「メダカと柿とラブレター」  第8章 恵子さんの夜

 あと一ヶ月したら、父さんが松山から戻ってくることになった。
 もう少しで父さんが松山に行ってから四度目の春になる。ますます幹が灰茶色になっていく街道桜は、それでも今年も同じ濃桃色の花をつけようと、重たそうな蕾を近頃いくつもつけ始めていた。この花がすっかり咲き揃う頃には、僕は中学、翔ちゃんは公立高校、そして恵子さんは、大学受験を控えた高校三年生にそれぞれ進級しているはずだ。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

 電話で四月には戻れるからと父さんは言っていたけれど、この家に、戻って来る父さんの居場所はちゃんとあるんだろうか。一昨年の冬から、翔ちゃんは二階の、もともと父さんが使っていた恵子さんの隣の部屋へ移っていったし、僕は相変わらずこの部屋にいるけれど、あと残っている部屋といえば、母さんの寝室とリビングくらいなものだ。
 父さんからその電話を受けてからというもの、僕は時折それを考えている。まさか今さら僕と翔ちゃんとが一緒の部屋になるわけにもいかないし、恵子さんは受験生になるうえ、最近妙に落ち込んだり明るくなったりと忙しい。母さんの部屋、という手もあるけれど、まさか、二人が一緒の部屋で仲良く静かに過ごせるとも僕には思えない。毎日毎日言い争いを天井越しに聴かされるのはごめんだ。
 ベッドに横になって天井を見上げながらそんなことを考えているところに、恵子さんが入って来た。もう十一時を過ぎていて、母さんも翔ちゃんもとっくに寝たらしく、天井は静まり返っている。
「啓太、まだ起きてる?」
「起きてるけど?」
「別に、何てことも、ない、んだけど」
「・・・・・・」
 恵子さんは、深緑色の絨毯にぺたんと座り込むと、この前まで翔ちゃんが使っていたベッドに寄りかかって、むかし翔ちゃんがしていたように丸くなった。そして、別にそれが気になっているわけでもないのだろうけれど、両足の爪をいじくっている。 
「ね」
「何?」
「疲れちゃったよ」
「・・・・・・」
 恵子さんがそんなことを言うのは、初めてだと思う。
 唐突にそんなことを言い出すから、聞き返そうにも何を聞き返したらいいのか分からなくて、僕は黙っていた。
「疲れちゃったぁ」
「・・・・・・何か、あった?」
「おまえも、大変だったんだねぇ」
 僕は、ナイ頭でどうにか考えてみようとした。恵子さんが疲れたというのは何となく分かる気がするけれど、でも僕が大変だったっていうのは何のことなんだろう。僕は、これまで一度だって自分が大変だなどと考えてみたことはなかった。
「別に、俺は大変だと思ったことない、けど・・・・・・」
 恵子さんは、まじまじと僕の顔を見た。言う相手を間違えたんじゃなかろうかというような表情と、自分はそんなに変なことを言ったのだろうかというような表情とが入り混じった恵子さんのその顔が、僕には何だかひどく頼りなく、翳って見えた。
「疲れたって、何?」
「・・・・・・」
「学校?」
「違う」
「じゃ、家?」
「・・・・・・」
「父さんと母さんのこと? なら関係ないじゃんよ、あれで二人、結構うまくやってんのかもしんないし、結局俺たちはいずれこの家出ていくんだし。姉貴、知ってる? この間父さん帰ってきた夜、母さん夜中に一人で泣いてたんだよ」
 切れ長の恵子さんの眼が、きっと吊り上がって僕を射た。
「見たの?」
「別に・・・・・・見るつもりはなかったけど。喉乾いて台所行こうと思ったら、リビングのソファーで母さん、泣いてたから」
「だから、見たの?」
「いや、正面からは見てないけど」
「・・・・・・」
「どうしてそう突っかかるんだよ、見りゃ分かるだろ、それくらい」
「・・・・・・」
 夜というのは要らぬことを人に喋らせてしまう力があるんだと、恵子さんが持っていたマンガで読んだことがあった。人と人との無意識の部分が、日の光の間ではくっきり陰になって隠れているのだけれど、夜、影を失った無意識は、人と人との間で波みたいに寄せては返し、返しては寄せて、口に出さないことも伝わってしまうことがあるという言い伝えが、あるそうだ。
 このときの僕と恵子さんとの間でそうなったのかどうかは知らないけれど、恵子さんは多分、どうしても誰かに伝えたい何かを持っていて、それでここに来たんじゃないかと思えた。
 一階の僕の部屋の窓からでは、今夜の月のカタチは分からないけれど、それでもほの明るい月の光が、灯りを消した部屋の壁に風に揺れるカーテンの襞の輪郭を映し出していた。
「あのねぇ、翔ちゃんが難聴になったのはねぇ、私のせいなんだって」
 恵子さんの口から降ってきた隕石が、僕の頭を直撃した。
「突然、何だよ」
 他に言葉が見つかるわけもなく、僕はとっさにそう言ってしまった。
「煙草、いい?」
 恵子さんは胸のポケットから煙草を取り出すと、もう一度僕の方を見た。いつかじいちゃんを真似て吸ってみようと思ってはいたけれど、それより先に姉貴が吸っていたとは初耳だった。戸惑いながらも机の上にあった空き缶を差し出すと、恵子さんはそれをそのまま受け取って、薄いくちびるに挟んだ細長い煙草に、馴れた手つきで火をつけた。
「いつから吸ってたわけ?」
「別に、最近かな」
「・・・・・・」
「うまく誤魔化してんなと思ってんでしょ。家では吸ってないし、友達の前でも絶対吸わないからね、私は」
「あ、そ」
「そこらへん、あんたヘタだよね。何でもわざとバレるようにやるんだもん」
「余計なお世話だよ」
「そうだね」
「何だよ、まったく」
「でもその方が、結局はいいのかもね。嘘ついて誤魔化して、結局いつか自分が疲れちゃう」
 恵子さんが吐き出した煙は、くゆらりと天井へ上がっていった。
「疲れるって、そういうこと?」
「そういうわけじゃない、けど」
「じゃ、何?」
「何って・・・・・・」
「変だぞ、姉貴」
「・・・・・・だからさ、翔ちゃんが難聴になったの、私のせいなんだって」
「どうして」
 他に聴きようがなくて、僕はそう言った。
「啓太がね、生まれた頃って、父さんと母さんとで入れ替わり立ち替わりお風呂に入れたりしててね、二人してかわいい、かわいいって忙しかった。母さんも父さんも、ずっと男の子が欲しくって欲しくってしょうがなかったんだって・・・・・・」
「・・・・・・ホントかよ、それ」
「覚えてない?」
「覚えてるわけないじゃん、そんなもん」
「そんなもん、かぁ。そうだよね、ん、覚えてるわけ、ない、か。・・・・・・まぁ、私の方はもうひとりでお風呂でも何でもだいたいのことはできるようになってたから。でね、何の時だか全然覚えてないんだけど、私がお風呂入ってるときに、母さんが、啓太のおむつを変えるとか何とか言って、それが済むまで翔ちゃんのこと抱いててって、お風呂に連れてきたわけ」
「で?」
「でね、抱いてるのはよかったんだけど、翔ちゃんも動くから、私の腕からポトンと落ちちゃったのよ、ぽとん、と見事に」
「・・・・・・」
「ちっちゃかったからね、翔ちゃん、頭から全部、お湯の中に埋まっちゃったの」
「・・・・・・」
「すぐ母さんを呼ぼうと思ったんだけど、声、出なくて、必死で抱き上げようとしたんだけど上手くいかなくて」
「・・・・・・どうしたの?」
「どれくらい時間経ったんだろうね、覚えてない。母さん悲鳴上げて、父さんはまだ帰ってなくて、救急車呼んだんじゃなかったかな・・・・・・。それ以上、覚えてないのよね、私は」
「・・・・・・」
「それから翔ちゃん、一週間近く熱出しっぱなしで。熱が引いた頃には、翔ちゃんの耳、ほとんど聴こえなくなってた」
 まるで、紙芝居の朗読を聞いているようだった。
 灯りを消した部屋の中で時折、ちりっちりっと赤い音を立てているのは恵子さんのくゆらす煙草だけだった。僕が細く開けた窓から、その煙はゆるゆると上っていき、月から堕ちてくる白々しい明かりをぼやかして見せた。
「だからね、翔ちゃんの耳がだいぶ聴こえるようになってきてるって分かったとき、すごく・・・・・・すんごく嬉しかったのよね」
 姉貴は短くなった煙草を空き缶の中に落とすと、思いついたように言った。
「試しに吸ってみる?」
 普段そんなことは決して言わないはずの恵子さんの言葉に一瞬迷ったけれど、差し出されるまま僕は受け取った。僕の煙草の先に火を付けた恵子さんは、自分の分にもまた、火を付けた。その吸い方はやんわりふんわり、今夜の姉貴のしゃべり方のようで、何だか妙に似合っていた。
「でも、さ、いざ翔ちゃんが同じ学校に来て、みんなのお喋りに相づちもろくにうてないところとか目の当たりにしてたら・・・・・・」
「してたら?」
「ん、なんか、ね・・・・・・」
「何だよ」
 姉貴は長いまつげを一瞬揺らして俯くと、僕のその問いには答えずにこう言った。
「母さん、ね、翔ちゃんが難聴って言われたとき、私のこと思いっきり殴ったんだよ」
「ウソ!」
「意外?・・・・・・でもないんだけどね、私にとっては。あのときの平手より、翔ちゃんの耳が聴こえなくなったのはあんたのせいよって言い切られたことの方が、はっきり言って痛かった」
 通りを走り去っていく車のサーチライトが、暗闇に慣れた僕の目に突き刺さった。僕にとっては初めての話ばかりだった。
「で?」
「で、って何?」
「父さんは?」
「父さんは、さ、父さんは、母さんを責めたわけ」
「・・・・・・」
「まだ小さい恵子に任せっぱなしにしていたおまえが悪いって」
 僕は、松山にいるはずの父さんの顔を思い出そうとした。ちょっと猫背がかった太めの身体は簡単に思い出せるのに、不思議と顔だけが、浮かんでこなかった。
「変わんねぇんだな、ウチは」
「・・・・・・何が?」
「結局人のせいにするんだ、何でも」
「啓太」
「そうじゃんか。翔ちゃんの難聴も、姉貴のことも、母さんの手落ちも、父さんがそのときいなかったことも、みんな見て見ぬ振りってヤツ? そんな感じだよね。もう一本、いい?ダメ?」
「ちょっと啓太、あんた初めてなんじゃなかったの?」
「初めてだけどさ、前から吸ってみたかったんだ、じいちゃんの真似して」
 何言ってんの、と恵子さんは小さく笑いながらメンソールの煙草とライターを差し出した。僕はふと、いつだったかの市川先生の言葉を思い出していた。
 本当のことなんか、そう簡単に見えるもんじゃない。
 確か先生は、そう言っていた。
「もしかしてさ、母さんが仕事始めたのって、それから?」
「んー、そうだったかな、うん、そうだね」
「やっぱりナ」
「そう思う?」
「思う」
 真夜中をとうに過ぎた部屋は、もう春だというのに肌寒かった。
 恵子さんは突如、立ち上がると、
「ダメだよね、弟にこんなこと話し出すようじゃ、まったく」
 僕は、そう言って苦笑いして部屋を出ていこうとする姉貴に何か言わなくてはいけないような気がした。かといって気の利いたセリフなんて僕に思いつくワケがない。仕方がないから、思いついたまま口にした。
「自分のせいだと思うなよな」
 やっぱり、言うべきじゃなかったのかもしれない。恵子さんはゆがんだ顔を半分だけこっちに向けて、こう言った。
「知ってる? 翔ちゃんのあだな、ね、ツン子なんだよ。耳が聴こえるのにツン子だって。それでもあんた、わたしのせいじゃないって言える?」
 知らないってことは、案外楽なものなのかもしれない。市川先生、先生が聞かなくてもいいことがあるって、こういうことだったのか? 僕はそのおかげで、あれ以来翔ちゃんのことでムカつくことなどほとんどなくすんできたけど、恵子さんはまともに翔ちゃんについて言われることを受け止め続けてきてしまったんだ。しかも僕よりもずっと長い間。
「啓太だって聞いたことなかった? 何言ったってヘラヘラ笑って・・・・・・」
「やめろよ、姉貴。そんなの真に受けたってしょうがないじゃんか。第一、今、学校では翔ちゃんわりとよくやってるんだろ? 確かにくだらないこと言うヤツだっているだろうけど、そんなのにいちいち腹立ててたってキリないだろうが。この前だって俺、翔ちゃんが友達と仲良く帰ってくるの、見たぞ」
「そう・・・・・・だよね。そう、ね、ん。もういまさら、わたしがどうこうしなくても翔ちゃんは翔ちゃんでちゃんとやっていけるんだよね」
「そうだよ、何一人で背負ってんだよ、そんなんじゃ翔ちゃんをバカにしてるって」
 僕は翔ちゃんに同情なんてこれっぽっちもしたくもするつもりもない。恵子さんもそうだと思ってた。でも、恵子さんの言うことを聞いていたら、恵子さんは何だかすべて自分のせいだから翔ちゃんの世話は自分がしなくちゃ駄目なんだって半ばやけっぱちになっているように見えてきた。それが何だか悔しくて、少し哀しくて、僕はそう言ってしまった。
 恵子さんはそんな僕にふっと口許だけで笑うと、立ち上がってそのまま後ろ向きでドアを閉め掛けながら最後にこう言った。
「父さん、帰ってくるんだね」
「そうだってね」
「啓太、頼むね」
 ドアは締まった。僕は、まだ日の昇らない夜の中で、恵子さんが忘れていったメンソールの煙草の箱を、しばらく見つめていた。

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