「メダカと柿とラブレター」  第7章 夢の中のヒトガタ

 僕はよく夢を見る。恵子さんが言うには小さいときからそうだったらしい。僕がまだ幼稚園に通っていた頃、僕が描く絵はいつも夢で見たことだったそうで、描き終えると必ず恵子さんと翔ちゃんとをつかまえては、延々とその夢の話をしていたのだそうだ。僕はそんなことがあったようななかったような、ほとんど覚えていない。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

 その絵の中に必ず出てくるカタチがあって、それは、胴体は一つで手も二本なのに、足が四本と二つの頭を持つ灰色のヒトガタだったと恵子さんが話してくれたことがある。色とりどりの宇宙船とか人食い華だとか、洪水で水浸しになった街で唯一海に浮かんでいる家だとか、果てはトイレットペーパーのダンスだとか、考えるとワケの分からないモノばかりが散乱する僕の夢の絵の、どこかしらに必ずそのヒトガタが描かれているのに、それについての説明は、一度たりともしてくれたことがなかったと恵子さんは言う。あれって何だったんだろうねとも聞かれたけれど、僕にもさっぱり分からない。
 実を言うと、今でもそのヒトガタは時折僕の夢の中に出てくる。でも今は、夢の片隅になどではなく、画面の中央にぽつりと針の先ほどの黒点が見えたかと思うと徐々に大きくなり、前へ前へと歩き出し、ヒトガタはどんどん巨大化してゆっさゆっさとさらに近づき、やがてスクリーン全体を覆ってしまう。ヒトガタが夢に出てきたとき、僕はいつもそこで目が覚める。目が覚めてもしばらくは、僕の両目の奥の奥の方で、二つの灰色の頭が揺れている。
 何かの絵本で読んだことがある。こんな素敵な夢を見たんだと子供がお母さんに話しに行く。そのお母さんは話を聞き終えると、それはね、神様からのお告げなんだよ、と応えていた。でも、子供が見た夢が素敵な夢じゃなかったら、このお母さんはこうは答えなかったんじゃないだろうか。それにもし、このお母さんの言うとおり、僕の夢がいつでも神様からのお告げだったとしたら、一体神様は僕に何を告げようとしているというんだろう。別に神様を信じていないわけではないけれど、信じようと自分から思ったことは僕にはない。これからも多分信じようとは思わないと思う。
 夢占いとか夢合わせという仕事をする人が昔からいるというけれど、その人だったら僕の夢に何て答えてくれるんだろう。
 夢っていうのは結構意識の深いところから浮かび上がってきているモノなんだと恵子さんは言っている。例えば、マラヤのセノイ族とかいう、昔から夢を非常に大切にしている人たちがいるそうだ。毎朝、年寄りは子供たちから夢の話を聴く習慣があって、それによって子供たちの心から余計な不安や過剰な恐怖心を取り除いてやるのだという。すると子供たちも、次に同じような怖い夢や哀しい夢を見たときには、ワケも分からず夢に怯えたりはせずに、それがどうして怖いのか、なぜ哀しいのかを見ようとして、自分が次にどうしたらそうした気持ちにならずにすむのかを覚えていくのだという。そのおかげなのか、このセノイ族というのは長いこと警察も精神病院も必要とせず、みんな心穏やかに生活を続けていたそうだ。
 夢を大切にしている人たちは他にもいて、あるインディアンの部族などは、夢の中で出会った自分の守護霊の命ずることを、生涯何よりも大切に守り続けるのだという。
 そこまでいくと何だかおかしいと思う。僕の友達には夢をほとんど見ないヤツもいるのだから、そういうヤツは何のお告げももらえずにこの世で迷子になってしまうことになる。
 確かに、啓太のヒトガタにも何か意味があるんだよと恵子さんが言う通り、僕自身そんな気がしていないわけではない。だけど、それについてあまり深く考えたくはないんだ。
 だって。
 あのヒトガタの出てくる夢を見て目覚めたとき、必ず一番最初に思い出すのは恵子さんと翔ちゃんの顔なんだ。目覚めた僕の目の奥で揺れる二つの頭に、何故か恵子さんの顔と翔ちゃんの顔とが重なって見えてしまう。でもあのヒトガタでは、身体をひとつずつに分けようとしても分けられないんだ。

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