「メダカと柿とラブレター」  第10章 声が聴こえる

 葬式には、恵子さんの学校の人はもちろん家族の誰も知らないような人たちがたくさんやってきた。小学校時代から「長」の字の付くものはほとんどやってきた恵子さんだったから、それも当然なのかもしれない。
 受付で記録を済ませた人たちが、母さんと父さんとに声を掛ける。誠に残念なことになってしまって。気を落とさないようにしてくださいよ。お手伝いできることがあったら何なりと言ってくださいね。だいたい同じような言葉ばかりがやりとりされる。そして、それに応える母さんも父さんも、まるで機械仕掛けの人形みたいに、ただただ頭を下げている。こうして少し離れたところから見ていると、黒い背広に喪服に制服、蟻の行列みたいに見えてくる。

渡辺彰吾
                (絵:渡辺彰吾) 

「ア、チョコチャン、チョコチャン」
 突然翔ちゃんが人の波に向かって呼びかけた。僕がまだ聞いたことのない、翔ちゃんの大きな声だった。
 人波からどうにか身体を離して翔ちゃんの呼び声に手を振って応えたその女の子は、翔ちゃんのすぐ横に立つ僕に気付いて、ぺこりと頭を下げた。にこにこ笑う翔ちゃんは、何だか場違いのようで僕はちょっとためらったけれど、チョコチャンと呼ばれた女の子がしたのと同じように、軽く頭を下げた。
 翔ちゃんの前にようやくたどりついた女の子は、遠目では翔ちゃんと同い年くらいに見えていたけれど、近づいてみてそれは全然違うことが分かった。
 確かに背丈は翔ちゃんとほとんど変わりはないけれど、歳は多分、恵子さんよりずっと上なんじゃあないだろうか。黒くて長い髪がさらさらと風に揺れている。もしこれで声が低かったら、もう少し背が高かったら、恵子さんに少し、似ているかもしれない。
 でも、その女の人は、はきはきとしたソプラノでこう言った。
「啓太君、ですか?私、相原千代子です。恵子さんにはずいぶんお世話になっていました」
 唐突にそう挨拶されて、何と応えていいのか僕には分からなかった。
「チョコチャン、チョコチャン、ケコサン、ネ、キレイヨ。ケコサンノスキナシロイハナ、イッパイカザッテネ・・・・・・」
「大変だったね、翔ちゃん、大丈夫?」
「ショコ、ダイジョウブ。ケコサン、シンジャッタ、ネ」
「そうだね、死んじゃったね」
 僕は、まるで夢を見ているみたいだった。今の今まで、翔ちゃんがこんなに喋るところを僕は見たことがなかった。確かに僕は、父さんや母さんや、他の大人たちのいないところで、翔ちゃんと結構喋っていたと思う。でも、よく考えてみれば、僕と翔ちゃんの間にあった言葉は、チガウとか、ソウとか、僕が話しかけたことへの返事ばかりで、翔ちゃんから話し出すことはほとんどなくて、もしあっても、シンジャッタノ、ドウシテケンカスルノ、ドウシテナイチャウノ、の、その三つくらいなものだった。
 座り込みたくなるのをどうにか押さえて、ふらつきながらも立っていると、千代子さんというその女の人が話し始めた。
「私、梶が谷の心身障害児の寮育施設で働いているんです。恵子さんとは、そこで知り合ったんです」
 思いがけない言葉に、返事のしようもなかった。そんな僕にまったく気付く様子もなく、
「チョコチャン、チョコチャン、ケコサン、アッチヨ、ネ、アッチ。チョコチャンモ、オハナ、カザッテ」
 翔ちゃんが千代子さんの手を引っ張って行く。千代子さんは、じゃ、また後ほど、と軽い会釈を残して翔ちゃんと中へ入っていった。

「恵子さんが初めてうちの施設に来たのは、もう五年くらい前になります。初めはただ見学させてほしいと言って、土曜の午後などにいらしてたんですよ。そうそう、最初にいらしてから何度目かにね、紙芝居を持ってきてくださって、恵子さん、お話がとっても上手なのね。ほら、声がよく通るでしょう。子供たちみんな、喜んじゃって。それから、来るときはいつも何かしら子供たちに昔話とかお手玉とか、教えてくれて。自分はおばあちゃんっ子だったから、こういう遊びしか知らないのって笑ってたけど、私たちが忘れてしまっているような昔からの遊びをほんとによく知ってた。それにね、彼女、根気あるんだ、ほんとに。こっちが呆れちゃうほど諦めないの。うつむいてる子なんか見つけると、もうどうにも我慢できないって感じで食らいついていっちゃうようなところがあって。見てる方がどきどきすること、多かった。
 それがね、そう、翔ちゃんが中学に入学したって喜んでた恵子さんが、いきなりうちに電話掛けてきたの。驚いたなぁ、あのときは。どうしたの、って聞いてもなかなか答えてくれなくて。恵子さんの方から電話掛けてきたのに。仕方がないから、明日おいでよって言ったら、ようやく、翔ちゃんが生理になったの、しかも学校でなっちゃって、そういうこと誰も翔ちゃんに教えてなくて、翔ちゃんがこれで学校に行きづらくなったらどうしようって。
 恵子さんの泣き声、あのとき初めて聞いたわ」
「ケコサン、ナクト、カワイノヨ、ネ、ネ」
 埋葬の煙が、空に向かって昇っていくのが見える。その煙に手を振りながら、ケコサン、ケコサン、と繰り返す翔ちゃんの声は、どこか歌っているように聞こえる。
 そんな翔ちゃんを時折見やりながら千代子さんは続けた。
「それからだったと思います。恵子さんが翔ちゃんを連れてくるようになったの。本当はそういうのって認められてないんだけど、毎週土曜日だけ、って恵子さん、何度も何度も頭下げて。翔ちゃんにどうしても喋ってほしいんだって。
 結局ね、うちの寮長もそんな恵子さんに根負けしたような形になって。でも、聴唖っていうのは・・・・・・こんなこと啓太君に言うのもおかしいかもしれないけれど、聴唖っていうのはその家族に原因のおおもとがあることがほとんどなんです。だから、うちに通ったからって翔ちゃんが喋れるようになるとは思っちゃいけないと寮長が何度も恵子さんに言ったんだけど。それでも構わないって、恵子さんそう言って・・・・・・。
 でも、そんなこと全部吹き飛んじゃった。まだ四、五回通ったくらいのときに、翔ちゃんが喋り始めたの。びっくりしたよ、みんな、びっくりして、喜んで。確か、他の子と一緒に模造紙いっぱいに何か描いてたときだった。いきなり、ケコサン、ミテ、って。ケタ、ケタダヨ、ホラ、って」
 千代子さんは言いながら僕に笑い掛けてきた。そして、
「そう、翔ちゃんが一生懸命描いてたのは、恵子さんと啓太君の顔だった。そのときの恵子さんの顔、啓太君にも見せてあげたかったな、もうぐしゃぐしゃだった」
「ソ、ケコサンハ、ナキムシネ、ショコ、ナカナイノニ」
 翔ちゃんはそう言ってほっぺたに掛かる髪の毛を耳に掛けた。時折声がかすれるけれど、でもちゃんと翔ちゃんの声は僕の耳に届いている。
「そうねぇ、恵子さんは泣き虫だったのかもしれない」
 僕は何も言うことがなくて、うつむいていた。二人の声に耳を傾けていることで精一杯だった。
「そんな恵子さんの口癖、知ってます? 啓太のおかげなんだ、って」
 驚いて顔を上げる僕に、
「啓太は翔ちゃんが出すサインを読みとるのが誰より早いんだって。声にならない声を、啓太の耳はちゃんと聴いてるんだよって」
 まだ肌に冷たい四月の風が、おかっぱの翔ちゃんの紙と千代子さんの長い髪を揺らして過ぎていく。
「僕は・・・・・・。別に、聞いてなんかいないよ、そんなこと言われたって。翔ちゃんの世話は恵子さんが全部やってて、僕は何も」
 そんな僕の返事に、千代子さんは軽やかに笑った。
「だからじゃないのかな、翔ちゃんは翔ちゃん、自分は自分ってちゃんと分かってたから」
「それって、自分勝手ってことじゃないの?」
「違うと思う」
 千代子さんのソプラノがはっきりそう言った。
 弔問客の列が絶えない。涙している人もいれば、うわさ話に花を咲かせている人もいる。葬儀が始まった時には真上にあった太陽も、今はもうずいぶん西に傾いている。
 僕はふと、千代子さんに聞いてみたくなった。恵子さんが言ったあの言葉の意味を。千代子さんなら答えてくれそうに思えた。疲れちゃった。恵子さんは、あのとき確かにそう言ったんだ。
「あの」
「なぁに?」
「ナニ?」
 千代子さんの真似をして、翔ちゃんが僕の方を向く。喉まで出かかった言葉を、僕はつられて呑み込んでしまった。呑み込んだとき、何か、聴こえた気がした。
 千代子さんは、ほとんど肩の高さが変わらない翔ちゃんの顔を見ながら話しかける。
「翔ちゃん、これからは一人でも来るよね? 恵子さんと約束したもんね、早く一人で通えるようになるんだって。今度は翔ちゃんが紙芝居、やるんだって」
「ダイジョブ、ダイジョブ、ショコ、イケルヨ、ダイジョブヨ」
 翔ちゃんの返事に笑顔を返すと、千代子さんは僕の方にもう一度向き直って言った。
「本当なら、ちゃんとお母様、お父様にご挨拶申し上げなければいけないのでしょうけれど、恵子さん、くれぐれもこのことは秘密にしてほしいっておっしゃってたから。
 今日はこれで失礼させていただきますね」
「秘密に、って・・・・・・?」
 丁寧に下げた頭を、千代子さんはゆっくり起こしながら、
「恵子さんは、ずっと背負い込んでしまっていたんだと思います。秘密にっていうのは、それで余計に家の中がこじれるんじゃないかって、恵子さんはそう思っていたんじゃないかしら……これは私の想像ですけど。
 本当なら、ね、こういうことって家族みんなで協力してやることだと思うんです。でも、翔ちゃんの耳のことも、それ以来すれ違うようになってしまったお父様とお母様のことも、恵子さんは自分のせいだと思いこんでしまっていて、そう思いこむことでたびたび弱気になってしまう自分を奮い立たせていたような・・・・・・私はそんな気がします。何度か、ちゃんと家族で話した方がいいんじゃないかって言ったこともあったんですけど、でも、翔ちゃんがせめてちゃんとお喋りできるようになるまでは、って、どうしても両親には知られたくないんだと、恵子さん、そう言ってましたから」
 秘密、秘密、秘密。どうして秘密なんだ。そうと知っていれば僕だって何かできたかも知れないのに。それに、結局こうやってバラされちゃうんだ、死んだ後に。しかも美化されて喋られちゃうんだ。恵子さんはそんなことのために今までやってきたわけじゃないだろ? ただそうするしかなくて、それしかできなくて、必死にやってきただけだろうに。そうだろ、恵子さん。
「じゃ、何で今僕に喋ったんですか? 秘密だったんでしょ、どうして?」
 そのときの僕の顔は、きっとゆがみきっていたに違いない。正面から僕を見つめていた千代子さんの顔は逆光でよく見えなかったけれど、その光の中で千代子さんの肩が小さく揺れた。
「恵子さんが、もう少ししたら啓太君も呼ぼうかなって言っていたから。翔ちゃんがこんなに喋れるようになったことを知ったら、誰より喜んでくれるんじゃないかなって。そうしたら翔ちゃんも、ここだけじゃなく家でも喋れるようになってくれるかもしれないって、そう、言ってたから」
 それまで黙って僕と千代子さんのやりとりに耳を傾けていた翔ちゃんが、突然つぶやいた。
「ニンゲントイウジハ、ヒトノアイダッテカクンダヨ」
 それは確かに翔ちゃんの声だった。僕と時折話していたくぐもった声などではなくて、少ししわがれてはいるけれど、でも、とてもやわらかな声だった。
「翔ちゃん」
「それ、恵子さんの口癖なのかな、よく施設の子供たちの前でも言ってた。いつのまにか翔ちゃんも覚えちゃったのね。気が付いた? 翔ちゃん、ふだんはまだ母音をはっきり発音できないけど、この言葉だけはきちんと言えるのよ。不思議よね」
 火葬場から、僕と翔ちゃんの名前を呼ぶ声がする。見上げると、もう埋葬の煙は止んでいて、変わりに西の空にはひこうき雲がまっすぐに立ち上っていた。
「それじゃ、私はこれで」
「あの、今日はどうもありがとうございました」
 千代子さんがにっこり笑う。
「リガト、ネ、チョコサン、マタネ」
 斜めに差し込む西陽に縁取られながら、千代子さんはもう一度ゆっくり頭を下げた。そして、
「もしよろしければ、啓太君も一度、遊びにいらしてくださいね」
 そう言って千代子さんは、もと来た道を戻っていった。

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