連載小説「潮の香りの中で」(最終章)

第7章

 ふだんなら月曜の午前中といったらホールにはほんど人影は見当たらないのに、今日はその入口から出たり入ったりする生徒でごった返している。千代乃は辺りを見回して孝子の姿を探していると、入ってきた千代乃に早速気がついた孝子が手を振るのが見えた。千代乃は、行き交う人を避けながら自動販売機のそばに松木と一緒に座っている孝子の隣へようやく辿り着き席に座ると、カバンから二冊のノートを取り出した。
「はい、ノート。お待たせ」
「サンキュー、これでもうテスト、バッチリ」
「ノート持ち込み可だもんね、ふたつとも」
「まさかこれ全部覚えろって言われたって、私には死んでもできない」
「そしたら俺も留年決定」
 松木がそういって大きな声で笑った。
「一回は目通しときなよ、テストに出るようなとこは印つけてあるから」
「よくやるよなぁ、藤巻も。俺にはもう絶対無理だ」
「私も。あ、今ちゃんだ、こっち、こっち」
 席から伸び上がって手を振る孝子に気づいて、階段から降りてきた今村がホールに入ってきた。
「もうダメ、ボロボロ」
「期前だったの、今日?」
「そ、やっべーよ、ホント、マジにやばい」
「何?」
「比較文学。テスト出すって言ってたとこと全然違うんだぜ、できるかよ、あんなもん」
「確かあの教授、カマかけるので有名だったよね」
「ほんとかよ、ったく、それ早く言ってくれよ、柏木。俺、全然知らねーでやっちまったよ」
「まあまあ、そう落ち込むなって。もう終わっちゃったんだし」
「そうそう」
「近いうちにマツも仲間になるっていうし、ね?」
「おい、仲間って何だよ、俺がそうなら孝子も同じだろ」
「私はマツよりはマシだもんね、残念でした」
「ひねくれっ子、世に憚るってか」
「ふーんだ!」
 それまで椅子の背にもたれながら三人のやりとりを眺めていた千代乃は、急に立ち上がると、
「じゃ、私帰る」
「え、もう帰るの?」
 驚いて孝子が振り返ると、
「ちょっと今日、行きたいとこあるから」
「行きたいとこって?」
「江ノ島」
「江ノ島? この時期に?」
「うん」
 開いていたカバンを締めると、千代乃は左肩にそれを掛けた。
「だってテスト前だよ、らしくないじゃん、ちょっと、ねえ」
「いいのよ、家に帰ったって気が滅入るだけだし」
「・・・・・・」
「それじゃ、お先」
「あ」
 孝子が言い終わらないうちに、千代乃は向きを変えて歩き出していた。
「どうしちゃったんだろ、千代乃」
「何が?」
「藤巻? 江ノ島行くんだって?」
「そうみたい・・・けど・・・」
 孝子は、千代乃の姿が見えなくなってからもしばらくホールので出口を見つめていた。

 改札を出た千代乃は孝子に行くと言った江ノ島へは行かず、そのままモノレールに乗り換えると、三つ目の駅で降りた。地上から高く離れたホームでは強い風が吹いていたものの、道に降りてみると風は撫でるほどしか吹いて来ない。千代乃は急に汗ばんできた肌を手で扇ぎながら山道を歩き始めた。
 駅からすぐの道を右に曲がってしばらく坂を昇り、垣根から半分以上はみでて茂っている大きな金木犀の角を今度は左に曲がる。そこから五件目の家に、昔、祖母が住んでいたのだった。もうその頃の面影などどこにも残っていない新しくなったその場所を、向かいの家の影から見つめていると、犬を連れてゆっくりゆっくり坂を降りてくる人影を見つけた。
 薄桃色の日傘をさして歩くその人の少し前を、もうずいぶん年老いているのだろう犬がよたよたと歩いている。足が悪いのだろうか。時折その人は足を止めながら、下り坂をゆっくりゆっくり降りて来た。
 千代乃のすぐそばまでやって来たので脇により道を譲ろうとすると、その人は千代乃の立っているところでぴたりと立ち止まった。
「あ」
 千代乃は自分が家の門の目の前に立っていることに気づいて身を退けた。
「ごめんなさい、このお宅の方でしたか?」
 千代乃を見上げたその人は、日傘の下から細い目をいっそう細めて千代乃の顔を見上げた。
「あら、こんにちは。今日もお暑いですわねぇ」
 そう言って微笑いかける表情はとてもやわらかく、初対面だというのに、千代乃は何だかほっとするような気がした。
「すみません、こんなところに突っ立ってて。お邪魔しました」
 頭を下げて立ち去ろうとすると、その人は千代乃を呼び止めて言った。
「ねぇ、あなた。ときどきここに立っていらっしゃったこと、なぁい?」
 千代乃は驚いて振り返ると、その人は相変わらず微笑を浮かべたまま続けた。
「やっぱり。ねぇ、何か思い出でもおありなんでしょう、この場所に。よろしければうちのお庭からご覧になったら? 木陰だったらここよりずっと涼しいでしょうし」
 思いもよらない言葉に驚いていると、その人は連れていた犬を先に門の中へと入れ、
「老人ひとりでは広すぎる家ですもの。どうぞ、お入りになって」
 そう言って門を開けたまま、またゆっくりと中へ入ってゆく。千代乃はそれにつられるように門を締めて中へ入った。
 門から四段ほどの階段を上がると左手に、六畳と少しの千代乃の部屋と同じくらいの広さの庭が拡がっていた。薄桃色の日傘を閉じた老婦人にすすめられるまま、千代乃は庭の中央においてある白いチェアーに座ると、老婦人の先程の言葉通り、ちょうどそこは庭を縁取るように植えられている白樺の木陰になっていた。いつの間にやって来たのか、老婦人の連れていた犬が、千代乃の向かい側の椅子の足元に、気持ち良さそうに寝そべっている。
 白樺の向こうに視線を投げると、その正面に、さっきまで千代乃が物陰から見つめていた家があった。これまで何度この場所へ通ったか分からないほどなのに、正面からまともに見たことがなかったその家は、真上からの太陽の光をいっぱいに浴びて、白い壁もガラス窓もきらきら光を放っているように見える。
 人影はいっこうに見当たらないけれど、手入れが行き届いて青々とした芝生が茂る庭の隅に作られた花壇には、大きなひまわりの花が咲いているのが見えた。
「お飲みになります?」
 その声に振り返ると、お盆にグラスを二つ乗せて老婦人が立っていた。千代乃の返事を待たずにそれを白い小さなテーブルに乗せると、老婦人はそのまま千代乃の向かいの席に座った。
「あのお家に、何か思い出でもおありになるの?」
 老婦人はさっきまでの千代乃と同じように、正面に見える家を眺めた。もうずいぶん皺の多い横顔に、白樺の影が揺れている。
「あの家、というわけではなくて、あの場所に、というのかもしれません」
 言うつもりなどなかったはずなのに、気づいたら自然、千代乃はそう口に出していた。
「そう。大切な思い出なのね、きっと」
 千代乃は、もしかしたらと思って尋ねた。
「あの、こちらには以前から住んでいらっしゃるんですか?」
 老婦人は視線を千代乃に戻すと、
「私ですか? いいえ、私がここに住み始めたのはつい最近なんですのよ」
 期待に外れた答えに俯いた千代乃の耳に、老婦人の声がゆっくりと流れ込んでくる。
「私、二年前に主人を亡くしたんですけれど、その主人がね、子供の頃この辺りに住んでいたんですよ。亡くなる前、ずいぶんと繰り返し話してくれましてね。海が近くて、風が吹くと潮の香りがふんわり香ってくるところなんだと。ほら、こんなふうに……」
 老婦人はそう言うと、白樺の葉々の間をぬって吹いてくる風に耳を澄ますように目を閉じた。千代乃も両目を閉じると、瞼の裏で白樺の葉影がちらちら揺れる。そうしていると、それまでうっすらとしか感じられなかった潮の香りが急にはっきりと香ってきて、千代乃はそよぐ波風の中をまるで漂っているような感覚に包み込まれた。
「ね?」
 老婦人はまだ目を閉じたまま、潮風の中に漂っている。
「戻りたいと主人が言ったことはなかったけれど、でも、本当はこの場所にいつか帰って来たいと思っていたのでしょうね」
 老婦人はようやく目を開けた。
「それでここへ引っ越していらっしゃったんですか?」
「そう。ようやく、ね」
 氷が溶けはじめた琥珀色のグラスを口へ運ぶと、ほんのりした甘味が口の中に広がった。木漏れ日に揺れるその琥珀色を見つめていると、何だか少しずつにじんでくるようだった。
「あら、あなた、泣いていらっしゃるの?」
 老婦人はそう言うと、さっきさしていた日傘と同じ薄桃色のハンカチを千代乃へと差し出した。
「泣いておしまいなさいな。ねぇ、見てるのは、すっかり年をとったこのおばあちゃんだけなんですもの」
 老婦人の言葉に驚いて頬に手をやると、涙が手の甲に伝わってテーブルの上に落ちていった。風が止み、それまでそよそよと揺れていた白樺の枝も沈黙している。千代乃は受け取った薄桃色のハンカチを目にのせると、これ以上涙が落ちないように目頭を強く押した。
「すみません、別に泣くつもりなんてなかったんですけど」
 ハンカチを外し頭を下げながらそう言うと、老婦人は小さく笑いながら、
「いいんですよ、そういうときもありますからね。でも、あなたにはまだちょっと早いんじゃあないかしら」
 顔を上げると、老婦人はさっき出会ったときと同じ微笑を浮かべて千代乃を見つめている。そして、じっと、千代乃の顔を見つめたまま、こう言った。
「思い出というのは、悲しくて涙するためにあるものではないような気がするのよ。大切な大切な思い出ほど、思い出すたびに涙も浮かんできてしまうけれど、でもそれは決して悲しいものではないはずよ。だって、幸せで幸せでたまらなかった思い出でしょう?」
 風がまた戻ってきた。テーブルに落ちる葉影が千代乃の目の中でちらちらと揺れる。婦人の足元の犬が大きく伸びをすると、また同じ恰好で丸くなった。
「あなたのような年頃から思い出に哀しいばかりの涙をこぼしているようでは、途中で倒れてしまいますよ。もし今と思い出とを天秤にかけたりしているなら、それはおやめなさいな。過ぎたこととこれからのこととは、比べられるようなものではないでしょう。そんなことをしていたらますます背負う荷物が重くなっていくだけですよ。そうでしょう? だって、思い出は引きずって歩くものではなくて、一緒に歩きながらまた新しく作っていくものなんですもの」
 老婦人の声が止んだ。千代乃はもう一度正面のかつて祖母と暮らした家があった場所を見つめた。そこではもう新しい時間が刻まれている。私も今はもうそこにはいない。かつていつも隣にいてくれた祖母も、もう記憶の中にしかいないのだった。今自分が共に時間を紡ぐ相手は、そんな記憶の中の祖母ではない。
 千代乃は、呟くように尋ねた。
「ここにおひとりで、寂しくありませんか?」
 すると、老婦人はその細い柔らかな目で真っ直ぐに千代乃を見つめながら言った。
「寂しくなんてありませんよ。たくさんの素敵な思い出がありますからね。それにまだ私にも時間は残っていますもの。もっと思い出をたくさん作らなくっちゃ。主人へのお土産に、ね」
 そう言って、老婦人は木漏れ日そっくりに微笑した。
「あなたも、もっと今を大切にして生きてごらんなさい。思い出を一つずつ積み重ねて歩いていけば、ちっとも寂しいことなんてありませんよ」
 もう一度目を閉じると、潮の香りがまた漂ってくるようだった。

「ねえ」
 千代乃が作っておいたグラタンを電子レンジで温め直して食べている母の横顔に、千代乃は声を掛けた。
「何?」
 はすかいの椅子を引いて座ると、グラタンの皿から天井へ薄い湯気が上がっていくのが見えた。
「梅の木の跡に、また何か植えたいんだけど」
「何を?」
「・・・・・・」
母は口を忙しく動かしながらグラタンを食べている。
「また梅の木? もしかして」
「ううん、もう梅の木は新しいの植えてもしょうがないから。でも、何か木を植えるのがいいんじゃないかなって思って」
「木、ねぇ・・・」
 食べ続けている母の頬はひっきりなしに動き続けている。聞いているのか聞いていないのか、手応えがない怖さを拭いつつ、千代乃は続けて言った。
「何もないっていうのも変だと思わない? 庭の真ん中に」
「そんなのは別にどうでもいいんだけど」
「・・・・・・」
 開け放した食堂の窓から吹き込んできた夜風が、窓に背を向けている母のうなじの後れ毛を微かに揺らしてゆく。引いては吹いて、吹いては引いて、まるで波のようだ。潮の香りはしないけれど、でも、その波音はいつも千代乃がひとりで江ノ島の崖っぷちで聴く波音より、ずっとやさしい音に聴こえた。
「そうね、どうせ木を植えるんだったら、今度は梅の木じゃなくて、桃でも植えれば?」
「桃?」
 忘れた頃に返ってきた母の返事に顔を上げると、一瞬はすかいに座る千代乃など通り越して遙か遠方を見やっているように見えた母の眼が、すぐにまたグラタンの皿へと戻っていった。
「覚えてないの? ほら、おばあちゃんの家の庭にあったじゃない。ちょうど食堂の窓の前かなんかに」
「あれ、梅だと思ってた。だって桃なんてなったことなかったよ」
「桃栗三年、柿八年、って言うでしょ、あんた、そんなことも知らないの?」
「知ってるわよ。でも……あ、そっか、あれ植えたの、確かおばあちゃんが死んじゃう一年くらい前だったもんね」
「おばあちゃんがね、あんたが生まれたとき、誕生の木は梅にしようか桃にしようかって、さんざん迷ってたのよ」
「そうだったの?」
「そ。だから、桃は虫がつきやすいからやめてくれって言ったの」
「え・・・・・」
 あまりに母らしい返事に、千代乃は呆気にとられた。そんな千代乃にお構いなしにグラタンを口に運びながら母が続ける。
「いいんじゃないの、桃で」
「虫、つくんでしょ、いいの?」
「私は世話しないわよ、当然。あんたが植えるって言ったんだから、自分でちゃんとやってよね」
 相変わらず母の口許は忙しく動いている。皿の中のグラタンはもう三分の一ほどに減っていて、それでも母の差し込むスプーンの切り口に合わせて湯気が細々と上がってゆくのが見えた。
「ちょと千代乃、さっきから電話鳴ってるじゃない、何、ぼんやりしてんの、早く出なさいよ」
 急かされるようにして席を立つと、千代乃は慌てて玄関口の受話器を取った。
「はい、藤巻です」
「あの、柏木と申しますけど・・・・・・」
「あ、孝子?」
「千代乃? あー、よかった」
「珍しいじゃない、孝子が電話よこすなんて」
「家の人が出たらどうしようかと思っちゃった。冷や汗かいちゃったよ、電話掛けるだけで」
「何で、そんな?」
「だってさ、考えてみたら私、千代乃のとこに電話掛けたことって今までに一度もなかったじゃない。何か、変に緊張しちゃって」
「何言ってんのよ、らしくないなあ」
 そう言いながら千代乃は受話器を持ち替えて続けた。
「で、何、わざわざ」
「今、勉強中だった?」
「ううん、そんなことないけど。それより何かあったの?」
「いや、ほら、心理のノート明日返そうと思って、千代乃休むと困るからさ」
「何、そんだけで電話したの?」
「だって、すぐ返そうと思ってたのに、千代乃さっさと帰っちゃうんだもん。それに明日、西美、休講でしょ」
「ほんと?」
「先週、教授が言ってたって、千代乃が言ったんじゃん」
「そうだったっけか」
「それに心理も休講だから、千代乃が出るもン、ないでしょ」
「すっかり忘れてた。どうしよ」
「途中まで行こうか? 借りたの私だし」
「んー、いい、いい、学校行くわ、私」
「え、いいの?」
「いいよ。蒸し風呂みたいな家に一日中いてもしょうがないもん。どうせ勉強するなら、クーラー効いてる図書館の方がはかどるでしょ、きっと」
「ホント? そうしてもらえると助かる」
「それにしてもすっかり忘れてたよ、言われるまで」
「暑さボケでもしたんじゃないの?」
 食堂の方から物音が聞こえてくる。母が食べ終わったのかも知れない。その様子に耳を澄まそうとすると、今度は受話器が孝子の声を運んでくる。
「勉強、はかどってる?」
「どうかなぁ。今回はちょっと手ェ抜いてたとこ多いから。孝子の方は?」
「コピーの山に埋もれてるって感じ。もう悲惨よ」
「相変わらずだねぇ、まったく」
「ホント、ヤんなっちゃう」
「まぁ、頑張って」
 そう言ってクスクス笑っている受話器の向こう側で、孝子が僅かな沈黙の後で言った。「ねぇ、千代乃、あの、さ」
「何?」
「今日、あれから江ノ島行ったの?」
「江ノ島? ああ、あれね。ううん、行かなかったよ」
「行かなかった? 何だ、そうなの?」
「ん、別んとこ行ったの」
「どこ?」
「おばあちゃんがね、前、住んでたトコ」
「また唐突に。何でまたそんなとこ行ったの?」
「理由はない、んだけど・・・・・・。ただ、急に江ノ島の駅についたら、そっちに行きたくなっちゃって」
 受話器の向こうでは孝子が黙りこくっている。
「家はね、もうないんだけど。ときどきどうしてもその場所に行きたくなっちゃうことあるのよね。あ、そうそう、隣の駅だったよね、今村くんって」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・・・・私、ずっと心配してたんだよ。江ノ島行くとか言ったから。それなのに、ヒトの気も知らないであっち行ったりこっち行ったり。何なのよ、千代乃は」
「何、孝子、怒ってるの?」
「怒ってなんかないわよ、心配してたの。あんなふうに帰っちゃうし」
 ただでさえ大きい孝子の声が一段と大きくなって受話器の向こうから響いてくる。
「ちょっと声、大きいよ、孝子」
 そう言った千代乃の言葉なぞまったく聞こえていないようで、孝子はさらに大声で追いかけてきた。
「江ノ島に行くなんて、今まで千代乃、私に言ってから行ったことなんかあった? ないでしょ。なのに突然そんなこと言われてみなよ。何かあったんじゃないかって思うじゃない。しかも本人は言うだけ言ってさっさと消えちゃうし。そのうえ今度はそこには行かないで別のとこに行ってたって? 何なのよ、もう! 心配してた私は一体何? あー、こんなに心配してソンした」
「いや、だから、ごめん。そんな心配させるつもりなんかなかったんだけど」
「勝手にしてよ、もう、知らない」
「ごめん。私が悪かった。ホント、ごめんね、孝子」
「・・・・・・」
「もしかして、孝子、ほんとはそれで掛けてきてくれたの? 電話」
「決まってるでしょ!」
 今にも電話が切れてしまいそうな勢いで、孝子の声が受話器越しに伝わってくる。千代乃はもう一度受話器を持つ手を握り直した。
「ごめん。ほんと、ごめん」
「・・・・・・知らない」
「でも、今日江ノ島じゃなくて思い切ってそっちに出掛けたお陰で私、なんかすっきりした」
「・・・・・・」
「楽になった、っていうか、ね」
「・・・・・・」
「ほんと、ごめん。孝子にそんな心配かけるつもりなんてなかったんだよ、全然」
「・・・・・・もういいよ。私も言いたいこと全部言ってスッキリした」
 受話器口で思わず漏れてしまった笑いが、孝子の耳に届いたらしい。向こうからまた声が返ってくる。
「何笑ってんのよ」
「いや、孝子のお節介は、きっとどうやったって治らないんだろうなぁと思って」
「何よ、それ」
「今村くんとかだって言ってたじゃない。やっぱり、みんなそう言うと思うよ」
「そういう千代乃だって、あいつらに何言われてるか、知ってんの?」
「え、何?」
「変なヤツーってさ」
「私が? どうしてよ」
「さあねぇ。自分で聞いてみれば?」
「・・・・・・」
「今日なんかも、千代乃が変だって私が心配してたら、今ちゃん、藤巻が変なのはいつものことだろって言ってたよ」
「何それ」
 受話器の向こうから響いてくる笑い声につられて千代乃も思わず笑ってしまった。
「ヒトがいないのをいいことに、好き勝手言ってんだから、もう」
「いいじゃない、言われるだけマシと思えば」
「そんなもん?」
「そうだよ。それに、確かに今ちゃんの言うことには一理あるしね。千代乃、やっぱ変だもん」
「ちょっと、孝子」
 千代乃の声に重なるようにして孝子がクスクス笑い出す。千代乃は今聞いた昼間の孝子たちのやりとりを思い浮かべながら、受話器越しの孝子の笑い声に、しばらく耳を傾けていた。
「ね、あのさ」
「何?」
「今度、みんなで江ノ島行こうか」
「江ノ島ァ?」
 孝子のすっとんきょうな声が返ってくる。
「何言ってんの、あんた」
「変な案内人付きで、どう?」
「江ノ島行くのに案内人なんかいらないわよ。おのぼりさんじゃあるまいし」
「いいじゃないの。ね? 季節も季節だし。気持ちいいわよ、きっと」
「千代乃の考えてるコトって、やっぱどっか変だわ」
「そう?」
「凡人の私には分かりませんね」
「私だって、孝子のお節介は背負いかねるわ」
 孝子と千代乃はそうしてひとしきり笑い合うと、
「テストが一通り終わったら行くってのもいいかもね。マツとかにも言っとくよ。どうせまた明日も会うだろうし」
「ん」
「しょうがない。付き合ってやるか」
「ん、そうしてやって」
「じゃ、うち、そろそろ電話切んないとヤバイから」
「お母さん?」
「そ、うるさいのよ、長電話ばっかすんなって。そんないっつも電話ばっかしてるわけじゃないってのに」
「そういうもんなんじゃないの? 親なんて。じゃ、明日図書館行くから」
「何時頃来る?」
「そうねぇ、昼過ぎになるかな」
「分かった、じゃ、図書館でね」
「ん、じゃあね」
 電話を切ってもまだ、孝子と笑い合った声が耳の奥に残っているようだった。  (完)

ページの上部に戻る