連載小説「潮の香りの中で」(4)

第4章

「今度も美学と心理のノート、お願い」
 テスト前ということもあって早目に終わった二限の講義室を出ると、孝子と千代乃はいったんホールへ行き、テストの時間割を写してから校舎を出た。
 足元から伸びる黒く短い影は、二人の歩調に合わせて重なったり離れたりしながらついてくる。
「美学と心理、ね。じゃ、週明けでもいい? 心理、今作り直してるところだから」
「また?」
「ん。月曜には渡せると思う。間に合うでしょ、テスト、水曜からだし、心理は五日目だから」
「充分。でも、この年になってまでまだそんな真面目にやってるのは、きっと千代乃ぐらいだよ」
「いいじゃない、別に」
 踏切を渡ってすぐの角を右に曲がり三軒目の地下へ降りる階段を、孝子は先に立って降りていった。
「まだ、みたいだね」
 そう言ってガラス戸を押すと把手にかけられていたベルが涼しい音を立てた。窓際の席へ座る孝子に続いて、千代乃もその隣に座った。店の入口に取り付けられたクーラーから冷気がちょうどいい具合に降りてくる。孝子は汗ばんだ背中に冷気が通りやすいようシャツの襟首を摘んだ。
「汗びっしょり」
「今年、暑くなるのがいつもよりだいぶ早いよね」
「ほんと、今からこんなんじゃ、先が思いやられる」
「今年も夏中部活あるんでしょ?」
「いいよねぇ、千代乃は、その点。でも、いっつも何してんの?」
「何、してんのかな・・・・・・」
 横から覗き込むように見つめてくる孝子の視線を避けて、千代乃は鞄から煙草を一本取り出すと、唇に挟んで火を付けた。
「まさか、ずっと家に閉じこもってるってわけじゃないでしょ?」
「まさか。そんなんじゃないけど・・・・・・」
 それだけ言うと、千代乃は煙草の煙を細長く吐き出した。
 孝子はそれを見て、話を逸らした。
「それにしてもさ、千代乃って、汗ほとんどかかないよね」
「そういえばそうだね。どうしてかな。小さい頃は汗っかきだったように思うんだけど」
「羨ましい。私なんか人一倍汗っかきだから大変よ。母さんなんて、あんたのおかげで毎日毎日洗濯物が山積みだって、もう、うるさい、うるさい」
 眉をしかめて大仰に母親を真似てみせているつもりの孝子の様子に千代乃は、
「しょうがないじゃないねぇ、こればっかりは」
と、苦笑いしながら応えた。
「でしょ? なのに、いい加減にして! とか怒鳴っちゃって。こっちだって好きでそうしてるわけじゃないのに」
「でも、私も水泳やめる前はそうだったかな、考えてみると」
「え、千代乃、水泳なんてやってたの?」
「あれ、言わなかったっけ。高校二年の頃までやってたのよ。最近はもう全然だけど」
「何で?」
「何が?」
「何でやめたの?」
 また客が来たことを告げる戸口のベルが響くと、ちょうど松木と今村が入って来るところだった。孝子が手を上げると、二人は大きな体をゆするようにして席についた。
「注文した?」
「まだ。こっちもさっき来たばっかり」
「決まってる? 俺たち日替わり」
「私も日替わり。千代乃は?」
「あ」
「まだ決めてない? ねぇ、飲み物だけとかやめてよ」
「藤巻、食って来たの?」
「え、あの、まだだけど」
 千代乃は前の二人に見えないようにテーブルの影で孝子の肘をつつくと、
「暑いのって苦手で。私、これにする」
 そう言ってメニューにあるツナサンドを指さした。孝子はわさとらしく肩をすくめてからウェイトレスを呼ぶと、四人分の注文を告げた。
「ノート、サンキュ」
「ん」
 手に持っていたノートを千代乃に渡すと、松木は孝子へコピーの一部を渡した。
「全部あるだろ、プリント。一応数えておいたけど」
「大丈夫、全部ある」
 ノートに挟んであるプリントの数を確認している千代乃の隣で、孝子は受け取ったコピーの束を半分に折りながら、
「いつもいつも悪いね」
「何言ってんの、いまさら」
「あ、マツ、言っとくけど、いつも渡してる心理と美学のコピーも千代乃のだからね」
「そうだったの?」
「何、孝子、私のノートそんなにいっぱい回してたの?」
「俺、てっきり孝子のだと思ってた」
「マツとか今ちゃんとか、うちの部のヤツにだけだよ。だから言ったじゃない、私が真面目にノートとってるわけがないって」
「三限も途中で抜けてっちゃうものね、練習前の準備があるからって」
「去年まではホント、そのせいでしんどかった。般教が多かったしね。今はもう後輩に任せられる立場になったからいいけど。そもそも練習の始まる時間が授業の最中ってのがおかしいんだよ」
「だからか、この前、藤巻が走ってたの」
「え?」
 店内はいつのまにか満席になっている。どこのテーブルでも時間割やらノート交換やらでにぎわっている。
「何、それ? いつのことよ、今ちゃん?」
「この前、テスト前だから久々に東美の授業にでも出ようと思って階段上がってたら、藤巻が目の前ダーッと突っ走ってくんだよ」
「ちょっと、やめてよ」
「それも三階まで一気だぜ」
「ちょっと、今村くん」
 話を止めようとする千代乃を遮って、孝子は、
「いーっつもそうなのよ、この子。サボること知らないんだから」
「あのときはだって、孝子のせいで遅れたんだよ。ヒトにノート頼んだクセに」
「あ、あのときか」
「そうよ、それに私だってサボるとき、あるわよ」
「たまにでしょ。いっつも前の方に座っちゃって。千代乃と一緒のおかげで、かわいそうに、私は居眠りもできない」
「してるじゃない、堂々と」
「うまく隠れてするのも一苦労なんだよ」
 千代乃が呆れて黙り込むと、今村が笑いを堪えながら言った。
「それで藤巻、いっつもノート係にされてるんだ」
「・・・・・・」
「でも、結構サマになってたぜ」
「何が?」
「走るのがさ。昔、陸上やってたっていうだけあるよな。結構いい線いってたんじゃないの? やってた頃は」
「ちょっと、千代乃。陸上もやってたの?」
「へぇ、藤巻が陸上ねぇ」
「・・・・・・ねぇ、何で私の話になるのよ」
 そう言ってまた煙草に火をつけようとしている千代乃の横で、
「千代乃がそういうこと全然話してくんないからじゃん」
「別にわざわざ話すことでもないじゃない」
「隠すことでもないと思うよ、そういうことって」
 ウェイトレスが千代乃の頼んだツナサンドを運んできた。表面に焼き跡をつけられたパンは皿の上で四つに切り分けられ、香ばしいバターの香りがふわりと漂っている。三人の分はまだ作っている最中らしい。それだけ運ぶと、ウェイトレスはさっさと奥へ戻っていってしまった。
「ちゃんと食べなよ、今日は」
 手をつけようとしない千代乃にすかさず孝子がそう言った。
「孝子、何か今日、やけに私に突っかかってない?」
「別にぃ。そんなつもりはありませんヨ」
 千代乃はどう見てもいつもより自分の敵愾心を煽ろうとしているようにしか見えない孝子の横顔をちらっと見るだけ見ると、黙って眼を伏せた。
「それにしても変な組み合わせだよな、やっぱり」
 松木のその言葉に、千代乃と孝子は顔を見合わせた。
「今度漫才でもやってみたら、二人で」
「何言ってんのよ、マツ。この真面目な私に向かって」
 その孝子の言い方に千代乃は吹き出して、
「真面目って一体誰のこと言ってんの?」
「ちょっと、千代乃までそういうこと言うワケ?」
「ほらほら、来たよ、孝子たちの分も」
 三人が頼んだ日替わりのハンバーグ・ランチとサラダの小皿が運ばれて、テーブルはいっぱいになってしまった。クーラーは相変わらず低い回転音を鳴らしながら回り続けている。松木と今村は早速、目の前に運ばれたハンバーグを頬張り始めた。
 瞬く間に皿の上のものをたいらげてしまった今村が、まだ半分もサンドウィッチを食べ終えていない千代乃に声をかけた。
「藤巻って、いっつも何やってんの?」
「何って・・・そう改めて聞かれても・・・」
「そうそう、今ちゃん、言ってやって、千代乃に」
 急に孝子は身を乗り出すようにして言った。
「私が言ったってダメなんだから、千代乃」
「別にそんな、変なことしてないわよ、私は」
「逆に何にもしてなさすぎるんだよ、千代乃は。ねぇ、何でやめちゃったの、水泳も陸上も、どうして?」
「いいじゃない。そんなこと」
「そりゃ、水泳でも陸上でもなくったっていいけど、あんた、何にも部活入ってないでしょ、昔は結構やってたみたいなのに。もったいないじゃん」
「別に大した理由なんかないって。ただやめちゃったってっだけよ」
「じゃ、何?」
「何って?」
「何やってんの、毎日毎日」
「しつこいなぁ、どうしたの、孝子。今日、変じゃない?」
 そう言って千代乃は視線をテーブルの端へずらした。それに構わず孝子がまた言い始める。
「笑ってないで教えてったら」
「笑ってなんかいないわよ」
「まさか、毎日江ノ島行ってボケーッとしてるわけじゃないんでしょう?」
「してないわよ、そんな」
「そんなにしょっちゅう行ってるわけ、江ノ島に」
「だから、そんなに行ってないってば」
「私とかから見ればしょっちゅうだよ。でなきゃ、そのまんま家、でしょ?」
「当たり前じゃない、家に帰るのは」
「やっぱ、変だよー、千代乃は」
「変なのは孝子だよ、何か今日、妙にしつこくない?」
 さっき一口食べたままのツナサンドを口へ持ち上げると、もうだいぶパンは冷めていて、さっき千代乃の鼻孔をくすぐってきたバターの香りはすっかり消えてしまっていた。その代わり齧った途端、濃厚なバターの味が口中に広がった。
「何してんの?」
 パンの端っこを持ち上げて中身を確かめるように覗き込んでいる千代乃の脇から、孝子が声を掛けた。
「いや、バターの味がやけに強いなと思って」
 持ち上げたパンの裏側には、ツナに絡めたマヨネーズとマスタードをはじくほどにたっぷりとバターが塗ってあった。ぱさついて食べにくいパンへの工夫なのかも知れない。
 それを見て孝子は、
「具、多いでしょ、ここの」
「ん、多いね、はみ出そう」
「食べがいあるんだよね、だから」
「そう、だから?」
「それだけ」
 そう言って孝子はペロッと舌を出した。
「あー、食った食った」
「マツ、その食べ終えるとお腹叩くクセ、やめてくんない?」
「でも今日の、ちょっといつもより量が少なかったよな」
「そうかな、私、気づかなかったけど」
「お前、大盛りって言わなかっただろ」
「言わなかったか、俺?」
「それじゃ、少ないに決まってんじゃん」
 言ったつもりだったんだけどなぁと、三人の前で頭を掻いてみせる松木に、千代乃は咄嗟に声を掛けていた。
「ねぇ、松木くん、このツナサンド、食べない?」
「千代乃」
 孝子が遮る。当然だろう、四人の皿のうち最も小さいのが千代乃の皿で、その上いまだ半分しか口をつけていない。
「ちょっと、千代乃」
だんだん尖ってくる孝子の声を聞き流すように、
「いいの、いいの、こっちの二つ、まだ手ェつけてないから、よかったら食べて」
と、千代乃は言った。
「ラッキー、もーらい」
「千代乃、それぐらい自分で食べなよ」
「いいじゃない、私、もうお腹いっぱいなんだもん」
「マツ、待ってよ」
 孝子が止めにかかる前に、松木はもう皿に手を伸ばしてツナサンドを口に放り込んでしまった。そんな松木を孝子がにらみつけると、
「いいじゃん、藤巻、いらないんだろ?」
「ん、いいの、いいの、食べて」
 孝子はわざとらしいくらい大きな溜め息をつきながら言った。
「もういいじゃないよ、あんた、いっつも食べないんだから」
「藤巻って小食?」
「そうだね、あんまり食べない」
「へぇ、孝子と正反対じゃん、な、孝子」
「何言ってんのよ、そんなもんじゃないの、千代乃の場合は。もう、小食なんてもんじゃない、学食でだっていっつもヨーグルトぐらいしか食べないんだから」
「それでよく足りるな」
「ん……そうね、私は孝子みたいに動き回ってないから、お腹が空かないだけよ」
「それとこれとは別!」
「別じゃないでしょ、全然」
「いいんじゃないの、それが普通なんだろ、藤巻は」
 今村が声を挟まなかったら、延々と続いていたかもしれない。孝子と千代乃は隣り合いながら、自然視線を逸らした。千代乃の皿の上の一切れも、もう松木の口の中に運ばれ、全ての皿が空っぽになった。
 今村と千代乃が、重なるようにして煙草を吸い始める。
「でもさ、今ちゃんだって、毎日毎日これっぽっちしか食べない千代乃を前にしてたら、いい加減心配になると思うよ、絶対」
「いいわよ、心配なんて」
「煙草なんか吸ってる場合じゃないでしょ」
 避けても視界の端に入ってくる孝子の横顔は、半ばふくれっ面をしている。
「でも煙草、好きなんだもの」
「そういうことじゃなくって」
「ん?」
 千代乃には、孝子の言いたいのだろう事はもう伝わっている気がした。でも、今は孝子と二人きりではないのだ。だから、とぼけてやり過ごしたかった。なのに孝子は誰の前だろうと、もう言わずにはいられなくなっているようだった。それが千代乃にも分かっていた。
「どんどんさ、そうやってガリになっちゃって、それ以上さらに痩せたらどうすんの?」
「どうするも何も・・・・・・でも、私、体重あんまり変わってないよ」
 それまで黙っていた松木がふと口を挟む。
「孝子ってさ、かなりのお節介だよな」
「それは言える」
「何よ」
「部でもサ、こいつ、後輩のマネージャーのすることなすこと、逐一口出さないと気ィ済まないの」
 今村と松木がくすくす笑っている。ようやくへこみ始めていた孝子の頬がまた、少し膨らんでくる。
「冷静なときは冷静なんだけど、一度熱くなっちゃうともう止まんないようなトコがあるんだよね」
「そうそう」
「でさ、負けん気強いから、相手が先輩だろうが何だろうが、自分が納得できないと食ってかかるからな、こいつ。見ててヒヤヒヤするよ」
「それこそ余計なお世話ですよ」
「あ、そうかよ」
「そうですヨ、何よ、三人して」
「黙ってれば、カッコイイお姉ちゃんに見えるんだけどなぁ、孝子って」
「勝手に言っててよ、もう」
「でも、藤巻もわりと年上に見られたりする方なんじゃないの?」
「だよな、今日話すまで、藤巻がこんなに喋るヤツとは思わんかったぜ、俺」
「そうかな・・・・・・」
「それに、孝子との掛け合いは結構笑える」
「それこそ勝手にやってろって感じ」
 今村と松木が笑い出す。何となくどちらともなく視線を隣にずらすと、千代乃と孝子二人ともの視線がぶつかり合う。
「そう、かな」
「掛け合ってるわけじゃないわよ、千代乃がヒトの言うこと全然聞いてくれないからそうなっちゃうの」
「そんなことないじゃない、私、ちゃんと聞いてるよ」
 また始まりかけた孝子と千代乃のやりとりをよそに、今村が腕時計を見て立ち上がる。
「マツ、そろそろ行かないとまずいぜ」
「お、ヤベ!」
「何?」
「俺たち三限、期前テストなんだ」
「そうなの? 何だ、早く言ってくれればいいのに。大丈夫?」
「平気、平気。ノート持ち込み可だから」
「何だ」
「悪いな、先、行く」
「あ、ちょっと、今日のマツのおごりだからね」
「分かったよ、払っとけばいいんだろ、まったく」
「そんな、私、いいってば」
「じゃあな」
 松木と今村はそう言って、さっさと支払いを済ませると足早に店を出ていった。ふと辺りを見回すと、客はすっかり減っており、孝子と千代乃のほかには戸口側に三人の女の子が座っているだけだった。喋り続けていたところが不意に途切れ、まるでバランスの悪い沈黙が、千代乃と孝子のテーブルの辺りにだけ漂っているようだった。
「コーヒーでも、頼む?」
急に小さくなった声で孝子が呟く。
「そうしようか・・・・・・」
 ちょうどテーブルの皿を下げにやってきたウェイトレスにコーヒーを二つ注文すると、孝子は煙草を取り出した。それを孝子が吸い始めるのを待って、さっきから気になっていたことを千代乃が尋ねた。
「ね、孝子、今日はやけにからむね」
「・・・・・・」
「何か、あった?」
「別に。何にもない」
「ね、どうしたの?」
「・・・・・・あーーー、そういう顔しないでよ、謝る、ごめん、気に障ったよね」
「・・・いいよ、別に。もう気にしてないから」
視線をずらしてそれだけ言った千代乃の顔をちらと覗き見、孝子は小さく溜息をついた。
 店員が奥で洗い物を始めたらしく、水の流れる音がクーラーの音に重なって聞こえてくる。戸口の側に座っていた三人の女の子たちも席を立ち上がり、もう一人の店員に勘定を払って出ていくと、店内は急に広くなったように感じられる。二人の間に流れる軋んだ沈黙を払いのけるように、孝子が声を出した。
「最近は、さ、どうなの?」
 今度は孝子が尋ねてくる。
「何が?」
「変なのが見えるって言ってたじゃん」
「ああ、あれ? 孝子に言われた通りあんまり考えないようにしてますヨ」
「じゃ、まだ見えるんだ」
「見える・・・ってほどのものではなくなったけど」
「ね、さっきの今ちゃんとかマツにも見えた?」
「どういう意味、孝子」
「ね、どうだった?」
 持続できない苛立ちが千代乃の中で散らばっていく。そんなことに気づかずに千代乃の返事を待っている孝子の顔に、それをぶつけることはできなかった。
「ね?」
「・・・・・・気づかなかったよ」
「そっか。やっぱ、近くにいるヒトには見えないんだ」
「そういうのとも、違うような気がするけど・・・・・・」
「ふうん・・・。見えたり見えなかったり、よく分かんないね」
 孝子はひとりごとのようにそう言って、テーブルに頬杖をついた。
 散らばったままの苛立ちが、散らばったままで萎えていってしまうのを感じながら、千代乃は話題を逸らした。
「ねぇ、孝子は家、出たいと思ったことってない?」
 頬杖をずらして孝子が千代乃を見る。
「一人暮らしってコト? そりゃ思ったことはあるけど。でも、私の場合、今家出たって一人じゃまともにやってけそうにないな。毎日食事作って一人で食べるなんて、ちょっと、ね。部活から帰ったらもうそれでバタン・キュウって感じ」
「洗濯物も山積みだったりして?」
「きっとネ。そういうこと考えると、学生のうちは無理だなぁ。そもそも親が許さないよ、家、近いもん。家を出るにも理由がない」
「だネ」
「千代乃は?」
「私は、今すぐにでも出たい」
「千代乃こそ出ればいいのに。大学来るのだって二時間もかかるんでしょ。それに、千代乃だったら家事とか結構自分で出来ちゃいそうだし」
 テーブルに運ばれてきたコーヒーから立ちのぼる湯気が、クーラーの吹き出す風にさらわれてどんどんカップの外へと吹き流されてゆく。千代乃はまだ熱いコーヒーに口をつけた。
「なんか千代乃に似合いそうだよね、一人暮らしって。私なんかがしたいって言ったって、どうせみんなに鼻で笑われるだけだよ、きっと」
「そういうもん?」
「いいよなぁ、なんか、そういうのって」
「別に、いいとか悪いとかそういう問題じゃないと思うんだけど。……ただ、場所がほしいなぁ、って」
「場所?」
 思いつかなかった返事に驚いて孝子が聞き返す。
「そ。自分の帰れる場所が、ね」
「千代乃」
 隣に座る千代乃の伏せたまつげが微かに揺れている。孝子は横顔を向けたままの千代乃へと少し身体をずらして言った。
「ね、千代乃さ、バイトでもしたら? それでさっさとお金ためて、家、出ちゃえばいいんじゃない?」
「バイトねぇ・・・・・・」
 どこを見ているのか分からない千代乃の視線に構わず、孝子が続ける。
「いまどきバイトも何ンにもしてないのって千代乃くらいだよ。もし私が部活やってなかったら、今頃毎日バイト漬けになってるな、きっと」
「私も、高校のときはそうだったよ」
「そうなの?」
「ん。水泳と陸上と掛け持ちしてたから、その合間をぬって、ね。だから、今の孝子じゃないけど毎日忙しくしてたよ」
「初耳。じゃ、さ、何で? 何でやめたの?」
「うちの大学に、水泳部ないよ」
「陸上はあるじゃない。確かにもろに弱いけど」
「でしょ?」
「でもそれが理由ってわけじゃないでしょ。だって千代乃がやめたのって高校二年のときって言ってたじゃない、さっき」
「そうだけど。ねぇ、そんなに知りたいの? 別に孝子が期待してるような話じゃないわよ」
「知りたい。何で?」
 千代乃は溜め息まじりの声を出した。
「ホントにしつこいんから・・・・・・。だからね、私の母方の祖母が、もうずいぶん前から癌を患ってたの。私が高校二年のその時期に、ちょうど具合が悪くなって、世話する人が必要だったの」
 もうコーヒーが来てから何本目かの煙草に、千代乃はまた火を付けた。
「それでやめたの?」
「そ。だから言ったじゃない。期待してるような理由じゃないよって」
「そんなことはどうでもいいんだけど・・・・・・。でも、でもそういうのって、ふつう母親とかがするもんなんじゃない?」
 孝子は顔を合わせようとしない千代乃の横顔をじっと見つめたまま言った。
 それに構わず千代乃が応える。
「ふつうはそうなのかもね。でも、うちは共働きだし、それに私、小さい頃おばあちゃんと一緒に暮らしてたこともあったのよ」
「そうなの?」
「ん、小学校に入る前あたりだったかな」
「親は? 別々? じゃ、弟は? 弟、いたじゃない、千代乃」
「弟はね、小さかったから親と一緒だったよ。だから、そうね、弟が生まれてから小学校に上がる前までの三年くらいだね、おばあちゃんと一緒に暮らしてたのは。もうおじいちゃんも死んじゃってておばあちゃん一人だったし」
「両親、仲、いいんでしょ? 千代乃んとこ」
「仲いいよ」
「じゃ、何で? 親が別居してたっていうのとも違うんじゃない」
「うん、違うみたい。あんまり詳しいこと私も知らないのよ」
 千代乃が煙草を灰皿に押しつけた。それがまるで、もうこれ以上聞かないでよと言っているようで、孝子は千代乃の青白い指先を眺めるともなく眺めていた。
「・・・・・・そうなんだ」
「そういうコト。もういいでしょ?」
「じゃ、もしかして千代乃ってば、今もおばあちゃんの世話してるの?」
 ほんの僅かの沈黙の後、千代乃があっさりと言った。
「死んじゃったよ、もう。一年半前になるかな」
「ホント? ねえ、それって去年じゃない」
「ん、そうよ」
「一言言ってくれたってよかったじゃない。私、全然知らなかったよ」
「ちょうど休み中だったんだもの、亡くなったの。それに別にそんなこと話すようなコトでもないじゃない」
「そうじゃなくって。ん、もう、だから、それまでずっと千代乃がおばあちゃんの世話してたんでしょ?」
 場違いだと、立場が逆だと思いつつ、孝子は自分の声がどうしても荒れてゆくのを感じていた。なのにどうして千代乃の声はこんなに淡々としているのだろう。
「ずっと、ってわけじゃないのよ。高校二年の冬に入院して、でも、もう駄目だって分かってたからおばあちゃんが家に戻りたいって。それから最後の最後、入院するまで、だいたい一年くらいのことよ、実際には」
 そんなに長いこと、と言いかけて孝子は言葉を呑み込んだ。
「医者にはね、半年もたないだろうって言われたんだけど。でも、一年、もったのよ」
「一年、か・・・・・・」
 むしろそれは短いといってもいい、あっという間のことだったと言えるのかもしれないと千代乃は思った。
 冷めきったコーヒーカップを両手で包みながら、孝子がぽつりと言った。
「私、ひどいこと言ったね」
「何、急に?」
「だって、ほら、何にもしなさ過ぎとか、毎日毎日何やってんの、とか・・・・・・」
「何だ、そんなこと。いいわよ、別に、気にしてない」
「ごめん・・・・・・何にも知らないクセに私、いらぬこと言った」
「いいってば。やめてよ、そういうふうに言われるほうがヤだよ。ね?」
「・・・・・・そうだね」
 千代乃は隣の孝子のコーヒーカップがもうほとんど空になっているのを確かめると、
「ね、そろそろ出ない?」
「もうそんな時間?」
「昼前からいたのよ、二人とも。あんまり長居し過ぎるのも何でしょ。孝子、結構よくここ、来るんじゃないの?」
「そ、だね。そろそろ出るか」
 勘定を済ませようとレジに近づくと、もう松木と今村が払い終えていて、残ったコーヒーの分だけを二人して払った。ガラス戸を開けると、店に来たときより日差しは黄色味を増し影も少し長く伸びて、二人の後をついてくる。孝子と千代乃は来たときの道ではなく、駅の階段を昇って行った。
「千代乃、さ、もしバイトやるんなら早いほうがいいよ」
「まぁね。でも分かんない。今そういう気分でもないし」
「やんなよ、ねぇ、休みにもなるんだし。もし何だったら探すの付き合うよ、私」
「いいってば。もう、相変わらずお節介なんだから。さっき今村くんたちにも笑われたばっかりじゃないの」
「でも」
 急に階段の途中で立ち止まった孝子をふりかえると、孝子は半ば唇を噛むように俯いていた。
「何?」
「こんなこと言うの、いけないかもしんないけど、でも、千代乃の家って、何か変わってる」
 そう言って顔を上げた孝子の顔は、あまりにまっすぐで千代乃は声を失った。
「父親はともかく、お母さんにとってはさっきのおばあちゃんって自分の母親だったんでしょ? なのに何で千代乃一人でおばあちゃんの世話しなくちゃなんなかったわけ? それって変じゃない?」
 一歩一歩階段を昇りながら、孝子が尋ねてくる。
「・・・・・・」
「おかしいよ、やっぱり」
「・・・・・・そんな、一人で全部したってわけでもないんだけど。私の言い方が悪かったのかな、ただ、ね、二人とも忙しい人達だし、母さんたちはね、ずっと入院させとくのが一番いいって言ってたのよ。それに反対したの、私だったから。だから、かな」
「ヒトの家のこと、どうこう言えるような立場じゃないけど、でも、うちだったらそんなの考えらんない、絶対」
「そう、ね・・・・・・」
 ちょうど改札の前に来ると、千代乃はカバンから定期券を出し、孝子へと振り返った。
「じゃ、私帰るから」
「・・・・・・」
「部活、頑張って」
 そのまま改札をくぐって行こうとする千代乃に、孝子が声を投げた。
「千代乃」
 振り返ると、孝子が爪先立ちしながらこちらを向いている。
「今日はホント、ごめん。変なコトばっか聞いちゃって」
「いいって。気にしないで。それより、今村くんたちに、お昼ごちそうさまって言っといて、じゃ、ね」
 手を降って改札を抜けてゆく千代乃の姿はすぐに人込みに紛れ、孝子の視界から消えていった。

 祖母が亡くなる直前までその行く末を案じていた家は、もう一年近く前にすでに人手に渡ってしまっていた。山の斜面に建ったその家は、祖母が長いこと住んでいる間にずいぶん傷んでいて、亡くなる前に千代乃と二人で過ごしていた頃も、確か一階の庭に飛び出したような形の、食堂に使っていた小部屋の天井から雨漏りがするほどになっていた。修理しようと何度も言ってはみたが、その度、こうして家も一緒に年をとっていくんだと、祖母は理由にはなりそうにもない呟きを繰り返すばかりだった。そうこうしているうちに、最後の入院生活に入ってしまい、祖母は二度とその家に戻ることはなかった。
 今はもうその場所には新しい家主に建て替えられた家が建ち、庭も小さいながらきれいに芝生が敷きつめられて、壁も門も真新しい色を放っている。通い馴れた坂道を登り、もう何度かその家の前まで行ってみようとしたことだろう。でも、千代乃はその手前で立ち止まって、しばらく眺めているのが精一杯で、結局いつもそのまま引き返して来るのだった。
 たった三年だったけれど、祖母と一緒にその家で過ごした時間を思い出すと、今でも頭の芯の方が痺れてくるようで、千代乃はできるだけ思い出さないようにしていた。なのにどうしてだろう、思い出させるようなことばかり、このところ立て続けにやってくる。千代乃は、乗り込んだ電車のドア口に立ってガラスに額を押しつけると、音が漏れるほどの重い溜め息をついた。
 三度乗り換えてようやく戻った家の門を開け自転車を車庫に放り込むと、千代乃は早速支度を始めた。昨日母が後ろ手で閉めた納戸を開けると、スコップと軍手を取り出して庭へ出た。
 日が堕ちる直前の西陽が梅の木の幹の色に反射して、千代乃の眼を射ってくる。できるなら日が堕ちるまでそれを見ていたかったが、家に人が帰ってくる前にすべてを済ませてしまいたかった。千代乃は、スコップを持つ手に力を込めると、梅の木の根元に勢い良く突き刺した。
 どのくらいそうしてスコップを土に突き刺しては掘り起こし、掘り起こしてはまた突き刺すという動作を繰り返していたのだろう。まるで祖母の後を追うようにして枯れていった梅の木は突然、千代乃の眼の前で倒れていった。西の空にはもうオレンジの最後の光も消え、さっきまで梅の木が立っていたその場所には、黒く冷え冷えとした深い穴がぽっかりと空いていた。

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