「メダカと柿とラブレター」  第6章 本当のコト

 さっきから、教室の隅に固まっている女子がこっちを見ている。女っていうのは、どうしていつも群れているんだろう。トイレに行くにも何をするにも、誰かと一緒じゃなくちゃ動こうとしない。そのうえ、一人で行動しようとするヤツを見つけたりすると、何かと足を引っ張ってみせたりする。不思議な生き物だ。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

「安藤君」
 振り返ると、学級委員長の柏木が立っていた。背が高くて眼鏡をかけている、いかにも頭のよさそうなタイプだ。こういうタイプは嫌われやすいらしい。柏木がクラスの女子と親しそうにお喋りしているところなど、まだ一度も見たことがない。周りからも何とはなしに浮いている感じがする。
「はい、日直日誌。明日、安藤君と藤崎さんだよ」
「そうだっけ」
 席順で回ってくる日直日誌を受け取って、ぱらぱらとページをめくってみる。ほとんどは女子の方が日誌を書くから藤崎に渡してしまおうと思って立ち上がると、まだ柏木が僕の席の横に立っている。
「何?」
 柏木は一呼吸おいて妙なことを言った。
「気にしない方がいいよ、あの子たちが勝手に言ってるだけだから」
「は?」
「じゃあね」
 それだけ言ってさっさと自分の席に戻っていく柏木を引き止めようとすると、教室の隅が突然黄色い声を上げた。その途端僕は何だか面倒臭くなって、そのまま自分の席に腰を落とした。
 ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って市川先生が教室に入ってくると、蜘蛛の子が散るみたいに、群れていた女どもはそれぞれの席へと散っていった。

「柏木、ちょっと」
 放課後、どうしても気になって、僕は帰ろうとする柏木に声を掛けた。
「さっきの、気にしない方がいいって、何だよ?」
 振り向いた柏木は、こっちが気後れするほどまっすぐに僕の顔を見返して来た。見返して来るけれど、柏木は黙っている。
「ほら、昼休みの」
「・・・・・・」
「柏木、言ったじゃん」
「・・・・・・安藤君、もしかして、知らないの?」
「だから何をだよ?」
 帰りかけていた女どもが戻ってきて、廊下からこっちを覗き込んでは笑っている。それが気になって、柏木の顔をまともに見る気がしない。
「何でもないよ」
 そう言って柏木が帰りかけると、一気に廊下の蜘蛛の子が散っていった。姿は消えても、廊下中にその笑い声がぐるぐると反響している。その声に立ち止まった柏木は、一呼吸おくと、真後ろに突っ立っていた僕を振り返って、
「だから、安藤君のお姉さんのことだよ」
「姉さんって、恵子さんのこと?」
「違う、真ん中のお姉さんのこと」
「ああ、翔ちゃんのことか。で、それがどうしたの?」
 柏木は、僕の顔から黒板の方へと視線をずらすと、溜めていた言葉を一気に吐き出すように喋り出した。
「安藤君のお姉さん、知恵遅れだって」
「何だよ、それ」
「女のクセに生理も知らないって」
「・・・・・・」
「この間、学校で生理になったんだって。椅子に赤いシミがついちゃって大変だったって」
「・・・どういう、意味、だよ・・・」
「だから、ね、自分が生理になったってこと、分からなかったんだって。ずっと席にしがみついてて、隣の席の男子が何かの拍子にそれ、見つけたんだって」
 頭がくらくらしてきた。知恵遅れに生理。僕には思いもよらない言葉ばかりで、何が何だか分からなくなってきた。この前やった保健体育の授業が、でっかく頭の中のスクリーンに映し出された。
「・・・・・・誰が言ったんだよ」
 柏木は黙っている。
「言えよ」
「言ってどうなるの?」
「言えって言ってんだよ、誰だ、言ったの」
「・・・・・・藤崎さんのお兄さん、安藤君のお姉さんと同じクラスなんだって。お兄さんがそれ、見たって、藤崎さん・・・・・・」
 昼休みの黄色い声が、一挙に耳の奥に雪崩れ込んできた。今僕の耳のすぐそばで、あの蜘蛛の子たちがきゃあきゃあ叫んでいるみたいだった。そして目の奥では、恵子さんと翔ちゃんの顔がぐるぐる回った。
「わたし、帰る」
 柏木はそう言って、教室を出ていった。

 翌日の日直は、僕と藤崎だった。
 昨日僕はずいぶん迷ったあげく、多分他の誰より知ってはいるだろう恵子さんに事の次第を確かめることもできず、もんもんとした気持ちのまま教室に入った。そのせいか、一日中僕の耳には、いつもより教室の黄色い声が際立って聞こえた。
 そんな気持ちを抱えたまま、僕は一日を終えるはずだった。
 昼休み、昨日柏木から受け取った日直日誌を、相変わらず教室の隅にたむろしている蜘蛛の子たちのほぼ真ん中で笑っている藤崎に渡しに行くと、それまで周りにたむろしていた蜘蛛の子がいっせいに散っていった。
 一人残った藤崎が、席に座ったまま僕を斜めに見上げてくる。
「何よ。何か用?」
「ほらよ、日誌」
「あんた書けば?」
「やだね、お前書けよ」
「やだあ」
 そのまま藤崎の席に日誌を投げて自分の席に戻ろうとした僕の背中に、藤崎の声が突き刺さった。
「養護学校、行けばいいのに」
 気が付いたときには、僕はもう藤崎の頭を殴っていた。

 放課後、職員室に呼ばれた。市川先生と二人だけで話すのは初めてだ。
「おお、安藤、来たか、来たか」
 呼びつけたのは先生の方なのに、分かり切っていることを言わないでほしいと思う。示された椅子に座ると、決まり切ったことを先生は聞いてきた。
「どうして殴ったりしたんだ、安藤」
「すいません」
 僕は、何を言っても始まらないだろうから、すいませんの一点張りにしようと決めていた。膝の上に置いた右の手と左の手とを交互に眺めながら、次の先生の言葉を待っていた。
「そうか、すいません、か」
 さっきまでいた二、三人の先生も、職員室からいつの間にか出ていってしまった。教室の見回りにでも行ったのだろうか。市川先生と僕との二人だけだった。
「安藤、なぁ、本当のことなんて、そうそう見えるもんじゃないぞ」
 急に何を言い出すのかと思って顔を上げると、市川先生は皺だらけの、たばこを吸いすぎて灰色になった顔をいっそうしわしわにして笑っている。
「人の話をよく聞けとはいうけれど、聞かなくていいこともたくさんある。それに、聞くのはいいが、それをそのまま鵜呑みにする必要もない。お前にはお前の耳と目があるだろう。そのお前の耳と目とで考えろ」
 言われていることが、よく分からなかった。でも、説教されに来たはずなのに説教されている気分でも、なかった。
「余計なところで力を無駄遣いするな。じゃあ、気をつけて帰れよ」
 帰れと言われたものの、席を立っていいのか悪いのか、僕には全然分からなかった。そのまま座っていると、市川先生の追い払うよな手つきに背中を押されるようにして、僕は職員室を出た。
 それからしばらく、学校では例の噂で冷やかされ、家では女の子を殴ったことでいちいち母さんに揚げ足を取られたりしたけれど、僕はそのことについては何も応えないことに決めた。
 もし、このときに僕が、なぜ恵子さんがこのことについて何一つ僕に言おうとしないのか、少しでも想像することができていたなら、もしかしたら何か、違っていたのかもしれない。

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