連載小説「潮の香りの中で」(3)

第3章

 七月に入って学生ホールに前期末テストの時間割が発表されると、校内の雰囲気はまたたくまにテスト一色に染まっていく。掲示板の前に群がる生徒をソファーに座って眺めていると、なんだか巣に向かって一心に餌を運んでゆく蟻の行列でも見ているようだ。千代乃は、さっきから隣でラグビー部の合宿予定をチェックしている孝子の肩を小突くと、
「ねぇ、まだ終わんないの?」
「もうちょっと」
「・・・・・・マネージャーも大変だね、全く」
「ほんと、大変」
 生返事でひたすら予定の確認を続けている孝子の横顔に向かって小さくため息をつくと、千代乃はしぶしぶ立ち上がって肩越しに声を掛けた。
「私、先行ってるよ、次、西美だから」
「あ」
 孝子はようやくノートに埋めていた顔を上げた。
「思い出した? ノート頼んだのは孝子の方なんだからね」
「すっかり忘れてた。先行って、ごめん」
「もう、無責任なヤツ。じゃあね」
 すぐ行くからと手を振る孝子を残してホールを出ると、千代乃は三階までの階段を一気に駆け昇った。階段口から三つ目の講義室の入口に生徒がたむろしているところを見ると、まだ教授は来ていないらしい。千代乃はほっと一息つくと、よれたブラウスの袖を直そうと手を伸ばした。
「すんけえ勢いだな」
 その声に驚いて振り返ると、今村が真後ろに立っていた。
「あ」
「三年になってまで、授業のために三階まで一気に駆け上がるヤツなんていまどきいないぞ」
「・・・・・・見てたの?」
「バッチリ」
「声、掛けてくれればいいのに。ヒトが悪い・・・・・・」
「声なんか掛けられるような雰囲気じゃなかったぜ。全部一段抜かしだもんな」
 テスト前ということもあって、始業のベルが鳴ってからもう一五分は過ぎたというのにまだ階段を昇ってくる生徒がいる。それを避けるため階段の手すり側へと身を寄せた千代乃と今村の前を、数人の生徒がまた通り過ぎていった。
「今村くんも西美とってたっけ?」
「いや、俺はその奥」
 そういって今村は千代乃が入ろうとしている教室のもう一つ奥を指さした。
「東美」
「そうなんだ・・・・・・あ、教授来ちゃった。それじゃ」
「おう」

 西美の授業が終わると、千代乃は結局講義に出て来なかった孝子を探しにホールへと戻った。まだ混み合っている掲示板の前を通り抜けてさっきいた場所へ目をやると、孝子はソファーにもたれ掛かって煙草を吸っているところだった。
「孝子」
「あー、千代乃、ごめーん」
 かったるそうに返事をする孝子の隣に座って、千代乃も煙草を取り出した。
「来るって言ったクセに」
「なんか急に面倒臭くなっちゃって。やめた」
「はい、ノート。今日の分まででいいんでしょ?」
「うん、さんきゅっ!」
「自分の分もコピーとっといた方がいいよ、西美、来週は休講だって」
「そうなの? じゃ、もしかして今日」
「そ、テストの予告もした。ちゃんと書いといたわよ、まったく」
「感謝してます、ね、この通り」
「拝まれたって全然嬉しくない」
「じゃ、おごる。明日午前中で終わりでしょ、昼でいい?」
「そんなのはいいから。それよりそのノート、プリントが幾つか挟んであるからなくさないでよ」
「分かった、じゃ、明日ね」
「頑張ってね、マネージャー」
「ん」
 ホールを出たところで千代乃と分かれると、孝子は中庭を通って学食の裏手へと回った。そこに建っている二階建ての建物が体育会系の部室に当てられている。ラグビー部の部室は二階の角部屋で、階段を上がって一番手前に位置している。今年の夏の合宿予定表を手に孝子が部室の扉を開けると、もう何人かたむろしているメンバーの中に、松木の顔を見つけた。
「マツ、またお待ちかねのテストがきたねェ」
「おうよ、参ったぜ、今回の時間割。孝子、もう見た?」
「まだ。今日なんかもう、ゴミみたいに人が群れてるんだもん。あれじゃ見ようにも見えないよ」
「三日目に集中してるぞ、今回。美学と仏語と博物館学に考古学。たまんねぇよ、これ。しかも三日目だぜ」
「あ、私、博物館学も考古学もナシ」
「え、孝子とってなかったっけ?」
「とってないよ。私、学芸員なんて資格いらないもん」
「マジかよ、じゃ、俺だけ?」
「そういうこと。三年になってまで大変だね、テストがたーくさんあって。頑張れヨ」
「ったくなぁ。あーあ、そろそろまたノート集め始めなきゃな。孝子、いつもの美学と心理の分、頼むな」
「そう、それ」
「ノート?」
「西美のノート、借りて来たよ、ほら」
「お、サンキュー」
「お礼は千代乃に言って。で、明日おごりね、昼」
「ほんとに俺のおごりかよ」
「もう言っちゃった、千代乃に」
 また扉が開いて部員が入ってきた。そろそろ練習が始まる時刻ということもあり、部室に荷物を置くと、一、二年の部員が次々に着替えにロッカー室へと消えていく。
「私もそろそろグランド出なくちゃ」
「だな、俺も行くわ」
「今ちゃんにも言っといてよ」
「分かった、明日の昼だろ? どこ?」
「どうしようか、どこがいい?」
「いつもんとこでいいんじゃないの?」
「だね、私と千代乃、午前中講義一緒だから、それ終わったら行くわ」
「俺らも適当に行ってるよ」
「じゃ、そういうことで」
 そういって立ち上がると、孝子はちょうどやって来た二年のマネージャーと更衣室へ入っていった。

 「千代乃」
 階段の下から母が呼ぶ声が聞こえて降りていくと、
「ちょっと手伝ってよ」
「何?」
 珍しく仕事から早く戻った母はもう部屋着に着替えており、軍手をはめた手にはスコップを持っていた。
「何すんの? それ」
「ほら、梅の木。枯れてるって言ったでしょ」
「もしかして、抜いちゃうの? 今日?」
「あんたが枯れてるって言ったんじゃないの。あんまり長く放っといてもしょうがないじゃない」
「だってあれは」
「何?」
 あれはおばあちゃんの木なんだ、と言いかけて千代乃は詰まってしまった。そんな子供染みた言い訳が通るわけがない。そう思えば思うほど、声にならないその声が、千代乃の喉の奥で暴れている。
「ほら、さっさと手伝ってよ」
「今日は止めよ」
「え、何で?」
「もう外、暗いよ」
「門灯つけてあれば見えるでしょ、ほら、こんなに早く帰って来れる日なんて、そうそうないんだから」
「でも私、今日、具合悪いから」
「何、生理?」
「・・・・・・今日はちょっと、だから」
 母はいったん手に持っていたスコップと軍手を床に置くと、千代乃の顔を覗き上げるようにして尋ねた。
「ねぇ、あんた今、生理ちゃんと来てるの?」
「何よ、急に」
「だって、前、あんなことあったしね」
「あんなことって?」
「生理来ないから病院行きたいとか言ったじゃない、突然」
「だってしょうがないでしょ、あれは。学校で言われたんだもの、一年も生理が来ないなんておかしいって。でも結局行かなかったじゃない」
「そうだけど」
「いまさらそんな話、持ち出さないでよ」
「でも、もうちゃんと来てるんならいいじゃないの」
「ひとが一緒に行ってほしいって言ったときは撥ねつけといて、よくそういう言い方できるよね」
「考えてもごらんなさいよ、年頃の娘が産婦人科に出入りなんてしてごらん? 近所の人になんて言われるか。みっともないだけじゃないの」
「みっともない、みっともないってもう止めてよ。だから行かなかったでしょ、もうそれでいいじゃないの」
「あんた、何イライラしてんの? おかしいんじゃない?」
「・・・・・・母さんがそんなこと持ち出すからでしょ」
「別にあったことをそのまま言ってるだけよ、私は」
「・・・・・・」
「もういいわ、今日は。私一人じゃ、あれ引き抜くの無理だもの」
 母はそう言いながら階段のすぐ脇にある納戸にスコップを仕舞い込むと、クルリと千代乃に背を向けて居間へと入っていった。しばらくその場に立ち尽くしていた千代乃も、さっき降りてきた階段を上がって部屋のドアを締めると、そのまま床にうずくまった。短い絨毯の毛を指先で弄びながら、さっきの母の言葉で不用意に引っぱり出された忘れていたはずの記憶を持て余している自分の膝を抱き寄せた。
 あの木をまだなくしたくないだけで咄嗟に口走ってしまったが、生理など今だって来ていやしなかった。生理が止まったのは、確か、一人きりの食事の後に吐くということを覚えてしばらくしてからだったような気がする。気づいたら来なくなっていた。そもそも吐くようになったのは何故だったろう。記憶というものは辿ろうとすればするほど霞がかかって曖昧になってゆく。千代乃は膝を抱いたまま床に転がると、太股を伝って耳の内側から振動してくる自分の鼓動の音にじっと耳を澄ました。
 もし今、吐かずにはいられないんだと言ったら、それとももし今も生理など来てはいないと告げたら、今度は母もちゃんとこっちを向いてくれるのだろうか。そんな答えのない問いかけが、千代乃の体の中をぐるぐると駆け巡っていった。

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