恩師とのこと

ひと月ぶりに先生宅へ(※2017年2月17日)。今日はお味噌汁を作ることを決めていたので家から味噌を持って出掛ける。カメラも一応持参して。撮らないかもしれないし撮るかもしれない。分からないけど必要になった時ないのは困るから重くても持参。
先生宅の最寄り駅で、今日は映画監督の小林茂さんとその仲間の川上拓也さんと待ち合わせ。お二人とも機材をしょっているのでえっちらおっちら。でも、映像にしても写真にしても、それが当たり前なんだよなあ、と、ひとりこっそり笑う。
一応先生には、小林さんが満州出身で樺太関連の映像を撮ったことがあるという話は事前に伝えた。でもそれ以上は必要ないと思い、先生にはあれこれ話さなかった。
それゆえ先生は、きっと小林さんたちは樺太の話が聞きたいに違いないと思い込んでいたらしく、その話から始まった。
先生らしくわざわざプリントまでお二人に用意しており、あー、先生だなあとこの時もこっそり私は心の中笑った。いつだってそうだ、準備万端なんだよな、と。
先生は授業の際、必ず自筆のプリントを生徒に配った。いつだっていつだって、紙いっぱい、びっしりと文字で埋まったプリントを用意していた。それを読み切るだけで結構精神力使うのに、それに対して自分で感じたことを書けとか先生は平然と言ってきた。いやこの先生の文章を理解するだけでまず大変なんだってば!なんて生徒の言い訳ちっとも構いやしないといった具合で、「自分で考えて自分の言葉で書け!」ということを先生はいつも私たち生徒に伝えて来た。
自分で考えて自分の言葉で書く。
これだけ書くとそんなの当然でしょと言われるかもしれないが。実際これを為すのはかなり難しい。私はそう思っている。
こうあるべき、とか、こうすべき、こうある方が都合がいい、そういったことはすらすら書けても、自分の内奥を凝視し自分が今何を感じ考えているか、を、自分の言葉によって書き記す、というのは、生半可な気持ちでは為しきれない。
だから、先生の投げかけてくるものに応えるには、相当の集中力、精神力がいつだって試された。要された。そういう覚悟がなきゃ、向き合えなかった。でも、そういう覚悟を持って、それでも、向き合いたい、と思わせるものが先生には、あった。
たとえば自分が好きと感じる作家が書いているこの場面、この場面に実際お前は立ったことがあるか?と。先生はよく言った。実際にそこへ立って感じてみろ、と。たとえばホームに立ち風を感じる、というくだりがあったなら、そのホームへ実際に行ってみて立ってみて風を感じてみろ、と。そうして初めて、作家が表現したかったこと伝えたかっただろうことが実感できる、と。実感しろ、実感したことを己の言葉で書け、と。先生は常にそう私たちに教え続けた。自分の頭と体を使って自分の言語をつかみ取れ、と。
私が実感すること、自分の言語をつかみ取ることにこだわるのは、だから、先生の教えがあったからなんだと思う。それがなくてももしかしたら後々それに気づき、自らそこに飛び込んでいったかもしれない。そんな気は、する。でも、あの十代の時に既にそれに気づかせてくれた、そこに飛び込ませてくれたのは先生であり、それがなければ私はまだまだ迷子のままだったに違いない、と、思う。

先生は今日、国境線、境界線、線、という言葉を何度も繰り返し小林さんと川上さんに使っていた。日本には国境線がない、それが何を指し示しているか、それが何を私たち日本人に植付けたか、といったことを、繰り返し繰り返し。
私はこれまでの先生との対話の中で、先生がこれほど繰り返しこの言葉たちを使うのを聞いたことがなかった。きっと私と出会った頃の先生の中では、この問題はそこまで切実な問題ではなかったんだろうと思う。むしろ、私にとってこそ切実な問題であった。
切実な問題。そう、私にはこの、境界線、国境線、人間関係における線引き、というのが、生きるか死ぬかという問題に近い、切実な問題として常に、あった。 私が育ってきた時代というのは、家族神話が全盛期といってもいいような時代だった。同時に、それが崩壊していく時代でもあった。私はそのどちらもに、いた。いや、その狭間にいた。
理想的な家族。私の家は、世間的にそうよく評された。一流大学出身の父、一流企業に勤めトップを切っている父、母は母で高卒でありながら日本銀行外国為替課に勤め先陣を切って仕事をこなし父の倍額以上の給料をもらうような身でありながら、それをさっぱり辞めてデザイナーになりそこでも相当の成果を挙げた、父母共に完璧主義の、鉄壁のような両親。その父母の元、優等生と見做される長女に、大人しく美術に長けた長男。
でも実際は、いや、内情はどうだったか。決して褒めることをしない父母によって繰り返される過干渉とネグレクトによって、精神的にぼろぼろになっている子供たち。人間関係の距離感を掴めぬまま歳を重ね、凶暴になる長男に頑なになる長女。外側は立派に見えても、内側はばらばらぼろぼろ、常に緊張を孕んだ空間、関係。
父母に染まるか、弟のように一時でも凶暴になるか、できれば、また違った道もあったのかもしれない。でも、幸か不幸か、私はそのどちらにも、行けなかった。常にその線上につま先立ちしていた。どちらにもいけないまま、どちらかに傾けたら楽なのにと思いながら、それでもどちらも選べず、むしろどちらも違う気がして、ただひたすら、線上に立ち続けた。それが、私だった。
人間が好きで好きでしょうがない私だけれども、同時に、人間は恐怖以外の何者でもなく、その中でも特に大人は、脅威以外の何者でもなかった。信じれば裏切られる、容赦なく侵蝕され攻撃される、大人には決して気を許してはならない、と、私には思えていた。
そんな中、ふいに現れたのが、先生だった。

先生との初対面は、最悪だ。だって先生は出会った最初の授業で開口一番こう言ったのだ。「本なんて読むな」と。
当時気を許せる友達なんてひとりもいず、ということはつまり他愛ない会話なんてひとつもやりとりしない常に緊張を孕む孤独の中にいた私には、本は大事な大事な伴侶だった。本の中の世界は私をあちこちに連れて行ってくれたし私の想いを代弁してくれるものでもあった。本を読まないでいるなんて考えられなかった。
なのに。よりにもよって、国語の教師が「本を読むな」と平然と言い切る。ふざけるな、と思った。だから私は即刻先生にふざけるなといった手紙を書いて突きつけた。
それで終わりだと思った。思っていた。
なのに。 翌日先生は、返事をよこしたのだ。そこにはこうあった。おまえの気持ちを考えずに言葉を不用意に使った、申し訳ない、と。冒頭に、そう、あった。
教師が、謝る? 一個の立派な大人がこんな私に謝る? そんなのあり得ない。そう、思った。だから、もう一度読んだ。でも、そこには、あった。すまない、という先生の文字が。八枚の原稿用紙にもなる返事を先生は私によこした。一冊の詩集と先生の授業で使うプリントと一緒に。
私はぼおっとしながら、そのままいつものように学校を途中で抜けて江の島の、島の突端まで行き、そこで座って手紙を眺めた。 こんな大人がいるんだ。その時、思った。認めざるを得なかった。認めたくないけど、認めざるを得なかった。こういう大人が、いるということ。だって今私の手には、先生が書いてよこした返事が、しっかり握られている。
それから、だ。この先生は私が声を掛けさえすればちゃんと向き合ってくれる、と思うようになったのは。それからだ、先生の背中を横顔をじっと見るようになったのは。先生が今どう生きているか、どう存在するのか、それを、知りたい、と思った。ここに私が認める大人ってのがいる。私はこの大人をもっと知りたい、と。
そして私は先生とかかわりを持つようになり、その関係を育むようになって、味わった。この線のこちら側に俺が、こちら側にはおまえがいる。それでいいじゃないか、と。違うことを違っていいのだと、違って当たり前だと、それこそが価値あることだ、と。人間と人間が関係すること、世界は人間関係そのものであり、それは互いを否定することによって在るものではなく、違いをそのまま認め合うことにこそ意味があるのだと。たとえばお前が今度のテストで0点とろうと100点とろうとそんなの俺にはどうってことはない、そんなことでおまえの価値は変わらない、この線を隔てて俺とお前がここに居る、それこそが価値あることなのだ、と。それを実際に生きて在ることで示し私に体感させたのは、間違いなく、この、先生、だった。
先生は、どこまでも国語の教師だった。先生自ら言うように、先生は教師というプロ、だった。でもだから、どうやっても目立ってしまっていた。良くも悪くも先生は目に付いた。適当に生徒と関わり、適度に先生という職業をやってるひとたちの中にいると、どうやっても先生は浮いていた。そういう先生をあからさまに嫌うひとは多かった。一方、先生を常に見つめ、一瞬でも見逃すものかと食らいつく生徒たちもいた、私のように。
「目立つことは不幸だよ」と最初に言いきってくれたのも、先生だった。目立つ生徒で、それゆえにさらに孤独に突き進んでいた私には、この先生の言葉は救いだった。ああ、目立つことが不幸だってことを知っていてくれる大人がここにいてくれる、そのひとがちゃんと私を見てくれてる、と、これが救い以外の何であろうか。
教師の群れの中で独り浮いた存在である先生は、それでもまっすぐ前を見ていた。そして、そこに居続けた。
私はその、先生の在り方に、あの頃どれほど励まされたか知れない。
いつしか私は、先生を尊敬し、同時に、戦友のようにも感じるようになっていった。同志、ともいえるかもしれない。

先生は、小林さんと川上さんに樺太を語り、その中で、国家に棄てられた、という言葉も何度か使った。この日本にあってその国家に棄てられるということの意味を、私はじっと考えていた。 でも、まだ正直、これについては言葉にならない。

そうそう、自分の行動や言葉に自覚的になれ、と最初に教えてくれたのも、先生だった。無自覚でいることは罪だと。先生は無言で私に教えて来た。あくまで無言で、だ。先生が具体的にそんな言葉を用いたことは殆どない。でも。気づくこと、そこからすべてが始まる、と教えてくれたのは、先生だ。
先生は、俺は臆病だから生徒から質問されると徹底的に調べあげるんだとよく笑って言った。今日もそう言っていた。そう、先生は徹底的に調べあげるひとだった。たかが生徒ひとりの他愛ない質問であっても、それに十二分に応える為に、どれほどの自分の時間を割いてきたろう。絶対に手を抜かないひと、だった。
あまりに徹底的に調べてくるもんだから、生徒は困ってしまうことが多々あった。いやそこまで求めてないよ、とたいがい生徒の多くは思った。そういう雰囲気がありありと感じられる授業も多々あった。でも、そういう中に、先生のその姿勢をじっと見据えている、見定めている生徒もまた、居た。
自分たちの問いに全力で応えようとする、それを実際にやってのける大人が今目の前に一人確かにいる、ということを、私たちはそこで、否応なく知らされた。認めずにはいられなかった。
無自覚な人間はその行動や言葉で周囲の多くを傷つける、でも無自覚だから自分が傷つけてることなど思ってもみない、寧ろ善意だったりする。その罪深さよ。そのことを先生は、ただそこにひとり居続けることで、何人かの生徒に知らしめた。だからこそ、気づけ、と。気づいて自分を正せ、と。それができるのは自分しかいないのだ、と。そのことを、私たちは先生から教わった。

先生が退官を決意したのは生徒との距離感が自分が知っていたものと変化していることに気づかされたからだ、と、今日先生が言っていた。それを先生は、ディスタンス、という言葉で繰り返し言っていた。距離感の喪失。
先生は電話の子機、と言っていたけど、恐らくそれは、携帯電話のことだと思う。携帯電話ができたことで、それまでの人間関係の距離感ががらり、変わった、と。何処でもいつでもだれとでも繋がれるという世界に変わってゆく、それはひとの心の在り様も変えてゆく。生徒の心の在り様にありありとその変化を感じた時、先生は、もう自分は先生という職を退こう、と決めたのだと私には聞こえた。
たとえば万葉集で、木の枝の先にさえひとを想う、といったようなことが書かれているが。その心の在り様を、もはや実感できる世の中ではないのだな、と、実感できないことを先生は生徒にどう教えるのか。先生はそのことを問わずにはいられなかったんだろう。もっと言うと、自分はもうこの時代には合わない、と、退き時だ、と、判断したんだと思う。
それは、私が大学に入学する前後の時期だった。先生は教壇を降り、教育研究所に場所を変えた。そしてまたしばらくして、学校を去った。

国に棄てられた樺太を顧みることは自分の痛みを自ら認めること。だから先生は、長いことそれを避けていたのだと思う。それでも。自分を突き詰めていけば樺太に辿り着いてしまう。それを見ずにはいられなくなってしまう。
そして樺太と向き合う覚悟をし、向き合い始めた先生は、自分の血の問題にも行き着くことに、なる。
一方私は、常に「血」とは何か、家族とは何か、ということを問わずにはいられない幼少期を過ごしてきた。それはやがて人間と人間との関係、世界と人間との関係、といったものに拡がってゆき、国境線の問題にも繋がっていく。
先生の辿った道と私の辿った道とは、異なるのだけれども。先生も私も、国境線や境界線、血、というものを、突き詰めずにはこれ以上生きられない、というところに、行ってしまった。それを突き詰めずにはもうこれ以上生きられない、と。
自分の居場所とは、故郷とは。それを探し続け求め続けたのが先生であり、私であった。

先生が小林さんたちにぼろっと、にのみやが乳母車を押してる姿を見た時は吃驚したよ、こいつはこんな「日常」ってものをちゃんと過ごしてるんだと分かって本当に吃驚した、といったことを言った。それを小林さんは訊き返し、先生はもう一度、その言葉を繰り返した。
でも、先生。
私はあの時言わなかったけど。それを私に選択させたのは、先生でもあるんだよ。 先生は口酸っぱく、実感しろ、実感した言葉をこそ書け、自分が実感してないことを書くな、と、そう言ってた。体験を自分の血肉にし、言語化しろ、と。
私はね、先生、だから、知ろうと思えたんだ。知ろう、体感しよう、と。そうせずにはいられない、と。
精神的虐待を受け続けて育った私が、性犯罪被害者にもなって複雑で深いPTSDなんてものを抱えて生きてくる時、それでも子を産んで育ててみよう、と決心できたのは、先生がさんざん私たちに伝え続けてきてくれたことがあったからなんだよ。
虐待は繰り返される、社会はそう言う。私もそう思い込んでた。でも。同時に、絶対繰り返しなんてするものんか、とも思ってた。絶対ここで断ち切ってやる、と。私が求めても求めても得られなかった親との愛情、親との関係を、私が育んでやる、と。育んで実感して体感して、愛するってこういうことだ、って、声を大にして言ってやる、と。虐待されて被害者にもなってPTSDも抱えてたって、ひとを愛することもできるし関係を育むこともできるし世界とつながることだってできるんだ、って、私が証明してやる、と。
そう開き直れたのは。先生、先生がそこに居たからなんだよ、と。
はっきりいって、可能性なんて低い、私が虐待を繰り返してしまう可能性の方が恐らくずっと高い。ましてやPTSDなんてお荷物背負ってるんだから自分自身が生き延びられるかどうかも定かじゃあない。世界からぽつんと切り離されて途方に暮れてる私なんかが、もう一度世界と繋がれる可能性なんてこれっぽっちもない。
それでも。
ここに居続けること。ひたすら居続けること。それによってしか始まらないということ。先生がかつて私たちに、その姿で示し続けてくれたじゃないか。変えようと思うならそこにしがみ続けろ、そこに居続けなきゃ、変えることもできないんだぞ、と。だから、私は、何度も何度も自殺未遂等繰り返したくせに、とことんのところで諦めきれなかった。こんなにも世界から遠く切り離されても、生き残ってしまった自分を認めた時、もう一度世界に手を伸ばさずにはいられなかった。居続けることの意味を、先生がかつて、私に教えたから。

小林さんが帰り道、にのみやさんは要所要所で会うべきひとに出会ってますね、とおっしゃった。そうかもしれない、と思う。でも。
それもまた先生の言葉じゃあないけれど。気づくかどうか、なんだと思う。
出会いは恐らく、平等に誰にでも、ある。でも、それが出会いであるということに気づけるかどうか。環境や心境がその出会いにそもそも気づかせてくれないかもしれない。それゆえに素通りして、すれ違ってそのまま、というひとたちがどれだけあるだろう。ほとんどがそうなのかもしれないと思う。そんな中で、はっと、気づく時が、ある。これだ、と、気づかずにはおれなくなるものが、ある。それが、初めて、出会い、になる。
その出会いをさらに、自分に引き寄せられるか。育もうとできるかどうか。
そうやって、ひとは、生きてくる折々に篩にかけられてるんだと思う。篩にかけられ、試されてるという自分にどれだけ自覚的になれるか―――そういうことなんだ、と、思う。

小林さんが先生の部屋を出る直前、先生とにのみやさんの写真を撮らせてほしいとおっしゃった。写真を撮られるのが大嫌いな私は瞬間断ろうと思ったが、その直後、先生と写真に収まるなんてこれが最初で最後のチャンスかも、と思った。どういう顔をしていいかもわからなかったけど、だから、椅子に座る先生の後ろに立ち、小林さんがシャッターを切るのをじっと見ていた。
そう、恐らく、これが最初で最後だろう。先生と同じ写真の中に収まるなんて。写真ができあがったら、一枚分けていただこう、と思った。どんな不細工な顔をしてても構わない、先生がそこにいて、私がここにいた、という一枚の証の写真を、私は持っていたい。それを見返すことがあるのかどうかは知らない。でも、そのたった一枚を、持って、いたい。

またひと月くらいしたら、先生の所へ行くつもりだ。別に何をしに行くわけでもなく。先生にまたお味噌汁と昼ご飯を作ろう。で、一緒に食べよう。先生はもう食べることに興味も気力もなくなった、と言っていたが、別にそれでも全然構わない。誰かが同じ空間にいて、時々向き合って言葉を交わしたり、一緒に何かを一口でも食したり。そういう、多くのひとたちが「当たり前」に為しているんだろう「日常」を、先生にもっと味わってほしい。今の家族を私が得、戸惑いながらもそれを育むことを自分の為すべきことと私がしているその礎には、先生がいる。
先生はいわゆる「日常」から切り離されてしまったところで生きざるを得なかったひとだけれども、日常を当たり前に為すことがどれほど困難で言葉通り当たり前でなんてないのかを、だからこそ先生は痛いほど知ってる。
そんな先生はやがて、近い将来、死ぬ。その死を十分に先生が死ねるように。私は私が思いつく、私にできること、を、ひとつまたひとつ、為していこう。

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