連載小説「潮の香りの中で」(2)

第2章

「早いね、千代乃。いつ来た?」
 昨日と同じソファーに座っている千代乃を見つけて孝子は声を掛けた。
「10分くらい前かな。孝子は?」
「ちょうど今来たとこ。相変わらず混んでるねぇ、ここは。千代乃探すのも大変だよ。昼は?」
「まだ」
「私も。ね、学茶行こ、あっちならまだ空いてるよ」
 昼休みともあって行き交う生徒で混み合う中庭を横切り、孝子と千代乃はホールがある第1棟の向かい側にある学生食堂の地下の学生喫茶へと降りていった。
 セルフ・サービスでそれぞれに注文を受け取って空いていた壁際の席に落ち着くと、孝子は千代乃のプレートを覗き込んで、
「千代乃、またそれ?」
「ん」
 そう言って千代乃は、注文したフルーツ・ヨーグルトをスプーンで掬うと、ゆっくりと口許へ運んだ。
「いつ見てもそんなのしか食べないんだから。ただでさえ痩せてんだから、もうちょっとましなもの食べなよ」
「食べる気、しないんだもの」
「家でもそうなワケ?」
「どうかな・・・」
 孝子は、曖昧にしか応えようとしない千代乃の顔を見やりながら言った。
「私なんか、食べなきゃやってらんないよ」
「だって孝子はラグビー部のマネージャーやってたりするんだから当然じゃない。私、違うもの」
「違うったって、普通に食べる量とも全然違ってると思うよ、千代乃の場合」
「そうかなぁ」
「食べるの、嫌いなの?」
「別にそんなつもりはないんだけど。でも、お腹がいっぱいになると全部吐き出したくは、なる」
 孝子は半ば呆れ顔で千代乃に言った。
「それって逆じゃない?」
「逆って?」
「普通、気持ち良くなって眠くなっちゃうとか、でしょ?」
「でも、私は違うみたい」
「吐き出したくなるって、どういう意味よ?」
「どう、って、そのまんまだけど」
「ほんとに吐いちゃうの、もしかして?」
 千代乃はそれに返事をせず、黙って銀のスプーンを眺めていた。
「何で?」
「何でって・・・・・・。ねぇ、それより孝子、冷めちゃうよ、それ。いいの?」
「あ、食べる、食べる。私はちゃんと食べますよ」
 孝子は勢いよく目の前のスパゲティーを一口頬張ると、また聞いてきた。
「ねぇ、さっきの、どういうこと?」
「そんな、改めて聞かれても困るんだけど」
「ねぇ、教えてよ」
「だから・・・・・・何ていうのかな、こう、お腹が膨らんでくると、異物が詰まってるような気分になっちゃって、たまらなくなるのよ」
 それだけ言うと、千代乃はもう孝子と向き合おうともせず、窓の外へぼんやりと視線を外した。
「千代乃」
もう一度孝子が声を掛ける。
「千代乃」
「何?」
「異常だよ、千代乃」
「何よ、もう、唐突に。どうしたの、孝子?」
苦笑いで受け流そうとする千代乃を突き放すようにして孝子は続けた。
「異常って言うの、そういうのは。どうかしてるよ」
「ちょっと、言い過ぎじゃない、それ」
「いや、言い過ぎじゃない! 千代乃、あんた、自分に対して無関心すぎない? 自分を全然大事にしないっていうかさ」
「・・・・・・」
「いつか言おうと思ってたんだけどね、私が知ってる限りでも二年だよ、二年。絶対おかしい、その食べ方」
「・・・・・・」
「いつから?」
「何が?」
「だから吐いたり、こんだけしか食べなかったりするようになったのって」
「いつからって・・・・・・。覚えてないよ、そんなこと」
「どうして覚えてないのよ、大事なことでしょ」
「孝子がムキになることないじゃない」
「ムキになって何が悪いのよ。私はあんたのこと友達だと思ってんの。友達が友達の心配して何が悪いの? 千代乃こそおかしいよ、よくそんな冷静でいられるね!いい? 千代乃みたいなのはね、拒食症って言うの!」
 孝子は突きつけるように千代乃に言い放った。
「・・・・・・そんなつもり、ないよ、私」
「ツモリがないのは千代乃だけだよ!」
「孝子、ね、もう止めようよ」
「止めようじゃないよ、千代乃、自分の身体のことなんだよ」
「分かったから、ね、そんな怒鳴らなくったっていいじゃない」
「怒鳴りたくなるのよ! だって」
「だって?」
「そうやって心病んでって、ぼろぼろになって、最後黙って自殺してっちゃった友達が過去にいたら、誰だって心配するわよ!」
「・・・」
「あ・・・」
「・・・・・・分かったから、ね、だから止めよう。みんな見てる」
 千代乃のその言葉で、孝子はようやく周囲の視線に気がついて俯くと、スパゲティーの続きを食べ始めた。千代乃はそんな孝子の様子を、器の中のヨーグルトをスプーンでかきまぜたり掬ったりしながらしばらく眺めていた。
「そういえば、昨日、あの人に会ったよ、ほら」
「誰?」
「今村くん。あの人、鎌倉に住んでるんだってね」
「そうだけど、どこで会ったの?」
「え? あ、江ノ島にね、昨日寄ったんだ、私。それで」
 話題を変えようとして話し出したものの、また孝子が突っ込みたくなるような話を出してしまったことを千代乃はすぐに後悔した。
「千代乃、そんな遅くまでそこにいたの?」
「ん・・・・・・、ぼーっとしてたら、ね、そうなっちゃった」
「ぼーっとしてたらって、あんた、そんな・・・・・・」
 孝子はそれ以上続ける言葉が見つからなくて、目の前の千代乃を呆けたように眺めた。
「もう、いい。で、どうしたの?」
「え? どうしたって?」
「会ったんでしょ、今ちゃんと」
「それだけだけど?」
「せっかくなんだから、ちゃんと話せばいいのに」
「別に、話すことなんかないもの」
 千代乃はそう言ってまた手元のヨーグルトの器の中に視線を戻してしまった。孝子はそんな千代乃の器の中身がまだ半分も減っていないことを見ながら言った。
「そーですか。どうせ千代乃はお喋りな私とは違いますからネ。いいけど。でも、今ちゃん、いいヤツだよ」
「そうだね、そんな感じした」
「あ、それで思い出した」
「何?」
「マツがね、西美のノート、欲しいんだって」
「松木くんて、西美の講義、とってたっけ?」
「ううん、マツはとってない。じゃなくて、亮ちゃんと和歌子、あの二人がとってんだって」
「ああ、二人の分ね。いいよ、分かった」
「サンキュ! そのお礼にマツがおごってくれるってさ」
「いいわよ、そんなの」
「いいでしょ、それとも千代乃、あんた、みんなでお茶すんのもイヤだっての?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃ、いいじゃない。たまには付き合いなさいよ、ね?」
「・・・・・・」
「ほら、早く食べてよ、そのくらいじゃいくら千代乃のお腹でもいっぱいにはならないでしょ。かき回してたって減らないんだからね。もう昼休み、終わっちゃうよ」
「あ、ごめん」
 千代乃はまだ三分の一ほど残っていたヨーグルトをようやく食べ終えると、先に立ち上がった孝子の後をついて教室へと上がっていった。

 廊下へ続くドアを締めてデスク・ライトの小さな明かりだけの部屋に籠もっていると、二階の一番奥に位置する千代乃の部屋には、誰が帰って来たのかなど確かめられるほどの物音もほとんど伝わってこない。千代乃もわざわざ部屋を出て確かめようとはしないせいか、その日、帰りがけに立ち寄った駅前の本屋で買った文庫本を読みふけっていたら、いつの間にか父も母も帰宅していた。
 階段を昇り降りする足音に気づいてようやく手元の本を閉じると、千代乃は吸いかけた煙草を消して廊下へ出た。階段を降りたところで母と鉢合わせると、
「何、帰ってたの?」
 母の声が降ってきた。
「ん、だいぶ前」
「電気もついてないから、またバイトかと思ってたわ」
「本、読んでたから」
「電気ぐらいつけなさいよ、ちゃんと」
「・・・ん。真人はまたバイト?」
「そうじゃないの? 知らないけど。ねぇ、あんた、また煙草吸ってたの?」
 父も母も煙草を吸わないせいか、すぐに匂いに気がつく。
「・・・・・・」
「いい加減に止めなさいよ。いい年した女の子が、みっともない」
「・・・・・・」
「近所の人に見られたら何言われるか分かんないでしょ、止めてよね」
「あ、ねぇ」
 言うだけ言ってさっさと自分の寝室へと入ろうとする母を、千代乃は咄嗟に呼び止めていた。
「何?」
 振り返った母の顔を見た途端、千代乃は何を言っても撥ねつけられそうな気がして、言いかけた言葉を丸ごと呑み込んでしまった。
「・・・・・・何でもない」
「変な子」
 母はそれだけ言うと、部屋の扉をさっさと締めてしまった。
 父はもう母より先に寝室へ入ってしまっていたのだろう。今も食堂も明かりは消えていた。
 千代乃は、居間のテレビの上に置かれた時計で弟の真人が帰ってくるにはまだ一時間以上はあることを確かめると、台所へ入っていった。大根と挽き肉の煮物が詰まった鍋の蓋を開けて適当によそり、テーブルへ運ぶ。千代乃はその皿の中身を見つめながら、さっき母に言い損ねた言葉を喉元で転がしてみた。
 本当に梅の木、抜いちゃうの?
 一昨日の母の言葉を聞いて以来、気になり続けているそのことを、今日こそ確かめる筈だった。そのつもりで読みかけの本も途中で閉じて降りてきたのだったが、やっぱり今日も母を前にすると喉が詰まってしまって結局声にすることは出来なかった。そう聞くことは大したことではないと思う。けれど、母にどうしてと尋ね返されたとき、答えになるような言葉を自分が持っていないことが、千代乃の喉をいつも塞いでしまうのだ。
 千代乃はまた台所へ引き返すと、今度は冷蔵庫を開けて、いつも弟の間食用に買い込んでおくプリンやら菓子パンやらのうちから幾つかを取り出すと、煮物をよそった皿の隣に放って、いきなり食べ始めた。
 三つの菓子パンはあっという間になくなり、その合間合間に、脇に置いたお茶を飲みながら、千代乃は正面の皿から煮物も次々口に運んだ。あまりたくさん食べてしまって急に冷蔵庫の中身が減っていても困るので、プリンは一つきりで止めると、最後にもう一杯お茶を飲んだ。
 一息つくと千代乃は席を立って、いきなり家族の誰かが現れてこの有り様を見られても困らないように、テーブルに煮物の皿だけを残して菓子パンの袋やプリンのカップを片付け始めた。ゴミ出しは時々母や弟に頼んだりもするから、中身が出たり決してしないように、ビニールで二重にし口をきっちり結ぶと、台所の裏口のすぐ外に置いてあるゴミバケツの中に放り込んだ。
 捨て残しがないことをもう一度確かめると、千代乃は居間を通り抜け、母と父の寝室の脇から階段を上がり、二階の洗面所の扉を締める。
 モスグリーンの床の色の中でぽっかりそこだけ浮いているように見える白い便器の前に屈み込むと、千代乃は長い指を喉の奥へと思いっ切り突っ込んだ。
 食べたばかりのものが、胃から食堂を逆流して白い便器の中に落ちてゆく。パンの形も大根の形も齧った大きさのまま、きれいに飛び出して来る。千代乃は、食べたものが流れ出やすいように途中で水を胃に流し込みながら、どんどん吐いてゆく。
 胃がせり上がるほど吐いて胃の辺りの皮がぺたんと背中の方へ引っ付くほどになると、千代乃はようやく吐くことを止め、トイレの水を流して洗面台で顔を洗った。そして、耳を澄ましてトイレの外に誰もいないことを確かめてからドアを開けると、千代乃は、テーブルに置き放しにしてある皿を片付けるため、もう一度忍び足で階下へと降りていった。

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