「メダカと柿とラブレター」  第4章 聴唖

 門口に枝をはった街道桜が、今年も濃桃色のぽってりした花をつけた。僕が生まれる前から生きているその街道桜は、幹がすっかり灰茶色にすすけている。僕がまだ幼稚園に入る前に病院で死んでしまった母さん方のおばあちゃんが、恵子さんの誕生の記念樹にと植えたんだそうだ。この花びらがすっかり落ちて萌黄色の葉が茂る頃、今度は花の代わりにサクランボを凝縮させたような紅色の固い小さな実をつける。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

 入学式は昨日だった。翔ちゃんは恵子さんと同じ中学に通うことになった。そう決まったのは一月の末だったと思う。母さんが養護学校へと言い続けたにもかかわらずそうなったのは、翔ちゃんに養護学校へ入れるだけの資格がなかったからだ。養護学校に入るにも資格が要るなんて、僕は知らなかった。
 確かに僕は、夜毎言い合う母さんと父さんを放っておいた。心の奥の方には父さんに賛成する気持ちもあったけど、実際どうした方がいいのかなんて分からなかったし、第一、しばらくしたらいなくなる父さんの味方をするより黙っている方がいいと思ってた。だから、恵子さんのようには、父さんと母さんの言い合いに割って入るような真似はしなかった。でも、いざ母さんの言い分が通ってお役所に打診してみると、申し訳なさそうに断られた。
 翔ちゃんは三つになるとき、難聴で、この状態では人の喋っている声にはほとんど反応を示さないと確かに医者に診断された。翔ちゃんの耳と補聴器とのつきあいは、それ以来続いている。けれど今診断するところ、聴力はだいぶ回復していて、決して以前のような難聴ではないという。普通の人の聴力を一〇としたら、今の翔ちゃんの耳は補聴器を外していても、その六、七くらいはちゃんと聴き分けているはずだという。だから、充分普通に学校生活を送ることができるのだそうで、そういう人間に養護学校への入学の資格はないのだそうだ。それでも、ちゃんと細かなことを聴き分けていないし自分から喋ることなんて全くできないんですよと母さんが言い張ると、施設から事の次第を伝えに来たその人は、それは聴唖と言われるものだと思う、耳は聞こえるのに言葉が喋れないことで、最近の子供に見られるようになった症状ではないか、と教えてくれた。そして、そんなふうに過敏になってはいけません、そうしたお母さんの心の内を子供は誰より感じ取ってしまって、余計に喋ることをしなくなってしまうんですよ、と逆に母さんを諫めて帰っていった。それから一週間近く、母さんは家の中で誰とも口をきこうとしなかった。こっちの息も詰まるくらいの重たすぎる母さんのため息ばかりが、家中を占有した。
 そんな母さんを避けるように、父さんの帰宅時間はいっそう遅くなり、階段を昇り降りする足音も細くなっていった。そうしているうちに転勤の日がやって来た。今頃父さんは、松山って土地で一人、部屋にごろんと寝そべったりしているのかもしれない。
 父さんがいなくなってから、何となく母さんは変わった。前より仕事で出掛けている時間が長くなり、家で過ごすわずかな時間も、ほとんど自分の部屋にこもっていることが多くなった。一方恵子さんは、一日の半分は学校、半分は台所と、ひっきりなしに動き回っている。
 今朝母さんは、朝食を一人でさっさと済ませると、夕食はいらないからと言い残していつもより一〇分も早く仕事に出掛けていってしまった。そういえば、最近いつ母さんと一緒に食事をしたかしら。
 部屋のドアをノックする音がして、恵子さんの顔がのぞく。
「あれ、啓太まだいたの? 今日始業式だったよね。もう登校班の人たち集まってる時間じゃないの?」
「ん、もう行く」
「翔ちゃんもほら、制服着て。教科書は? 準備いいの? そろそろ行くからね」
 恵子さんはハンガーに掛かった翔ちゃんの新しい制服を手にとって、ブレザーの右肩についていた糸屑を軽くはたいて落とすと、翔ちゃんに渡そうとした。でも、翔ちゃんはそれを受け取ろうとはせず、ただじっと、目の前に立つ恵子さんの顔を見上げている。
「・・・ナイ」
「え? 何?」
 翔ちゃんは、恵子さんの手からハンガーを右の人指し指で受け取ると、そのままの位置でぶらさげている。そしてハンガーに掛かった制服で、自分と恵子さんとの間を隔ててしまった。
 恵子さんが遮られた制服越しに僕を見る。昨日の朝、今、恵子さんが立っているのと同じ位置に母さんがいた。部屋に入ってくるなり翔ちゃんをベッドの前に棒のように立たせると、翔ちゃんの身体に制服を巻き付け始めたそのときの母さんの肩が、何だかやけにとがっていたように見えたことを思い出す。僕は、今朝少なくとも四回は履き直しているはずの靴下を、もう一度履き直すフリをしながら恵子さんに言った。
「制服自分で着るの、翔ちゃん初めてだよ」
「あ。・・・そうか」
 恵子さんはほっとしたように息を付くと、ごめん、ごめんと言いながら翔ちゃんに制服の着方を教え始めた。机の上の真新しい学生カバンの上に右と左と並んで置かれた補聴器は何だか、申し訳なさ気に肩をすくめているようで、妙に小さく見えた。
 今日からはもう僕は翔ちゃんを待つ必要はない。翔ちゃんは、恵子さんと中学校に通う。恵子さんが自分の制服のリボンを解きもう一度結び直して翔ちゃんに見せているのを横目に見ながら、僕は部屋を出た。

 昇降口付近に貼り出されたクラス替えの表の前にできた人だかりは、時折女の子たちの甲高い笑い声と早口の文句とでごった返していた。全学年二クラスしかなかった去年より、生徒の数はさらに減ったようで、今年は一年生が一クラスしか貼り出されていない。
 僕は表の前にいつまでもたむろしている女の子たちをよけて、下から四番目に貼られた四年生の名簿を見た。四年一組、上から三番目に安藤啓太とある。去年まで僕の名前を挟んでいた安東ともう一人の安藤はそこにはなかった。てっぺんの担任の名前を見ると、市川喜平と書いてある。去年翔ちゃんの担任だった大木先生と一緒に六年生を担任していた、この学校で一番年寄りの先生だ。隣の二組を見ると担任は大木恵美子とある。去年の六年生の担任が揃って、よりによって四年生に降りてきたようだ。
 予鈴のベルの音で、それまで表の前に群がっていた女の子たちがいっせいに散っていく。僕も上履きに履き替えると、二階までの階段を一気に駆け上がった。初めての教室に入ろうとする手前で、耳慣れた声に呼び止められる。
「啓太君、おはよう」
 大木先生が真後ろに立っていた。
「おはようございます」
「去年までいろいろ大変だったわね、今年からは翔子ちゃんも中学校だし、よかったじゃない、頑張ってよ。先生、隣のクラスだけど今年もよろしくね」
 大木先生の言葉は、ねっとりとした油のように両耳からつうっと僕の身体に入り込むと、僕のお腹の底に異物として溜まっていった。

「翔ちゃんの担任ね、黒テンなんだよ」
 くろてん、とは、保健体育の黒川先生のことで、恵子さんが一年生だったときの担任だ。どうしてくろてんとあだ名が付いているのか知らないけれど、恵子さんの学校の話にもわりとよく出てくる名前だから僕も覚えてしまった。
「僕も担任は市川って年寄り先生なんだけどさ、隣、大木先生だよ」
「ほんと? なんか、姉弟揃ってやられたって感じね」
「でも黒テンっていいヤツなんじゃないの?」
「それがね、笑っちゃうのよ。翔ちゃんがトイレに行ったはいいけど戻ってこなくて、要は迷子になってたらしいんだけど、そしたら黒テン、休み時間に翔ちゃんの手引いて校内を一教室ずつ連れて歩いてるのよ、今日」
「姉貴、教えてあげなかったの?」
「昨日入学式の後連れて回ったよ。でも、いっぺんに覚えられるわけないじゃない。小学校みたく一日中ほとんど同じ教室ってわけじゃないんだし。ね、翔ちゃん」
 翔ちゃんはカレーライスを頬張ってふくれたほっぺたをもぐもぐと動かしながらも、誰にともなくふんふんというような返事をしている。
「明日も休み時間にはちゃんと翔ちゃんのとこ行くから。それ考えると、黒テンでよかったかもね。話しやすいし、もともと面倒見もいいし、ん」
「ならいいけど。ね、それよりさ」
「何?」
 言いかけた僕の頭の中を、今朝の大木先生の言葉がどんよりと一周した。向かいの席でカレーライスを食べるのに一生懸命になっている翔ちゃんの頭のてっぺんばかりが、電気の灯りで浮き立って見える。
「何、啓太」
「え、あ、だから、さ、姉貴、今年生徒副会長になったんだろ、どうすんの、毎日」
「どうすんのって、何を?」
 恵子さんは多分僕が言いたいことを感づいていたと思う。でも恵子さんは絶対、翔ちゃんの前で翔ちゃんの琴線に触れるようなことは言おうとしない。
 僕は言い方を変えることにした。
「一年生と同じ時間に帰るなんてことないだろ。帰りとか、馴れないうち翔ちゃんどうするのかなと思って」
 翔ちゃんの右手が止まって、僕の顔、それから恵子さんの顔を、順繰りに翔ちゃんがまっすぐ見つめてきた。恵子さんの眼が一瞬僕に向けられた気がしたけど、覆い被せるように恵子さんは翔ちゃんに向かって、にっと笑った。
「翔ちゃんだってこれからは大丈夫だもんね。帰り道一人でっていうのに馴れるまでは私が一旦送り届けるから。学校近いんだし、翔ちゃんを送ってからもう一度戻っても大したことないでしょ。馴れたら翔ちゃんの分も鍵を作って渡すことにしようと思ってる」
「馴れたらって」
「何とかなるもんだって。ねえ、翔ちゃん」
 翔ちゃんは恵子さんを真似してにぃっと笑った。白いみそっ歯が軽く刺さって、下くちびるがいっそうぷりんと厚く見える。
「あの、さ」
「啓太もほら、ちゃんと食べてよね。せっかくあんたの嫌いなにんじん、抜いて作ったんだから」
 白いお皿の上の食べかけのカレーは、冷えかかっていたけど確かにおいしかった。

 明日は父さんが松山から初めて家に帰ってくる。

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