「メダカと柿とラブレター」  第9章 その日

 人の強さって何だろう。
 樹は一度根を張った土地に生涯生き続ける。花は、離れ離れに咲いていても花粉を飛ばし合い、受け取り合い、そうして結ばれた種を風に乗せて次の季節にまた咲き誇る。誰が何と言おうと、風雨に夜毎晒されようと、黙って生き続けている。死んではまた、次の命を孕む。あてのない命でも、彼らは孕んでやまない。
 びくともしない幹にそった枝は、誰に教えられることもなく知らぬ間に風にしなうようになり、もし折れてもまたその間から太陽に向かって萌葉を伸びやかに育てていく。

渡辺彰吾
                       (絵:渡辺彰吾) 

 しっかり者だとか、美人だとか、何をやらせても上手にこなす自慢の娘さんだとか。恵子さんに集まる言葉はいつも、恵子さんの強さばかりを飾り立てる言葉だったのかもしれない。でも、強いだけの人間なんて、いやしないんだ。
 僕はあの夜、恵子さんが疲れたと言った言葉の意味を、結局聞き損ねてしまった。何に疲れたの、と聞いても、恵子さんは多分まともには答えてくれなかったと思う。そういうことを言わないのが恵子さんだったから。でもせめて、僕に何を頼むと言ったのか、それだけでもちゃんと聞いとけばよかった。
 恵子さんは、父さんが明日帰ってくるというその日、交通事故にあった。学校の帰り道、友達三人で点滅し始めた横断歩道を走って渡るところだったという。恵子さんは学生カバンに足を引っかけたのか単につまづいたのか、横断歩道の真ん中で思い切り転んだらしい。陸上選手でもある恵子さんだから、さっさと立ち上がれば十分間に合ったはずなのに、恵子さんは友達が早く早くと叫ぶ声に返事も立ち上がろうともせず、呆然と大型トラックが迫ってくるのを見つめていたと、その友達二人が涙でぼろぼろになりながら話してくれた。
 僕はその頃翔ちゃんを相手に、ネエちゃん遅いねぇとか何とか言いながら、腹減っただのさっさと帰って来いよだのと文句を言っている最中だった。電話は、不意に鳴った。
 翔ちゃんを急かして玄関を飛び出そうとしたとき、母さんが帰ってきた。恵子さんが交通事故にあったんだと伝えた瞬間の母さんの顔を、僕は当分忘れることはできないだろう。まるであの顔は、そう、あの顔は、学校の鑑賞会で連れていかれた能楽堂で一人の役者が付けていた、夜叉の面、だった。
 母さんは、とるものもとりあえずいきなり車に乗り込んで、そんな母さんに呆気にとられている僕と翔ちゃんとを、さっさと載りなさいと怒鳴りつけると勢いよくエンジンを掛けた。それからのことはよく覚えていない。気がついたら、病院の手術室の前の、とってつけたようなベンチに三人並んで座っていた。
 手術中を知らせる赤いランプが消えるのを待つその間中、翔ちゃんは、ケコサン、ケコサン、と呪文のように唱え続け、一方母さんは、病院の白い壁に負けないくらいまっすぐ背筋を伸ばして、じっと前だけを見つめていた。看護婦さんらしい青緑色のかっぽう着を来た女の人が、僕たちには分からない専門用語を小声で交わしながら、何度も何度も手術室から出たり入ったりしていた。
 病院に着いて二時間を過ぎても、まだランプは消えない。
 と、母さんがいきなり立ち上がって、
「父さん、呼ばなくちゃ」
 財布をつかんで公衆電話へと走っていこうとする。
「父さん、もう向こう出てるよ、きっと」
 僕がそう言うと、
「分からないじゃないの、とにかく電話しなきゃ」
「母さん、ちょっと」
 そのときだった。手術室の赤いランプが消えた。

ページの上部に戻る