今朝、恵子さんはいつもよりだいぶ早起きをしたみたいだ。ブラインド越しに洩れてくる光は、まだほの青く、机の上の筆立てや本棚の陰をおぼろげにしか映し出さなかった。そんな時間から、恵子さんはもう台所から始まって玄関やら階段やら居間やらと、家中の掃除を一人で全部終わらせるつもりでいるのか、あちこちで足音を立てている。天井や四方の壁から伝わってくるその足音が、下で寝ている翔ちゃんの寝息と合奏し、おかげで僕までいつもよりずっと早く目が覚めてしまった。
布団の中で何度か寝返りをうち、掃除を終えた恵子さんの足音が再び台所へ消えていくのを確かめてから、僕は起き上がった。
窓を明けたら、ゼラニウムの花の匂いがぷんと鼻を突いた。
「ここに置くなって言ってんのに」
この鉢植えのゼラニウムは、父さんがどこからかもらってきてしまった代物なのだが、恵子さんも庭の花壇に植え替えようとしないから、ずっと鉢植えのまま庭のあちこちを移動している。僕はこの独特な匂いが苦手だ。花からというより、茎と花と全身から、思わず息を止めたくなるような匂いが漂ってくる。だから恵子さんにいつも、この鉢植えを部屋の窓のそばに置かないでくれと言うのだけれど、時々こうやって鉢植えが窓のすぐ外に置かれていることがある。土に落ちるまで色を変えようともしない朱色の花びらが風に揺れて、いっそう花とは思えない臭いが僕の鼻先に運ばれてきた。窓を閉めても、鼻の穴の周りがむずむずする。
着替えながら、翔ちゃんに二度声をかける。ここ最近、一度声を掛ければさっさと起き上がってきていたのに、今日はぐずぐず布団に潜り込んでいる。
「先にご飯食べちゃうよ」
少し大きな声ではっきりそう言い先に部屋を出ようとしたところに、恵子さんがやってきた。
「おはよ、早く食べな」
そう言ってさっさと台所へ引き返そうとする恵子さんを引き止め、僕は恵子さんに目で合図した。恵子さんは、布団の中の翔ちゃんと僕とを見合わせると、
「どうしたの?」
どうしたのと言われても分からないから僕が首を傾げると、恵子さんはさっさと翔ちゃんのベッドに近づいていって、布団ごと翔ちゃんの身体を揺すった。
「翔ちゃん、ほら、起きなよ、遅刻するよ」
身体を揺すられて、しぶしぶ布団から翔ちゃんが顔を出した。
「どうしたの、具合悪いの?」
「顔、疲れてるよ、翔ちゃん」
「具合、悪い?」
翔ちゃんは首を傾げたまま、ぼんやりしている。
「イヤな夢でも見た?」
しつこく聞く恵子さんを翔ちゃんはしばらく見つめていたけれど、もそもそとベッドから起きて着替え始めた。
家に戻ると父さんがもう帰って来ていた。
「来てたの?」
「お、啓太か」
「母さんは?」
「仕事だろ、いないよ」
「そうなんだ、ふうん」
特別話すこともなく、手持ち無沙汰で足下ばかり見ていると、
「翔子、入学式どうだった?」
父さんは突然そう聞いてきた。
「ん、まあまあじゃないの」
「母さん、行ったのか?」
「何?」
「入学式」
「入学式は行ったよ。あとは姉貴がずっとついてる」
「そうか」
父さんは黙り込んでしまった。入学式が済んでから、翔ちゃんの世話は恵子さんがほとんど、いや、全部と言っていいほどやっている。翔ちゃんの送り迎えから始まって、毎日黒テンのところへ様子を聞きにも通っているみたいだ。今のところ何の問題もないらしいし、クラスの中には翔ちゃんの耳が聞こえにくいことを知ってゆっくり喋り掛けてくれる人も数えるほどだけどいるという話だ。恵子さんはそうした話を、たいてい母さんも翔ちゃんもいないところで、嬉しそうに僕に話す。
とりあえず思いつくことは話したから部屋に戻ろうとした僕は、また父さんに呼び止められた。
「昼、食ったか?」
「まだだよ」
振り向いて応えると、ビニール袋の中に手を突っ込みながら、
「弁当、あるぞ」
「土曜だから、姉貴たちももう少ししたら帰って来るんじゃん。そしたら昼飯だよ、きっと」
「いいだろ、別に」
結局、二人で駅弁らしい弁当をもそもそ食べた。戻ってくるはずの恵子さんと翔ちゃんは、一時を過ぎてもまだ戻ってこなかった。
二時を回る頃、錆びた門が開く音がして、恵子さんと翔ちゃんが帰ってきた。
「遅いじゃん、父さんもう来てるよ」
僕の声に俯けていた顔をはね上げた恵子さんは、声を掛けた僕の方が驚きたくなるような顔色をしていた。
「え、あ、そう、そうだったね、ごめん、ごめん」
恵子さんはそう言って、翔ちゃんの背中を押しながら上がってきた。その翔ちゃんも何だかいつもと違っていて、今朝以上にぼんやり、疲れているように見える。
「どうしたの?」
「は? ああ、どうもしないよ、うん。父さんは?」
「向こういるけど、何、どうしたの?」
「何が?」
「翔ちゃん、学校で何かあった?」
「別に。いつもと同じだよ」
そう言うけれど、やっぱりいつもと同じには見えない。いつもと同じだと言いながら恵子さんは、いつも翔ちゃんが一人でやっている着替えを手伝おうとしている。
「啓太、ご飯は?」
「父さんと食べた」
「あ、もう食べたんだ。ならよかった。ね、それより、母さん、いる?」
「仕事じゃないの?」
「仕事? 土曜って仕事、休みじゃなかった?」
「知らないよ、そんなの。父さん来たときにはもういなかったってよ」
「・・・・・・」
スウェットに着替え終えた翔ちゃんは、そのままベッドに潜り込んでしまった。
「翔ちゃん、お昼は? いいの?」
恵子さんが声を掛けても、布団は動かない。
「食べたくなったらおいでね。ほら、啓太は出るの」
「え?」
「いいから、出て」
恵子さんはそう言って、翔ちゃんだけを部屋に残すと僕と翔ちゃんの部屋のドアをバシンと閉めてしまった。
母さんは夕飯前に戻ってきた。仕事は疲れる、疲れるという母さんの独り言めいた繰り返しの他には食器の当たる音以外聞こえてこない夕食を食べ終えてしまうと、わざわざ松山からやって来た父さんを前にしても、僕にはもう何も話すことが見当たらなくなってしまっていた。それに、今夜はみんなどこか変だ。翔ちゃんは帰ってからずっとベッドの中だし、母さんはむっつりして父さんと喋ろうとしないし、恵子さんは僕と翔ちゃんの部屋と台所とを行ったり来たり落ち着かない。久しぶりに家族四人がひとつ屋根の下に勢ぞろいしたというのに、結局みんな早々にそれぞれの部屋で夜を過ごした。
翌日父さんは、翔ちゃんの真新しい制服姿も見ずに松山へ戻っていった。