連載小説「潮の香りの中で」(5)

第5章

 父と弟とが順に出掛けてゆくのを二階の部屋の窓から見下ろしていると、別に昨日と何ら変わらないように思える。朝から照りつけてくる夏の日差しも湿気を多く含んだ風も、そのまま昨日と続いていた。ただ、庭の真ん中にあった梅の木の姿が失くなっているということだけが、昨日と今日の光景とが違っていることを、千代乃に教えているようだった。
「ちょっと千代乃、いるんでしょ、降りてらっしゃい」
 いつもならとっくに仕事へ出掛ける時間だというのに、さっきから繰り返し階段の下から母の呼ぶ声がする。仕方なく重い腰を上げて千代乃が階下へ降りてゆくと、
「もう、何度も呼ばせないでくれる?」
 腰に手を当てて真っ直ぐに立っている母は、いい加減にしろと声にしないまでも、いからせた両の肩で千代乃にそう言っているようだった。
「何?」
「庭の梅の木、抜いたの、あんた?」
「そうよ」
「いつ?」
「昨日。大学、午前中だけだったから」
「あれだけこっちが言ったときはやらなかったくせに」
「抜くつもりだったんでしょ、どっちみち」
「そうだけど。具合悪いとか言って手伝おうとしなかったのはあんたじゃない」
「あのときは本当に具合悪かったのよ。もういいでしょ」
 そう言って千代乃が階段を駆け上がろうとすると、
「待ちなさいよ、ちょっと」
 仕方なく振り返り、母を見下ろす。
「何? まだ何か用事?」
「ねえ、あんた、いっつも真夜中に何やってんの?」
 唐突な母の問いに、一瞬千代乃の喉が詰まった。
「何、って?」
「夜遅く、ごそごそと降りてきては何かやってるでしょ? 昨日もそうだったじゃない、一体何?」
「・・・・・・別に」
「食事ならもっと早くにしなさいよ。寝てるそばを何度も階段昇り降りされるとうるさくってまともに眠れもしないんだから。結構響くのよ、音。分かってる?」
「でも真人がバイトから戻って来るのだって夜中近くじゃない。それから食器の後片付けとかするのよ、しょうがないじゃない、それくらい」
「なら、もっと静かにやってよ。寝不足は仕事にひびくんだから。聞いてるの?」
「・・・・・・分かった。もう出掛ける時間なんでしょ、遅れるよ」
 母の声を振り切るようにして階段を駆け上がると、千代乃は乱暴に自分の部屋のドアを締めた。

「千代乃」
 校門のすぐ脇にある図書館から出てきた孝子は、銀杏の並木道をぶらぶら歩いてくる千代乃の姿を見つけて声を掛けた。
「今日は早いじゃない、孝子」
「そ、ノート交換の約束あったんだ、午前中」
 孝子はそう言うと、手に持っているコピーの束で顔を扇いだ。頭上から少し傾いた太陽の日差しは強く、ホールへの入口をくぐると視界が真っ黒に歪んだ。千代乃は一瞬立ち止まって風景がそれぞれ元の位置に戻るのを待ってから、先に歩いていく孝子の後に付いて掲示板の前に行くと、休講を知らせるメモを、上から順に辿っていった。
「え、三限休講なの?」
「へ? ウソ。昨日貼ってなかったじゃん」
「ほら、あそこ、上から三番目。信じらんない、この暑い中わざわざこのために来たっていうのに」
「ホントだ。じゃ、今日は研究授業だけってこと?」
「最悪。これならもっとゆっくり来ればよかった」
 ホールに入ると、昨日よりさらに群がる生徒が増えたのか、席はほとんど埋まっていた。千代乃と孝子は、ホール中程のテーブルにどうにか席を見つけて向かい合わせに座った。すると孝子が正面の千代乃の顔を覗き込むようにして、
「ちょっと」
「ん?」
「顔、真っ白だよ」
「私? そう? 光の加減じゃないの?」
「いや、そんなことない。やっぱり白い」
「そうかな、気がつかなかったけど」
「また徹夜で勉強でもしてた?」
「ううん、昨日はそんなことないよ、あ、でも起きてた」
「もしかして、さ、心理のノート? あんまり無茶しないでよ、千代乃。確かに頼んだの、私だけど」
「別に孝子のためにノート作るんじゃないし。いつものことでしょ。昨日は、ただ、そう、寝苦しかったから」
「暑かったもんねぇ、何かミョーに」
「珍しく汗かいちゃって、気持ち悪かった」
「千代乃が? ね、やっぱ、具合悪いんじゃない? 今日、もう帰っちゃえば?どうせ三限ないんだし、研究授業なんかどうにでもなるじゃん」
「いい、いい、大丈夫。それに二時間かけてこの真っ昼間に帰るより、涼しくなってからの方がマシよ」
 隣に座ってコピーの数を数えている孝子だけでなく、ホールにいるほとんどの生徒が、来週からの試験に備えてそれぞれに各教科のノートやコピーのやりとりをしている。中には、もう事前に告げられているテストの情報交換をしている生徒の声もざわざわと聞こえてくる。
「みんな、必死だねぇ」
「そりゃそうよ。テスト前だもん。この時期にしか出てこないヤツも多いしね。もしかしたら、今周りにいるのなんてみんなそうなんじゃなあい?」
「一体何しに大学来てるんだか・・・・・・」
「そんな、大学に勉強しに来てるヤツなんか、いまどきいないでしょ。私だってそうだもん。たまたま引っ掛かったからここに来ちゃったって感じだもんね」
コピーの束を数えながら孝子が言う。
「いい加減なもンだね」
「でも、そう言う千代乃も美術史勉強したいって入って来たわりには、学芸員の資格、取るつもりないんでしょ?」
「美術史勉強したいっていうのと学芸員になりたいっていうのとはちょっと違うんじゃないの?」
「そう? 同じようにしか見えないけど。でもさ、うちの学部で取れる資格なんか、それしかないじゃん」
「孝子は? 孝子だって取らないじゃない」
「私はだから、受験して受かったところがココだったっていうだけで、就職も別にどこだっていいし。資格なんか別に要らないもん」
「資格、かぁ。それで何になるっていうんだろ・・・・・・」
「みんなそんなもんじゃないかな、千代乃が言いたいコトも分からないではないけど」
「何か、かったるい、そういうのって」
 孝子はようやく数えおわったらしいコピーの束を閉じると、
「何か飲まない? 喉乾いちゃった、買って来るよ、何にする?」
「じゃ、ウーロン茶」
「分かった」
腕時計を見ると、四限の研究授業までまだ丸々二時間はあった。急にぽっかり空いた時間が、ただでさえだるい身体を余計に重くさせるようで、千代乃はテーブルにそのまま顔を埋めた。
「はい、ウーロン」
「サンキュ」
 孝子は自分のオレンジジュースのパックにストローを刺して飲み始めた。喉がとくとく動いている音が聞こえてきそうなその孝子飲み方を、千代乃はぼんやり眺めていると、ふと昨日のことが思い出された。
「昨日・・・・・・ね」
「何?」
「梅の木、掘り起こしたんだ」
「あの梅の木?」
「そう」
「枯れちゃったんだもんね・・・・・・」
「・・・・・・」
「ね、何にも出て来なかった? そっから」
 急に身を乗り出してくる孝子の顔をまじまじと見つめ返しながら千代乃は聞き返した。
「出てくるって、何が出てくるの?」
「いや、あんなこと言ってたから、もしかしたらそれって梅の木に何か憑いてるせいなんじゃないかなって思って」
 憑いてるという孝子の言葉に千代乃の指先はちくりと痛みを感じた。まだ昨日のスコップを握っていたその感触が、掌や指先に残っているような気がした。
「・・・・・・変なこと考えるんだね、孝子は。別に何も出てなんか来なかったよ」
 正面で自分の両掌に見入り始めた千代乃の指が、いつもよりさらに透き通って孝子の眼にうつった。
「そっか・・・・・・」
「ただ、ぽっかり穴が空いただけ」
 そのあんまりに空っぽな千代乃の声に、ぽっかり穴が空いたのは今の千代乃の方かもしれない、と一瞬孝子は感じた。
「それで、今日はどう、調子?」
「どうって?」
「まだ、変なの? 見えたりしてる?」
「孝子」
 急に強い調子で千代乃が孝子の眼を見返した。
「ごめん・・・・・・だって、他に言い方なくって」
「もういいわよ」
「ごめん、悪かったって。でも、千代乃、梅の木もなくなっちゃって今その変なのが見えてもいないんだったら、もう大丈夫なんじゃないの?」
「・・・・・・」
「だからごめんってば。何も千代乃を傷つけるようなつもりで言ったんじゃないよ。ただ、千代乃がそれでドツボにはまっちゃってるみたいだったから、早くどうにかなればなぁと思って」
「どうにかって?」
「・・・だから、その・・・」
 千代乃はそれまで広げていた両の掌で、目の前のウーロン茶の入った缶をいきなりぎゅっと握りしめた。
「孝子が言いたいことも分かるけど、でも、そういう言い方されると何て答えていいのか分かんないよ」
「もう言わない。ごめん」
「・・・・・・悪かった、私も。大人げなかった。せっかく心配してくれてたのに。ごめんね」
「いい、いい」
「そうね、最近は、ね、時々電車に乗ったりしてるときに、もしかしてあれじゃないかなっていうのが見えたりするだけ。それに、この前久々に亮ちゃんたち見かけたときも、前みたいにヤな感じはしなかったしね」
「でも、何か見えたんだ?」
「見えた・・・・・っていうより、感じた、かな。でもそれは、もう大丈夫って思ったっていうだけだから、もしかしたら何も見えてたわけじゃなかったんじゃないかとも思うし、ね」
「曖昧なんだ、最近は」
「そうね。一時期みたいにはっきりは見えない」
「そっか・・・・・・」
「やっぱり、ね、一番あれがはっきり見えて焦ってた時期って、梅の木が枯れたのと重なってたんじゃないかと思うのよね」
「そうなの?」
「孝子に話したのは、それからだいぶ経っちゃってたけど。それにね、枯れ始めたのは多分、ちょうどおばあちゃんの一周忌を済ませたあたりだったんじゃないかと思うんだ」
「おばあちゃんの命日っていつだっけ?」
「三月の二十八日」
「そうなんだ」
「梅の花がね、すっかり散った頃。今年も咲いたのになぁ、花はちゃあんと」
「それで枯れちゃったなんて、ね」
「何か突然で、何感じていいのかよく分かんない」
「枯れちゃったことで?」
「ん。実は一昨日ね、母さんに梅の木抜くの手伝ってって言われたの」
「それで抜いたんだ」
「ううん、違うの。一昨日言われたときは、どうしても抜くのがイヤで、屁理屈言って断っちゃったの。でも、どうせいつか引き抜かれちゃうんだったら、私が、って、そう思って・・・それで昨日思い切って抜いちゃったの」
「千代乃さ、いくらその梅の木が誕生の記念樹って言っても、ちょっとそれ、執着しすぎてない?」
「誕生の樹っていうより、おばあちゃんの木っていう方が、私には強かったんだよね。だから、おばあちゃんが死んじゃっても梅の木があるから、みたいな。・・・それってやっぱり変よね。でも、どうしてもイヤだったの」
「私も変だと思うよ、千代乃」
「でね、抜いたはいいんだけど、その抜いた跡にできた穴ぼこ見てたら急に」
「何?」
「・・・・・・やめた。やっぱり、よく分かんないや。ごめん、変だよね、私」
 どちらともなく二人はそれぞれの煙草に火をつけた。そして、孝子は左に、千代乃は右に、と互いに視線をすれ違わせたまま、孝子がゆっくり口を開いた。
「千代乃って、おばあちゃんっ子だった?」
「どうして?」
「私はさ、千代乃みたいにおばあちゃんとふたりだけで暮らしたなんてことなかったからよく分かんないけど。それに、マザコンとかファザコンになるような家でもないしね。でも、千代乃の話聞いてると、何か、そうなのかなって・・・。お母さんとかお父さんとはどうなの? 仲、悪いの?」
「この前も孝子、そんなこと聞いてきたけど、じゃあ、仲がいいってどういうことを言うのよ?」
「どうって・・・そう言われちゃうと困るんだけど。でも、千代乃って家族の話とか全然しないじゃない。弟がいる四人家族だってことくらいしか、私知らないもんね」
「別に、家族の話なんてわざわざヒトにするものでもないんじゃないのかな」
「でも、こうやって話したりしてるうちに出てくることってあるじゃない。たいていは愚痴ってヤツ? それも千代乃の場合、ないんだもん」
「そうかな・・・」
「もしかして、家族と全然話なんかしないとか? まさかそんなことないよね?」
「いや、孝子の言ってることがよく分かんない。どういうことを仲がいいとか言ってるわけ? どうだったら仲が悪いっていうのよ?」
「んー、どういうって言われても、さ・・・」
「分かんないよ、そんなこと、他と比較しようがないじゃない」
 視線を合わせていなくても、孝子はだんだんと千代乃の声色が荒れていくのを感じた。これ以上話しても自分にも答えようがないことをどうやって千代乃から引き出していいのか、孝子自身にも分からなかった。
 孝子はテーブルの端に置きっ放しにされていた灰皿を引き寄せて、煙草を消した。
「いいや、私にも分かんない。でも、この前の話とか聞いてても、さ、何か千代乃の家ってちょっと違うんじゃないかなって思ったから」
「・・・・・・もう、やめよ」
「そ、だね」
 千代乃は孝子が引き寄せた灰皿に自分の煙草も押しつけると、ウーロン茶の最後の一口をごくりと飲み干した。しばらく握っていた掌の体温を吸い取って、すっかりぬるくなっていたウーロン茶が、千代乃の胃の底の方へと沈んでいった。

 夕方の上りのホームは、買い物帰りの主婦や暑そうに袖を捲くった背広姿で混み合っている。風も吹いてこないホームは、夕方とはいえ蒸し暑かった。孝子は額の汗を拭いながら、降りる駅の改札に合わせてホームの前の方に立っていると、背後から声を掛けられた。
「今帰り?」
 振り向くと、松木が立っている。部活のせいですっかり日に焼けた顔が、逆光で余計に真っ黒に見えた。部活もテスト前とあって、昨日から休みになっている。テスト最終日までの僅かな休みだ。
 ホームに滑り込んできた電車も通勤客が詰め込まれており、クーラーが効いているはずの車内も人の熱気で蒸し返っている。孝子と松木はドアにくっつくようにして立った。
「藤巻って、いっつもあんな感じ?」
唐突に松木が聞いてきた。
「何で?」
「孝子のお節介はな、いつものことだけど」
「悪かったわね。それがどう千代乃に関係あんのよ?」
「それに張り合うもン、あるよな、なんか」
「千代乃?」
 孝子は改めてすぐ横できつそうに身体を半ば丸めるように立っている松木を見上げた。「二人して好き勝手にやり合ってるって感じ」
「そうかな」
 電車が止まり扉が開くと、乗り換え駅ともあって次々に客が降りてゆく。ドアのすぐ脇に立っていた二人は一通り客が降りていったことを確かめてからもう一度電車に乗り込むと、それを押すようにまた新しい客が乗ってきて、僅かながら空いたはずの列車の隙間という隙間を埋めてゆき、あっという間にさっきよりさらにきつく混み合う程になっていた。
 ショルダーバッグを足元に下ろして後ろの客をできるだけ避けるようにして立つ松木の前で、孝子はカバンを抱き抱えながら、
「そうでもないよ。何となく、ね、突っ込みきれない、私じゃ」
「何? 聞こえない。はっきり言えよ」
 ちょうど大きなカーブにさしかかった電車はひときわ大きな振動音を響かせた。孝子はその音が少し遠のくのを待ってから、もう一度言い直した。
「だから、千代乃にはどこまで突っ込んでいいのか分かんないとこがあってさ。そばにいても、何ていうのかな・・・自信、ない」
「孝子が?」
「笑わないでよ、マツ」
「急にしおらしくなるからだよ。おまえほどヒトにずけずけモノ言うヤツって、そうそういるもんじゃないぜ」
「・・・何か傷つくなぁ、もう。でも」
「ん? でも?」
「最後の最後さ、あと一歩ってところを突っ込めなかったせいで友達死んじゃったとかの体験するとさ、ついお節介したくなるんだよ、もう二度と誰にも死んでほしくないから。なのにさ・・・千代乃ったら、全然私のそういう気持ち分かってないんだ。ほんとにもう。にぶちん!」
 そう言ってそっぽを向きたいところだったが、混み合い過ぎた車内ではそれも出来ない。孝子は抱えたカバンに顎を乗せるようにして黙り込んだ。
 松木は、そんな孝子の仕種を眺めながらもあまり気に留めるふうもなく、ぽつりと言った。
「でも、孝子が突っ込めないんじゃ、誰にも突っ込みようがないだろうな、きっと」
「え?」
「だからさ、おまえにできないんじゃ、他のヤツにも無理だろって言ったの」
「千代乃のこと?」
「だってあいつ、自分から誰かに話しかけようとしないだろ。そういうとこ見たことないもんな、この前みたいなときでも、あんまり話したがらないみたいだったし」
「・・・・・・そういうとこは、ある」
「まぁ、孝子には無理だろうな、喋ってなきゃ気が済まないだろ」
「そんなことないよ、私だって」
「私だって何だよ? 言ってみ?」
「あ、もう次だ」
「そんじゃ、またな。ノート、頼むよ」
「ったく調子いいんだから、マツは」
 列車から降りると、ようやく僅かばかりではあったが冷めた孝子の肌に、また暑気が舞い戻ってきた。

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