに降り注ぐ白い光をいっぱいに浴びて、宝石みたいに見えた。
 戻って来たものの、まだ翔ちゃんの持っていった柿の実が気になっているらしい恵子さんに声を掛ける。
「もう全部出したよ、これ、どの箱に入れとくの?」
 結局恵子さんと僕の二人で三つの籠に柿の実を分け入れた。こんもりと山を描いた三色の籠が、今日からしばらくテーブルの上に並ぶ。

 その日珍しく夕飯前に戻った父さんと翔ちゃんが、さっき翔ちゃんが床に並べていた柿の実を二人してスプーンで掬って食べている。何が楽しいのか端から見ている僕にはよく分からないけど、さっきから、目を見合わせては二人ともくすくす笑って食べている。くちびるに差し込まれる銀色のスプーンから、赤い舌先に半透明の橙色の実がとろんと落ちていく。電気の光線を含んで余計に橙に見えるその果肉は、今日の理科の授業で見たスライドの、鶏の卵の中の卵黄に重なって見えた。
 さっきまで二階に上がっていた母さんがテーブルに戻ってきて父さんと翔ちゃんの前に座ると、唐突に父さんが話し始めた。
「転勤が決まりそうだよ」
 父さんのその声で、母さんの顔色がすっと変わった。
「いつ、どこですか、それ」
 恵子さんはまだ台所で洗い物をしているみたいだ。水が流れる音と同じくらい低い遠い声が、母さんの喉から漏れた。
「三月末、松山の方にね、少なくとも三年は行くことになりそうなんだ」
 静かなのはそこまでだった。
「どうしてもっと早く言わないの、そういう話があるって。どうするつもりなんですか、あなたは」
「行くしかないだろ、仕事なんだし。そう長く行ってるわけじゃないから単身赴任でいいと思ってる。君も仕事があるんだろう。それに、松山だったら飛行機ですぐだから週末こっちに帰ってくることもできるしね」
「何言ってるんですか、あなただけの話じゃないでしょう」
「だからといって君に仕事を辞めてくれと言ったってきかないし、家族みんなでって言ったって無理な話だろう」
「断ればいいじゃないですか、そもそも何で今さらそんな話、あなたに来るんですか、前もそうだったでしょうが」
「仕方がないじゃないか」
 台所の水の音が止まった。食卓の声に、きっと恵子さんも耳を澄ましている。僕は二人のことが見えないように、天井や壁紙の模様のあちこちに視線を動かしてみる。翔ちゃんは。
 翔ちゃんは、父さんの隣で、お皿の上に載っかった橙色の実と少し厚めのくちびるとの間で、スプーンを持った右手をぴたっと止めたまま動かない。そして両の目は、父さんと母さんがぶつけ合う言葉が溜まっている空中を、睨みつけている。
「そうやってあなたはいつでも言い逃れするんですよ、仕事だ仕事だって。わたしだって働いているんですよ、あなただけじゃないでしょうが」
「君が働きたいと言ったんだろう」
「あなたがいいと言ったんじゃないですか、今さらそういう言い方ありますか」
「・・・」
「いつもいつも、翔子のことだってそうですよ、普通の学校に通わせようなんて、言うだけ言ってあとは知らんぷりじゃないですか。どうしていつもそうなの」
「お母さん、止めなよ」
 いつの間に来たのか、台所と食卓とを分ける食器棚の横に立っている恵子さんが、いつもよりいっそう低い声で言った。
「あんたは黙ってなさい。そうでしょ、翔子は来年中学なんですよ、どうするんですか、まだ普通の学校だ何だと言うわけですか、それであなたはよそで気楽に暮らして、残った者はどうするんですか、誰が尻拭いするっていうのよ」
「いい加減に止めてよ、お母さん、そういう話するなら二人きりのときにやってよ」
「黙ってなさいって言ってるでしょ、わたしはあんたたちのためにも言ってるんですよ」
「そうじゃなくて、翔ちゃんをだしに喧嘩しないでって言ってるのよ」
「恵子、親に向かってどういう口のきき方してるのか分かってるの」
「いい加減にしないか、二人とも」
「何言ってんですか、そもそもあなたが」
 母さんの刺すような声に重なるようにして、父さんと母さんの真ん中をスプーンが飛んでいった。翔ちゃんの投げつけたそのスプーンは、電気の光を受けてきらっと光りながら、恵子さんが立っている右側の、食器棚に命中しガシャンと勢いよく音を立てた。
 まだ半分は残っているだろうお皿の上の柿の実が、上の方だけ皮がひしゃげて、突然襲ってきた周囲からの沈黙に小さく震えていた。

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