水仙

 それは二月も終りに近づいた、或る日のことだった。昨夜ちらついた雪の姿は何処にもなかったが、吸い込む風がほんのり湿っている。そんな、空高く晴れ渡った日のことだった。
 何年振りなのだろう。この町を訪れるのは。そう思いながら降り立ったホームは、数えてみればもう二十一年の時を経ているにもかかわらず、記憶とさほどたがわない姿をしていた。閑散とした、ただ長いばかりのホーム。
 サチから電話があったのは一週間前のことだった。正直に言うと、電話を受けた私は、彼女が「あのときのサチだよ」と繰り返してくれても、それが誰であるのか、自分の記憶の何処に彼女がいるのか、なかなか掴めなかった。あの時の、と言われ、その時期の記憶を辿ろうとしても、すぽんと抜けている。きれいさっぱり抜けている。もし、たまりかねた彼女がメダカのお墓という言葉を使わなかったら、私はきっと、誰だか分からないまま、電話を切ってしまっていただろう。
 メダカのお墓。私とサチの繋がりは、メダカのお墓だった。

にのみやさをり

「それで、どうしたの、一体。そもそも、よく分かったね、私の電話番号」
「うん、この三日間、ずっと探してたんだよ。もう諦めようかと思ったんだけど。さをりちゃん、AB雑誌に投稿したでしょ、最近。それ見つけた。びっくりしたよ」
「あぁ、頼まれて書いたんだ。よく見つけたね、あんなの」
「うん、奇跡みたい。ふふふ。でも、名前見たとき、ペンネームだとしても、同姓同名なんてそうそういないと思って。だめもとで編集部に連絡してみた」
「ええ? それで分かったの?」
「全然教えてくれなくって。で、頼んだ」
「誰に?」
「今付合ってる人、カメラマンで、たまたまあの編集部の人と知り合いで。だから、彼に頼んでもらったら、教えてもらえたの」
「へぇぇぇぇ。それにしても何だなぁ、こんなふうに再会するとはなぁ」
「そうだよね。私も、まさか再会するとは思わなかった」
「うん」
「・・・」
「何?」
「どうして今更電話したのか聞かないの?」
「あ、そうだ、どうしたの?」
「あのね。あの。用務員さん、亡くなったんだよ」
「・・・」
「あのおじさんが、亡くなったんだ。一月十日のことだって」
「なんで?」
「そこまでは知らない」
「いや、それはいいんだけど、そうじゃなくてさ、何でそんなこと、サチが知ってるの?」
「年賀状届いたの」
「年賀状?」
「おじさんから。春になったら、用務員の仕事を辞めることになりました、って」
「え? わかんない。言ってることがわかんないんだけど。どうして用務員のおじさんからサチのところに年賀状が来るの?」
「あ・・・」
「なんで?」
「あの、ね。私、さをりちゃんには言ってなかったけど、あの町を引っ越す前にね、用務員のおじさんのとこへもう一度行ったの」
「・・・」
「ごめん。怒った?」
「いまさら別に怒りやしないけど。なんだかなぁ・・・」
「怒るよね。二度とこの場所には戻らないって約束したのに。でも、でも私、気になって気になって、どうしようもなくて。だから、引っ越す直前に、用務員のおじさんのところへもう一度行ったの」
「・・・ふうん」
「怖くって、苦しくって、もう一度おじさんに、会いに行こうって思って」
「・・・」
「それでね、その時、おじさんに、引っ越し先を聞かれたから、住所、教えたの。それから毎年、おじさんから、年賀状が届いてて」
「・・・知らなかった」
「ごめん。ごめんね、ほんと。でも、私、さをりちゃんの引っ越し先とかも全然知らなかったし。話す機会なんてなくって」
「いいよ。そんなこと。そもそも連絡先とか交換しないで別れたんだし」
「でも約束破ったことには変わりないもの」
「約束って、確かに約束はしたけど、それはそれでしょ」
「でもね、あの場所へはそれから行ってないよ。おじさんのところへ行ったときも、お墓の場所には寄らなかった」
「だからいいんだってば、そんなこと」
「・・・ごめん」
「謝ることじゃないじゃない、もうやめようよ」
「ごめん。・・・そう、それでね、おじさんが仕事を辞めることになりましたって葉書くれて、それからすごく気になって、どうしようもなくなって。それでね、小学校に電話したの」
「ん」
「そしたら、亡くなったって」
「そっかぁ、おじさん、亡くなっちゃったんだ。そっかぁ・・・」
「・・・」
「何?」
「一度、会えないかな」
「何?」
「さをりちゃんがいやならいいんだけど。一度、会えないかな」
「あ、いいよ。何時、何処で?」
「ね、あの場所に行ってみたくない?」
「え?」
「あの場所」

 結局私は、半ば彼女に押しきられるような形でそれをOKした。いや、断ろうと思えば断れたはずなのだが、何故かその時の私には、彼女からの申し出を突っぱねることができなかった。何故だろう、よく分からない。久しぶりに会うのはまぁ分かる、が、会うだけじゃなくあの場所にいまさら何故行こうとするのか、しかも二人で行く必要が何処にあるのか、私には分からなかった。が、反面、妙に気になりもした。用務員のおじさんが亡くなった今、一度くらい、あの場所を訪ねてみてもいいような気がした。
 そうして待ち合わせをした今日、ホームの中央にある階段を昇ると、改札口にはすでにサチが立っていた。腰まで伸びた髪が時々風に揺れている。二十一年もの隔たりがあるのに何故一目で彼女とわかったのだろう。不思議に思いつつ、けれど、彼女も一目見るなりそれが私だと認めた。針金のように細い体は昔のまま、唇に桃色の口紅をひいた彼女がそこにいた。
「久しぶりだねぇ」
「会うなんて思ってなかったしね」
 そんな言葉を互いに掛けながら私たちは歩き出した。小学校までの道程はひたすら上り坂だ。
 この道は、当時は砂利道で、雨が降れば水たまりが幾つも出来、避けて歩いているつもりでも気付けば白いソックスに幾つも泥点がついていたっけ。あの電信柱も昔は木製だった。電信柱に辿り着くたびジャンケンをして、荷物持ちをしながら帰ったっけ。あの公園は、あぁ、今もまだある。でもあの頃よく遊んだ砂場は埋められていて、代わりにベンチが二つ置かれている。一足進むごとにそこは、懐かしいようでいながら、すでに、私にとってもサチにとっても、知らない町だった。
「私ね、ずっと気になってたんだ」
「何が?」
「お墓のこと」
「・・・」
「用務員のおじさんから年賀状届くたび、お墓のこと思い出して・・・」
「サチがおじさんと年賀状のやりとりしてるなんて、思ってもみなかったよ」
「うん、そうだよね」
「私は。・・・正直言って、忘れてた。引っ越した当初は悩んでたような気もするんだけど、覚えてない。その頃のこと、すっぽり抜けてる感じでさ、いくら思い出そうとしても思い出せないんだよね」
「そうなんだ・・・。じゃ、今日誘っちゃって悪いことしたね」
「あ、そんなことない。サチには久々に会いたかったし、このこと思い出してからは、なんとなく引っかかるものあるし」
「そっか。・・・でもなんか、全然違うんだね」
「何が?」
「私はしょっちゅうこのこと思い出してて、さをりちゃんは全然で」
「・・・そうだね」
 同じ出来事を、二人で経たはずなのに、そう、恐怖と罪悪感とで共に押し潰されそうになった出来事を同時に二人で経たはずなのに、私たちは全く違う道を辿ったのだ。彼女はあの後気になってあの場所に戻り、私はあの場所に立ち戻ることなく別の町に引っ越した上に出来事を記憶から半ば削除し。気になって毎年思い出す者とすっかり記憶外に押しやって二十年余りを過ごして来た者と。全く違っていた。
 どう話しかけたらいいのか、分からないまま、私たちは並んで歩いた。まだ十歳になるかならないかの頃、駅近くの互いの家から学校までは三、四十分はかかったものだった。今の私たちの足ならニ十分かからない距離である。坂の突き当りを見上げると、校門が見えた。
「校門の・・・」
「脇」
「ん、そうだよね」
 土曜日の午後。もう生徒たちはすっかり下校した後のはずだ。辿り着いた校門から中を覗くと、案の定、生徒の姿も先生の姿も見えなかった。
 私たちは、どちらともなく顔を見合わせた。黙ったまま、校門をくぐった。
 たった一年。たった一年だけれども過ごした小学校。
 そのとき私たちは、転校生、ヨソモノだった。

 サチは父親の仕事柄、私は私で家庭の事情から、一年生から三年生の間にすでに、二つの学校をそれぞれ転々としていた。小学校三年生になった時、私たちはこの学校で、転校生として出会った。一学年に多くて三クラス、少なければ一クラスしかない小さな学校。私たちが転入する三学年には一クラスしかなく、サチも私も、一緒の教室に入った。
 私たちは気付けば、金魚のフンと周囲から言われるほど四六時中一緒に過ごすようになった。最初から転校生同士という気安さがあったのは確かだが、それよりも何よりも、私たちはクラスの中で浮いていた。標準語を話す私たちと、方言を話すクラスメートとは、どうしてもかみ合わない。最初のうちこそ声をかけてくれる人が何人かいたが、声をかけられてそのまま返事をすると、別の群れから言葉遣いをからかわれ、こづきまわされる。そうしているうちに声をかけるものは一人、また一人いなくなり、自然、二人で一緒にいるようになったのだった。
 夏になる頃、クラスの担任が教室にメダカを持ってきた。今日からクラスで飼育しようというのだ。オスとメスがいるから、みんなの育て方がうまくいけば子供をいっぱい産むだろうと先生は言う。そして、クラス全員で班を作って、それぞれにそれぞれの水槽でメダカを育てる競争をしよう、と言う。クラスメートはみんな嬌声を上げた。
 けれど。
 班を決める、その作業が難航した。私とサチを除けば、みな、すんなり三つの班に分かれることができたのだが、私とサチがどこかの班に入る、となったとたん、みんな引いた。ヨソモンとはいやだ、と言った。結局、担任が無理矢理私とサチを一つの班に押し込まなければならなかった。しかし、それは所詮、無駄な努力に終った。私とサチが入った班のみなが、飼育を放棄したのだ。私とサチが水槽に近づくと、それまで水槽の近くにたむろしていたクラスメートはみな散ってゆく。そんな具合で、気付いたら、その水槽は、私とサチ以外誰も近づかない水槽になった。
 窓際に置かれた、十匹のメダカが放たれた透明な水槽。毎朝教室に入ったらエサをやり、一週間に一度水を取り替え、水草を洗い、そうしたすべてを、二人でやった。
 一月が経つ頃、一匹のメダカの体の線が曲がってきた。何だろう、病気なんだろうか、と、ヒマさえあれば水槽に額を押し付けて心配した。数日後、それは、卵を抱えて腹が膨らんだためだということを知る。私たちは大喜びした。
 いつ生まれるんだろう、いつ子メダカが生まれるんだろう、どうやって生まれるんだろう、どきどきしながら毎日を過ごした。けれど。
 きっと明日には生まれるよ、そうだね、あんなにおなかが膨らんでた。どうやって出てくるんだろう、なんて話しながら帰った翌日、教室へ行ってみると、その腹を膨らませたメダカが、水槽の外で干からびていた。
 私たちは、呆然と、そのメダカの前で立ち尽くしていた。どうしてこんなことになったのだろう。何故。見つめるメダカはどんどん滲み、目の中で涙に押し潰されていった。
 その時、クラスメートが、言ったのだ。
「ざまぁみろ」
 溢れ出る涙もすっ飛んで振り向くと、そこには、幾つものクラスメートの顔があった。
「ざまぁみろ。ヨソモン」
 クラスメートの顔の群れの、中央の子が、そう言った。それだけ言うと、群れは私たちに背を向けた。始業のベルが鳴った。
 その日一日、どうやって過ごしたのか。帰り道、昨日はあれだけお喋りになって、子メダカに会えるのが楽しみでお喋りになって歩いた帰り道を、今日はふたりとも黙って歩いた。
 転校生というだけで、どうしてこんなことになるんだろう。みんなと違うアクセントで喋る、違う言葉で喋るというだけで、どうしてこんなことになるんだろう。何処にも答えはなかった。
 次の角でサチは左、私は右にと分かれるというところで、サチが口を切った。
「メダカ、殺されちゃったのかな」
「・・・」
「殺されちゃったんだよね、きっと。そうだよね」
「・・・」
「・・・」
「お墓、作らなくちゃ」
「ん。お墓作ってあげなくちゃ、かわいそう」
 翌日、私たちは、クラスメートが誰もいないのを何度も確かめながら、校門の脇の木蓮の木の脇に小さな穴を掘った。空き箱にチリ紙を敷いて寝かせておいた干からびたメダカを、その穴の中に埋めた。
 殺されたのか、単に事故だったのか、本当のところは何も分からないまま、夏が終り、秋が過ぎた。その間に私たちの水槽では、水草が引っこ抜かれていたり、エサを水槽にぶち撒かれていたり、いろいろな出来事があった。けれど、私とサチは、沈黙を通した。喋れば、ただそれだけでまた小突かれる。もしかしたらそのせいで他のメダカまで殺される。だったら沈黙している方がいい。沈黙が、私とサチの、唯一の反抗だった。
 そんな或る日、毎週恒例となった墓参りのために、土曜の午後、もう誰もいないはずの学校へ行くと、知らない背中がメダカの墓のところに蹲っていた。
 驚きと恐ろしさで立ちすくむ私たちの方へ、背中がゆっくり振り向いた。
「あぁ、今わしもお参りさせてもろてたところやったけ」
 皺くちゃの顔がそう言った。私たちは、黙っていた。
「毎週毎週、えらいこった、今日も墓参りか」
「・・・」
「えらいこった」
 そういって、皺くちゃの顔をさらに皺くちゃにしてにこにこ笑っている。
「どうして、お墓って知ってるの」
「いーっつも花飾って、お水やっとるやね」
「どうして知ってるの。誰ですか、おじさん」
「あぁ、用務員しとる」
「ようむいん?」
「ほら、あそこの、昇降口の脇にちっちぇえ部屋があるけ、あそこにいつもおる」
「何してるの?」
「見まわりしたり、掃除したりな」
「・・・」
 それだけ言って去ってゆこうとする用務員のおじさんに、サチが声をかけた。
「おじさん、言わないで」
「何を?」
「お墓のこと、誰にも言わないで。秘密なの」
「ん?」
「言わないで、言わないで。お墓のこと、誰にも言わないで」
「・・・」
「みんなに知られたら、お墓、壊されちゃう」
「どうしてお墓を壊す奴なんて、いぃへんよ」
「言わないで言わないで。お願いだから言わないで。ヨソモノだから私たち、お墓も壊されちゃう」
 用務員のおじさんは足を止め、じっと私たちの顔を見つめた。私とサチもおじさんをじっと見つめた。しばらくして、おじさんが言った。
「誰にも言わん。安心しぃ」
 泣き虫のサチは、それだけでもう半べそをかいていた。用務員のおじさんは、サチの頭をくるくるっと撫でると、手を振りながら用務員室の方へと帰って行った。
 それからだ。私とサチは、毎週土曜日、お墓参りを終えると用務員室に立ち寄った。おじさんは私たちが行くと、手招きで部屋に呼び入れ、いつもお菓子をくれた。持っているときは硬いのに、口の中に放り込むとしゅしゅしゅっとあっという間に溶ける、不思議なお菓子だった。それを食べながら、おじさんとサチと私は、夕暮れになるまでのひとときをそこで一緒に過ごした。

 そうして一年が終る頃、私は再び違う町へ引っ越すことになった。それを告げると、何の偶然か、サチも、この春には親の転勤が決まっており、つまり引っ越すという。もし。もしも、この時、どちらかだけでも転校しなかったならば。どちらかだけでもこの町に残ることになっていたならば。私たちは、あのことを為しただろうか。
 分からない。
 二人とも転校するということが分かってから、私とサチの心の中には大きな心配事ができた。メダカだ。メダカをどうしたらいいんだろう。
 担任は、他の班に半分ずつ分けて、ちゃんと育てていくよ、と言っていた。けれど、あのクラスメートたちが本当に育ててくれるのだろうか。
 一日、一日、過ぎていった。終業式は目の前だ。明日が来たら私たちはふたりとも、この学校を去る。四月が来て始業式の日が来ても、私たちはもうここにはいない。

 私たちは、終業式を終えたその日、もう空がすっかり暮れた頃、こっそり教室に忍び込んだ。空っぽの教室には茜色の日差しが斜めからさし込み、並んだ机や椅子が、床に長い影を作っていた。
「ビニール袋は?」
「持ってる」
「網、何処だっけ」
「あそこ」
「誰もいない?」
「誰もいないよ」
 私たちは、自分たちの水槽に忍び足で近づいた。寒くはないのに体がかじかむ。唇をぎゅっと噛み締め、私とサチは、網を握った手を水槽につっこんだ。
 一匹、また一匹、網に捕らえる。一匹、また一匹、今度は網からビニール袋へ、メダカを放り込む。水も何も入っていない空のビニール袋の中で、メダカがぱたぱた跳ねた。その音と共に自分の心臓の音がばっくんばっくん鳴った。
「あと一匹」
「捕まえたっ」
「早く」
「早く」
 私たちは駆け出した。後ろを見ずにとにかく駆けた。駆けて駆けて、あのお墓まで走った。
「早く早く」
「ビニールが離れない」
「手、解いてよ」
「離れないよ」
「離れるよ」
 緊張で手が強張っているのだろう、サチの手からビニール袋を引っ張った。その間もずっと、ビニール袋の中でメダカが苦しげに跳ねている。私もサチも、眼を逸らした。
「早く早く」
 私たちは、爪に土が挟まるのもかまわず、懸命に土を掘った。右手で左手で、土を掘った。以前埋めたメダカの隣に。そして、ビニール袋をそのまま、穴に突っ込み、再び土を掛けた。
 もしかしたらそれは、たった五分や十分のことだったのかもしれない。土を掛け終えた後でもまだ夕日は地平線に隠れてはいなかったのだから、ほんの短い時間のことだったのかもしれない。が、私とサチには、とてつもなく長い時間に思えた。新たに土が盛られたと明らかに分かるその場所を、私とサチは、へたりこんで見つめた。
 これでいい。そうするのが一番いい。サチと私が、一生懸命考えて出した答えだった。他の人たちにやがて殺されてしまうかもしれないのならば、私たちが死なせてあげる方がいい、あんなふうに干からびて死んでしまうくらいなら、一気に死なせてあげたほうがいい。誰にも知られず、誰にも気付かれず、私たちが去るのと一緒に、このメダカたちを天国に逝かせてあげよう、そう、思ったのだ。
 だからやった。サチとふたり、誰にも気付かれないように、ふたりでやった。これでよかったんだ。でも。でも。
 その時、後ろから声がかかった。
「こんな遅うまでどうした?」 
 私たちは仰天して振り返った。誰もいないと、誰にも見られていないと思ったのに。そこには用務員のおじさんが立っていた。
 その顔が用務員のおじさんだと分かった途端、私とサチは、おじさんに飛びついていた。そして、声を上げて泣いた。

 どんなふうにおじさんに、話しをしたのか、それとも何も話しをしなかったのか、よく覚えていない。が、おじさんは、言った。
「よう分かった。もうええ。な。ぜぇんぶここに置いてけ。そんで忘れてしまえ。お墓はわしがちゃんと守ってやっから」
 それでも不安で恐ろしくて、自分たちのやったことに押し潰されそうになる私たちに、おじさんがもう一度言った。
「安心せ。わしゃ喋りゃせん。墓も守ったる。安心せ」
 私とサチは、とぼとぼと家路を辿った。私は明日、サチはしあさって、この町を離れる。できるならもうちょっと一緒にいたかった、もうちょっと何か話したかった、一緒に遊びたかった。でも、もうその気力はどこにも、体の何処を探しても残っていなかった。
「バイバイ」
「バイバイ」
「・・・」
「・・・」
「秘密だよ」
「うん。誰にも言わない」
「指きり」
「うん。指きりげんまん嘘ついたら針千本のーますっ 指切ったっ!」
「・・・」
「もう行かないよね?」
「お墓?」
「うん、もう行かないよね?」
「うん、行かない」
「おじさんが忘れろって言ったもん」
「うん、忘れる」
「うん・・・」
「お墓参り、おじさんが代わりにしてくれるって言ってたよね」
「うん」
「うん」
「・・・新しいとこ行っても、元気でね」
「友達、できるかな」
「わかんない。でも、今度はヨソモノって言われないといいな」
「・・・そうだね」
「バイバイ」
「バイバイ」
 そして私たちは、すっかり日も落ちた曲がり角を曲がり、別れた。もう二度と会うこともなく、もちろんこの町に来ることもないと、そう思って。

 どうしてあの時、メダカを自分たちの手で殺してしまう、葬ってしまおうなどということを思いついたのだろう。二十年余りを経た私たちは、どちらともなくその問いを心に浮かべ、黙っていた。
 あれから、クラスの皆が、或いは担任が、私たちの水槽のメダカが一匹もいないことを見つけた時、一体どうなったんだろう。用務員のおじさんはそのときどうしただろう。そして何より。お墓は今どうなっているのか。
 黙ったまま私たちは校門をくぐり、かつてお墓があった場所を見やった。

 そこには。
 木蓮の木はそのままにあった。すっかり煤けた幹が経った時の長さを物語っている。その木蓮の木の足元がお墓だ。けれど。
 黄色だ。黄色い絨毯が敷かれている。木蓮の根元に黄色い絨毯が。いや、違う、花だ、水仙だ、さやさやと、黄色い水仙が揺れている。水仙が幾つも幾つも、揺れて、歌っている。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・。そのうち視界は幾重にもぼやけ、もう数えられなくなった。
 私の隣に立っていたサチが、あぁ、という声をもらしながらしゃがみ込んだ。私はその隣で、どうにか涙が零れるのを堪えようと思って空を見上げれば、高く高く澄み渡った水色がやっぱり滲んでゆく。あぁ、あぁ、あぁ。
 あれからずっとこの場所を、守ってくれてたんだね、
 何にも知らないで、今日まで知らないで、私たち、
 私たちに何も言わないで、黙って、
 おじさん、ずっと、守ってくれてたんだね
 おじさん、おじさん、呼びかけても返事など返ってこない。黄色い絨毯が、さやさやと揺れている。

にのみやさをり

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