連載小説「潮の香りの中で」(1)

     序

 庭の梅の木が枯れていることに気づいたのは、つい先日のことだった。
 私の誕生の記念樹にと、二十一年前にこの梅の木を植えてくれたのは、母方の祖母だった。父方の祖父母は私が生まれてまもなく二人とも癌で亡くなっており、私の記憶にもその面影はほとんど残っていない。だから、私にとっておばあちゃんと言ったら母方のその人ひとりであり、同時に三才から私が小学校へ入学するまでの三年間を育ててくれた人でもあった。私が父と母と三つ下の弟との家族のところへ戻るとき、祖母の家の庭から一緒にこの家へ運ばれてきた梅の木は、その後二度の引っ越しも難なくこなし、毎年毎年、二月になると伸ばした枝の先々にまで薄紅色の花をつけ、私の誕生月の六月頃にはたんまり太った青い実を几帳面に実らせていた。それが今年は、花もすっかり散り落ちて四月も終わろうという頃になっても、萌黄色の新芽も小指の先程の青くさい実もいっこうに顔をのぞかせる気配がない。二階の部屋の窓から見下ろしては首を捻るのにも飽きた頃、思い立って庭まで下りて見てみると、いつもつやつやと黒光りしていたはずの幹がすっかりひび割れていることに気づいた。
 試しに小枝の先に指を伸ばしてみると、大して力も込めてはいないはずなのにポキリと乾いた音を立てて容易に折れてしまった。おそらくはもうずいぶん前から梅の木は水を吸い上げることを止めてしまっていたのだろう。あまりにあっけなく折れた小枝を右手の人指し指と親指とに挟んだまま、私はそれをしばらく見つめていた。

    第1章

 「それからなんだ、何か、変なの」
 生徒もまばらな学生ホールの隅のソファーに並んで座ると、千代乃は煙草を口にくわえた。
「すっかり板についたって感じよね、千代乃のその吸い方。ま、人のこと言えないけどさ。で、何が変なの?」
 孝子は自分もカバンから煙草を取り出して火を付ける。
「ん、何かね、信じる?」
「だから、何、言ってくんなきゃわかんないよ」
「あのね・・・・・・何ていうか、ほら、人とこうやって喋ってるでしょう、別に喋ってなくてもいいんだけど。だから、人が自分の目の前にいたりするじゃない、視界に入ってくるでしょ、そうするとね、ふいに、その人の周りに何か変なモノが見えたりするのよ」
「見えるって、何が?」
「だから・・・・・・、例えばね」
 千代乃が正面に見えるホールの出入口にさっきから立っている生徒を指差して、
「あの子のことを見てたりするじゃない、そうするとね、何かの拍子にふとその子の体の周りがぼぉっと、ね、何ていったらいいんだろ、こう、光ってるような燃えているような、そんなものが見えてきちゃうのよ。ねえ、何なの、これ」
 孝子はあまりに不意を突かれた千代乃の言葉に一瞬喉を詰まらせた。
「そんな、突然言われたって困るよ」
「・・・・・・」
「千代乃の思い込みじゃない?」
「そう言うと思ってずっと話すの止めてたんだけど。でも、先週覚えてる?」
「何?」
「和歌子と亮ちゃんが事故ったじゃない」
「あれね、そうそう、昨日病院行ったんだって、みんな。退院には二、三週間はかかるってよ」
「そう、行ったんだ」
「ん、だから言わんこっちゃないのよ、バイク二人乗りしてて事故るなんて。そのせいで親に隠れて同棲してたのまでバレちゃったんでしょ。まったく、バカなんだから、二人とも」
「バカかどうかは知らないけど、でも」
「何?」
「和歌子と亮ちゃんが事故る前の日、美学の講義で一緒になったんだけど、そのときにね、見えちゃったのよ、私、その光みたいなのが。それがゆらゆらしてて、何ていうか、危ないなあ、ってそのとき思ったの」
「何、それ」
「だからうまく言えないって言ってるじゃない。何で危ないなんて思ったのか自分でもさっぱり分かんないのよ、ただ、光みたいなのがゆらゆらしてるの感じたとき、勝手にそう思えてたんだもん。だから、亮ちゃんたちが事故ったって聞いたとき、私、やっぱりって、そう思って」
「千代乃、変、じゃない?」
「分かってるわよ、もう」
「でなきゃ、やっぱりそう思い込んでるだけとかじゃないの? じゃなきゃ、たまたま、とか」
「私だってそう思いたいわよ」
 投げ捨てるようにそう言うと、千代乃は指に挟んでいた煙草を灰皿の底に乱暴に押しつけた。体は折れそうなくらい痩せぎすなのに、不思議と指先だけが白くやんわりとした肉付きを保っている千代乃の指先は、眺めているとなんだかそこだけ別の生き物のように見えてくる。
 孝子は黙り込んだ千代乃の隣で、言うべき言葉を探し出そうとあちこち思いめぐらせてはみたが、そんなもの思いつきそうになかった。
「孝子とか、そういう自分に近い人たちの周りには、まだ見えたことないんだけどね・・・・・・」
 千代乃のため息が、ソファーを伝って孝子の背中へと届く。
「で、それがどう梅の木と関係あるっていうの?」
「分かんない。分かんないからこうやって今孝子に話してるんじゃない。自分じゃもうどうにも分かんないんだもん。でも、梅の木が枯れてることに気づいた日から、そうなったのよ」
「いつからって言ったっけ、それ?」
「だから、四月最後の日曜日」
「亮ちゃんたちが事故ったのが先週、か。じゃ、もしかして千代乃、その間ずっとそういうの見えてたの?」
「・・・・・・」
「うそみたい」
「・・・・・・もう、いい。話した私がバカだった」
 そう言って立ち上がろうとする千代乃の右腕を掴むと、孝子は
「ごめん、ごめん。だってさ」
「何よ」
「だから悪かったってば」
「じゃ、あの変なのは一体何だっていうよの」
「そう言われたって、私にだって分かんないよ。そんなの私は見たことないしさ」
「そうだよね、分かるわけないよね、孝子に。私自身分かってないんだから。もう、いい。この話、止めよ」
 そう言ってもまだ突っ立ったままでいる千代乃の腕を引っ張ってもう一度ソファーに座り直させると、孝子はもう一本煙草を取り出した。
 二時間目の講義が終わり、同じ学部の見知った顔もちらほらとホールに姿を見せ始めた。あと10分もすれば、ホールは昼食をとる学生たちでいっぱいになるだろう。
 孝子は半ば意固地に黙り込み始めた千代乃を促してホールを出ると、
「とりあえずはさ、その変なモノとおばあちゃんがくれたっていう梅の木と和歌子たちの事故、全部いっぺんにつなげて考えるのはやめといたら?」
 校門を出たところから駅まで続く銀杏の並木道を歩きながら孝子がそう言うと、まだ黙り込んだままの千代乃は、視線だけを孝子の方へ向けた。
「千代乃って、ほら、思い込み激しいから。それが悪いとは言わないけど、でも、変に思い込みすぎると要らぬことまでこんがらがってくるからさ、今はやめといたほうがいいと思うよ、私」
「・・・・・・」
「ね?」
「・・・・・・いいよ、もう。分かった」
「そう投げやりに言わないでよ、千代乃」
「分かった、とりあえずはやめとく」
「そうして。ね、昼、どうする?」
 ちょうど駅へ上がる階段の手前で立ち止まると、孝子は千代乃の表情を覗き込むようにたずねた。
「やめとく」
「食べないの? 午後の講義は?」
「休講。食欲もないし、悪いけどもう帰るわ」
「そっか、私、まだ三限残ってるし部活もあるから」
「それじゃ」
「じゃ、ね、明日」

 孝子が踏切を越えて駅向こうの行きつけの喫茶店に入ろうと中二階までの階段を上がりかけたところで、
「よう、孝子」
 後ろから呼び止めたのは、同じ学部の松木と今村だった。偶然にも二人とも孝子がマネージャーを務めるラグビー部員で、三人とも顔を突き合わせている時間が長いせいか、学部の仲間内でも気が置けない相手だった。
「何、飯?」
「うん」
「一人かよ、藤巻は?」
「もう帰った」
 そのまま三人で店へ入り窓際にの席に座ると、ウェイトレスがメニューと水を運んで来て、すぐにまた奥へと戻って行った。
「それにしても、おまえら仲いいよな、いつ見ても一緒だろ。とても孝子とは合いそうにない相手なのにな」
「どういう意味?」
「だってさ」
 孝子の向かいに座った松木と今村は含み笑いを浮かべてうなずきあうと、松木の方が孝子に向かって喋りだした。
「正反対じゃん、孝子と藤巻って。孝子は、ずけずけがんがん、これっぽっちも遠慮ないし、言い出したら絶対引かないって感じでさ」
 黙ったまま大きく頷いてみせる今村に、松木が続けて、
「この前の部会のときなんか、だろ? 先輩がボールの磨き方で文句言ったとき」
「あれはしょうがないじゃない、誰だってああ言うわよ」
「そうかあ? あそこまで言い張るのは孝子だけだろ。たいていは途中で適当に謝ってごまかすもんじゃあないの?」
「ごまかしていいことと悪いことがあるの」
「まあ、まあ」
 ちょうどそこへクリーム色のエプロンをつけたウェイトレスが注文を取りにやってきた。孝子は今村が三人分の注文を伝える声を聞きながら、煙草に手を伸ばした。松木はそんな孝子の前で苦笑いしている。
 ウェートレスが席を離れていくと、今度は今村が煙草に火を付けながら言った。
「まあ、柏木にはそんなこと絶対許せないってとこだろ。それにひきかえ藤巻はさ、なんていうか、とらえどころがないって言うか、どっか違うんだよなあ」
「千代乃のどこが違うっていうのよ」
「雰囲気だよ、雰囲気。なあ? 大人びて見えるとこなんかは二人とも同じだけど、でも、どう言えばいいのかな、藤巻は、見てるとこが他とどっか違う感じがするんだよな」
 今村のその言葉に重なるようにして、ウェイトレスが今度は三つの皿を器用に両腕に乗せて戻ってくると、三人の前にそれぞれ皿を並べていった。
 孝子は、自分が注文したツナ・サンドを一口頬張ってから、
「千代乃ってそんな、今ちゃんたちが思ってるのと違うと思う」
 揃って日替わりランチのドライカレーを注文した二人が、口をもぐもぐさせながら孝子を見やった。
「ああ見えても千代乃って結構気ィ強いし頑固なんだよ。確かにどっか、ヒトと違ってるようなとこはある、けど」
 それだけ言うと、孝子はツナ・サンドの食べかけを放り込むように口に入れた。
 途切れるともなく話が途切れ、三人とも目の前の皿を空にすることの方に気を取られたのか、なんとなく食べ終わるまで誰も口をきかなかった。
 一番先に食べ終えた松木が思い出したように、
「そういや孝子、おまえ、西美の講義、とってたよな?」
「うん」
「ノート、ちゃんととってる?」
「何で? マツ、西美とってないじゃない」
「うん、俺は日美だけど、若尾にノート届けるらしくってさ、でもあの授業、まともに出てるヤツいなくって」
「マツってば、亮ちゃんとそんな親しかったっけ?」
「いや、この前見舞いに行ったヤツらから頼まれたんだ。孝子、ダメ?」
「ダメも何も、私、ノートなんてとってないよ」
「え、マジ?」
「それってもう頼まれちゃったわけ?」
「だって、孝子、とってると思ったから・・・・・・いいって言っちゃったよ」
「んな、無責任に」
「やべえなぁ」
と、松木は言うと、短く刈り込んだ髪の毛をボリボリかきながら困り果てた表情を顔いっぱいに浮かべている。そんな松木を前に、孝子は半ばため息をつきながら、
「ねえ、それって、別に私のノートじゃなくてもいいんでしょ?」
「え、当て、ある?」
 身を乗り出す松木に、
「千代乃がとってるよ、まじめに」
「助かったあ。な、孝子、藤巻に頼んでくんない?」
「自分で頼めば?」
「え」
「・・・・・・うそ。頼んどいたげる。いつまで?」
「ん、若尾たちが出てくるまでの分、かな。出てきたら渡すんでいいだろ」
「わかった、言っとく。・・・・・・あ」
「何?」
「ねえ」
 今度は孝子のほうが松木と今村のほうへ身を乗り出した。
「そのついで、と言っちゃあ何だけど、マツにそのノート渡すときなんかに、四人でお茶でもしない?」
「なんだよ、いきなり」
「いいでしょ、ノートはしっかり頼んどくから」
「俺はいいよ」
 今村が、吸い込んだ煙草の煙を天井に向かって勢い良く吹き上げながら言った。
「もちろんそれってマツのおごりだよね?」
「何で俺がおごるんだよ」
「だって、ノート頼むんでしょ、それくらいしなよ」
「おまえなぁ」
「なに?」
「・・・・・・わかった。おごる」
「アリガト。じゃ、そのあたりになったら声、掛けるよ」
「そろそろ行くか、三限、始まるぞ」
 今村の声に立ち上がって店を出ると、三人はまた学校へ戻って行った。

 改札口を通った千代乃は帰り道である左側の上りホームへの階段を二、三段降りかけたところでいきなりきびすを返すと、反対側のホームの階段を降りていった。
 ホームにはちょうど下り電車が滑り込むところだった。途中の駅で小田原と江ノ島側へとそれぞれ切り離される列車の後方へ乗り込むと、真っ昼間というだけあって座席はほとんど空っぽだった。千代乃は端っこの窓際の席に腰を下ろし、流れ始めた風景の方へ焦点の合わない視線を投げやった。
 窓の外の風景は人家も疎らな光景とマンションが林立する駅前の光景とを織り混ぜながら過ぎていく。やがて列車が切り離され、藤沢で折り返した辺りからは、トタン屋根の家が増え始め、乗ってから一時間半、ようやく終点の片瀬江ノ島駅へと着いた。
 改札に立つ一人きりの駅員の前に切符を放ってそのまま通り過ぎ、右からも左からも波が打ち寄せてくる島へ続く長い橋をゆっくり渡っていく。島の入口からふもとの神社までの急な上り坂の両脇には、客を待ち惚けている店が肩を寄せ合うようにして立ち並んでいる。店の奥へ眼をやると、店番がぼんやりと店の棚においた簡易テレビの画面を眺めながら煙草をくゆらしていたりもする。千代乃はその一番山寄りに斜めに建った饅頭屋で、夫婦饅頭と名付けられた小さな茶色の薄皮饅頭を二つ買うと、包んでもらった褐色の袋の中身を潰さぬように抱えながら、上り坂をさらに昇っていった。
 急に視界が開けふもとに辿り着いたと思うと、今度はさらに向こう側の崖っぷちへと出るための、とってつけたようなコンクリートの階段道を下って、千代乃は続く階段をもう一度昇った。
 階段道のつきあたりに位置する神社の周りには、民宿が数件軒を並べている。客が泊まっているところをまだ見たことがないその民宿の軒先を通り過ぎた隅っこに、稚児ヶ淵と文字が彫り込まれた大きな黒い石が建っている。方向を示す矢印は、一本しかないその道の先を示しており、千代乃はいったん神社の前で立ち止まり柏手を打ってから、矢印の通り道を進むと、再び下り方向の階段になる。その手前で立ち止まった千代乃の目の前に、せりあがるような黒い海が、ようやく姿を現した。
 波打ち際から二〇メートルほど突っ立った崖っぷちの突端に座り込むと、千代乃は両足を宙でぶらぶらさせながら、抱えていた包みの中のだいぶ冷めてしまった饅頭の一つを頬張った。満潮が近いのだろう、白い飛沫を高くまで打ち上げる波の繰り返しを見つめていた筈の千代乃の視界は、だんだんと一昨日交わした母とのみじかいやりとりに占められていった。
 「ねえ」
 食卓に新聞を広げていた母が顔を挙げるのを待って、千代乃は続けた。
「梅の木が枯れてるの、気がついてた?」
母は、もう夜の闇で見えないはずの窓の外へ微かに視線を向けると、
「そうだった? いつ?」
「いつからかはっきり分からないけど。先月末に見たときにはもう枯れてた」
「そんな前から? 何だ、気づいてたならもっと早くに言ってよ」
「・・・・・・」
「枯れてるなら抜かないと。そう、さっぱり気がつかなかったわ」
 母は窓からそのままもとの新聞へと視線を戻すと、梅の木を引き抜くという言葉に驚いている千代乃に気づく気配もなく、ちょっと眉根をひそめてから再び記事を読みだした。千代乃は珍しく自分から母に声を掛けてはみたものの、思わぬ返事にそれ以上続ける言葉もなく、しばしその場に立ち尽くしていた。母の横顔をそうして見ていても、最近掛け始めた老眼用眼鏡の銀色フレームが白々とした電気の明かりを反射させて、輪郭がうまく捉えられない。仕方なく千代乃が部屋へ戻ろうと体の向きを変えかけたとき、母がぼそりと呟くように言った。
「そういえば、おばあちゃんが死んでもう一年ね」
 海から吹きつける突風を左手で避けながら千代乃は、くわえた煙草にどうにか火を付けると、灰皿代わりに握っていた饅頭の包み紙を袋折りにした。
 正確に言えばあれからもう一年と四ヵ月が経ったのだと、千代乃は改めて過ぎた時間を数えてみた。おばあちゃんがもういないなんて信じられないよね、と、千代乃は日もだいぶ傾き白黄色に揺れている波間に向かって、煙を吹き掛けながら呟いた。風が吹きつける崖っぷちでは、当然煙は海に届くはずもなく、千代乃の顔にそのまま叩き返された。そうよ、それまでは私にもまだちゃんと一緒にいてくれるひとがいるって思えていたのに。
 その声もまた風に呑まれ、言った千代乃の耳にもはっきりとは届かなかった。

「お疲れさま」
「お疲れさまでしたぁ」
 孝子は練習を終えたメンバーに声を掛けながら、かき集めたボールを倉庫へ運び込んだ。部室へ戻ってメンバーが残らず出ていったことを確かめると、自分の荷物を左肩に掛け、階段を足早に降りていった。
「あれ、今ちゃん、早いね。もうシャワー浴びたの? ゆっくりすればいいのに」
「今日はちょっと、な」
「何、約束でもあんの?」
 急に興味津々の声色になって孝子が今村の顔を覗き込むように聞いた。
「そんなんじゃねえよ、ったく。さっさと帰りたい気分ってときもあるだろ」
 孝子の表情に苦笑いで今村が応えた。
「確かにそうだ、いっつも部活部活で遅くなるしね」
「おまえもだろ、毎日毎日。駅まで一緒行くか?」
「ん」
 孝子と今村は生徒もほとんど残っていない、がらんとした校舎の前を通り過ぎて、銀杏の並木道を駅の方へと歩き始めた。
「昼間のことだけどさ」
「何?」
「藤巻と一緒に、茶、するって話」
「ああ、あれ?」
「相変わらずだな、おまえも」
「何が?」
 もともと大きい孝子の両目が、きょとんとした色味で今村を見上げる。
「ノートぐらいでわざわざ茶ぁしようなんて、ホントは他に何かあんだろ?」
「・・・・・・そんなこと、ない、けど」
「お節介もほどほどにしろよ。藤巻は藤巻なんだから」
「・・・・・・」
「まぁ、いいけどよ」
「あの、ね」
「何だよ?」
「ちょっと気になっちゃって」
「藤巻?」
「うん。千代乃、いきなり変なこと言うから」
「何を?」
「ヒトの周りに変なモノが見えるって」
「変なもの?」
「ん・・・・・・私にはよく分からんないんだけど。ほら、亮ちゃんと和歌子が事故ったでしょ、事故る前に二人に会ったとき、そのヘンなのが見えて危ないんじゃないかって思ったとか言って。いっつもそういうこと感じるわけじゃないらしいんだけど・・・・・・」
「藤巻って霊感でもあんのか?」
「知らないよ、そんなの。でも」
「でも?」
「そのことで何か千代乃、変に思い詰めちゃってるみたいで。そういうとこあるんだよね、千代乃って。普段結構冷めてたりするのに、いったん思い込み始めるととことんまでいっちゃうような。だから、行き過ぎちゃう前に気分転換でも何かないかなぁって思って」
「そういうことか」
「そーゆーコト」
 駅の自動改札を抜けると今村は振り返り、
「まあ、そのときは声、掛けろよ」
「頼むね、じゃ」
「じゃあな」
 孝子は上りホームへ、今村は下りホームへとそれぞれ降りていった。

 今村は片瀬江ノ島駅で降りると、乗り換えるモノレールの駅の方へと歩き出した。相変わらずの強い海風に煽られながら、店じまいを始めた観光客相手の土産屋が立ち並ぶ薄暗い通りを抜けて横断歩道を渡ろうとしたとき、見覚えのある影が今村の前を横切った。
「藤巻?」
 振り返った顔は、やはり千代乃だった。
「あ、今村くんか」
 そう応えてきた千代乃の声は、普段時折聴く声色よりずっとのんびりとしていて、今村は何となく違和感を覚えた。
「今、帰り? 遅いんだね」
「部活。でもいつもより早いんだぜ、これでも。それよりおまえ、どうしてこんなとこにいるんだ?」
「ん、江ノ島にね、寄り道してたの」
「昼で帰ったんじゃなかったっけか、おまえ?」
「ん? まあ、そうだけど。今日は、ね・・・・・・」
応えになっていないような曖昧な返事を返すと、千代乃はそのまま黙ってしまった。
 横断歩道を渡ればすぐモノレールの駅がある。信号が青に変わって二人して渡ると、改札までの長い階段を上り始めた。
「藤巻ってもしかして、よく来るわけ? こっち」
「うん、前にね、おばあちゃんがこっちに住んでたの」
「どこ?」
「ほら、モノレールの####駅ってあるじゃない、ここから三つ目の。そこ」
「何だ、俺、その手前だよ、住んでんの」
「そうなの? 知らなかった。いいなぁ」
「何言ってんだよ、面倒臭いぜ、学校遠いしな」
「そうとも言えるよね、確かに。うん」
 二階分はゆうにあると思える長い階段を上がり切って辿り着いたホームには、誰もいなかった。今村は壁に囲まれたホームの中程に置いてあるベンチに座ると、ようやく背中を押してくる強い海風から解放された。千代乃は立ったまま、腰のあたりまで伸びた髪を片手で抑えながら誰にともなしに言った。
「でも私、この辺り、好きなんだ」
 ベンチに座る今村の耳に、ようやく届くか届かないかの細い声だった。
「藤巻の家ってどこだったっけ?」
「私? 大船からもう一回乗り換えて三つ目。だから普通はね、逆方向。大学に行くときなんかは、ね」
「こんな遅くまで、江ノ島で何してたの?」
さっきから気にかかっていたことを尋ねた。
「別に・・・・・・ぼーっとしてただけ」
「ぼーっと、ねえ・・・・・・」
「そ。それだけ」
 千代乃はそこまで言うと、モノレールが来る方へと背を伸ばした。今村はその後ろ姿を眺めながら、帰りがけに交わした孝子との言葉を思い出していた。
 やがてすっかり暗くなった街中から姿を現したモノレールは、折り返し地点であるこのホームに滑り込むと、通勤客らしい疎らな人影を、二人が立つのとは反対側のホームへと吐き出していった。千代乃と今村は、三両しかない車両の真ん中に座った。
「藤巻って、いつも柏木といるよな」
「そうだね」
「仲、いいんだ」
「仲いいっていうか、気がついたらそうなってたって感じ、かな」
「ふぅん」
「今村くんって、孝子と同じラグビー部なんだっけ?」
「そうだよ、うちの学部ではあとマツが一緒だな」
「それだけだった? もっといるのかと思ってた」
「藤巻は部活、何やってんの?」
「私は何にも入ってない」
「へぇ、そうなんだ。昔っから?」
 他愛ないはずの今村の問いに、千代乃は微かに首を傾げ、僅かな間を置いてから応えた。
「ん・・・・・・、高校とか中学の頃は、水泳とか陸上とか、いろいろやってた」
「初耳。藤巻、運動できんの?」
千代乃がくすくすと笑い出した。
「何、それ。そんなに私って運動オンチに見える? 身体動かすの好きよ、私」
「オンチっていうのは大げさだけど。でも、いや、意外だったからさ」
「・・・・・・そう、だよね。時々言われるよ、大学入ってから。でも、好きよ、私。特に泳ぐのは」
 そう応えた千代乃の顔からは、もうさっきの笑い声は消えていた。そんな横顔は、今会話が途切れてしまったら降りるまでずっと黙り込んでいそうに、今村の眼には映った。
「珍しいな、そういうのも」
出来るだけ何気ない声でそう言うと、千代乃はまた少し首を傾げながら応えてきた。
「そうかな・・・・・・。でもね、私、昔から海、好きなんだ。だからかも知れない」
「それでよくこっち来んの?」
「そう、かな。あ、今村くん、次じゃない?」
「あ」
ちょうど二つ目のホームに滑り込んで、モノレールは止まった。
「それじゃ」
「おう、気をつけて帰れよ」
 締まったドアの向こうから千代乃が小さく手を振るのが見えた。そのまま暗闇へとモノレールが滑りだすのを見届けると、今村はカバンを肩に背負い直して階段を降り始めた。

 モノレールの終点の駅で降り、もう一度別の電車に乗り換えると、まだ千代乃が小学校六年生だった頃に新興住宅地として一斉に売りに出された住宅街の中央あたりに位置する、始点から数えて三つ目の駅で千代乃は下車した。そして、駅前の自転車置場から錆色の目立ち始めた自転車を引っ張り出すと、一つしかない改札口から四方八方に散ってゆく背広姿に混じって、改札口から真っ直ぐ東へ伸びるゆるやかな坂道を上り始めた。
 まったく同じ形をした幾つものマンションに囲まれた道をしばらく行くと、この住宅街を横断する街道との交差点に突き当たる。その横断歩道を渡った辺りから、道の両脇はマンションではなく、今度は似たような造りの屋根が隙間なく並び詰まった風景に変わっていく。その中に、このあたりでは珍しく雨戸を持たない家が一軒建っている。千代乃はその家の門をくぐると木製の重い玄関扉を開けた。
「ただいま」
 返事はないと分かっていても、とりあえず声に出して言ってみてから、まだどの部屋にも明かりの灯らない家に入り、玄関ホールの明かりをつけると、千代乃は荷物を持ったまま居間へと進んだ。そこで手探りで外灯のスイッチを探していると、
「千代乃?」
 いない筈の声に驚いて振り返ると、そこには母の顔があった。
「何だ、帰ってたの? 電気、どこもついてなかったから」
「今帰ったばっかりよ。今日、遅いんじゃない、ずいぶん」
「ちょっと」
「バイト?」
「ん・・・・・・」
 誤魔化してそのまま二階の自分の部屋へ行こうと身体の向きを変えかけた千代乃に、母が畳みかけて来た。
「大学生になったからって、あんまりバイトばかりに精出さないでよ」
「分かってる」
「じゃ、夕飯、まだなの?」
「昨日のシチュー、あっためるだけになってるから。それにご飯も今朝の残り、あるから」
「あ、そ」
 もうここ何年も家族揃って食事などしたことはなく、休日でさえも起きる時間はまちまちで、千代乃もいつの間にか作り置きしておける料理しか作らなくなっていた。たいていは昼間のうちに高校から戻った弟がまずバイトに出掛ける前に食べ、その後、千代乃、母、父、そして最後にバイトから戻った弟がもう一度、と、帰宅した順に食事をするのが常だった。今日はこの分だと千代乃が食べるのは一番最後、夜中あたりになりそうだった。恐らく、もうしばらくすれば父が戻るだろう。千代乃は、台所で母が鍋をかき回す音を確かめてから二階の自分の部屋へと上がっていった。

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