にのみやさをり「カミーユ彫刻を想う」

カタログを見ると1987年とあるから、私が十七の時である。私はその年、はじめて、カミーユ・クローデル彫刻に触れた。
はじめて彼女の彫刻を前にしての第一印象は、なんて内へ向かう彫刻なのだろう、だった。内へ内へ内へ。ひたすらに内へと彫刻のエネルギーが向かっている。静謐な、怖いほどに静謐なその像たち。外側へ向かう声などひとつたりとも持ち得ていないかのようなその姿。それは恐ろしいほどの。
見入ってしまった。というより、会場を回りきるのに、私は当時の全エネルギーを使い果たさねばならなかった。会場を出る頃にはエネルギーを使い果たした反動で、私のありとあらゆる神経が逆立って波立って粟立って、私の精神はいつも以上に激しく波打っていた。
私をそれほどに魅了したカミーユ・クローデル彫刻とは一体何だろう。そもそもカミーユ・クローデルとはどんな人間なのか。
私は当時、可能な限りのカミーユ関連の書物を買い漁り読み漁った。

ロダンのことは知っていた。当然だ。教科書にも出てくる。美術館へ行けばあちこちで見ることもできる。でも、彼の彫刻には私は別段感動を覚えなかった。ふうん、くらいだった。日本近代彫刻の父、としてロダンの名前が出ても、分かるようでいて、でも、納得がいかないなあ、くらいにしか思っていなかった。
カミーユの展覧会のカタログを読んで私は、カミーユがロダンの愛人として知られた人だということを知った。愕然とした。ロダンの彫刻と言えば、強烈に外へ向かうエネルギーを感じる彫刻というイメージが私にはあったからだ。
この、ロダンとカミーユのそれぞれの彫刻から私が受けた印象の異なりは? 一体何? 私の中にその、疑問が一気に膨らんだ。
それ以降、折に触れてロダン彫刻とカミーユ彫刻について、私はあれやこれや比較するようになった。

大学に入り、私は美術史を学ぶようになった。日本美術史、東洋美術史、西洋美術史、映画史、美学、演劇学、音楽、などなど。その中で私は西洋美術史を専攻した。それは、カミーユ彫刻についてもっと自分なりに見つめたいと思ったからだった。
カミーユ・クローデルという名前を出すとすぐ、誰もが「悲劇の女流彫刻家」「ロダンの愛人」と言う。確かに彼女は晩年精神病院に閉じ込められ、そこで孤独なまま亡くなった。病院に入ってからというもの、ロダンに自分のアイディアを盗まれるという被害妄想にとりつかれ制作活動を一切拒否し、食事も病院食ではなく自らジャガイモを料理し食したと記録にある。ロダンの愛人であったという点でも、否定はしない。でも、「悲劇の女流彫刻家」で「ロダンの愛人」だったからといって、彼女の彫刻作品が正当に評価されないのはおかしい。いやいや、その程度のものなのか? カミーユ彫刻は評価されない程度の代物なのか? どうなんだろう?
あれやこれや考えた。考えて考えて。でもいつも私の心の奥に、カミーユの彫刻がひっそり、佇んでいた。

卒論で、カミーユ彫刻と日本近代彫刻との関係について触れようと決めて、論を仕上げるためにもパリへ行こうと決めた。自分のいっとう最初に感じたあの違いを確かめに行こうと思った。内へ向かう彫刻と外へ向かう彫刻。カミーユとロダン。

パリへ着いて一番にともかくロダン美術館へ向かった。ロダン美術館の入口近くに立ってぞっとした。悲鳴が聞こえるように思えたからだ。館全体が叫んでいた。ぎゃあぎゃあとありとあらゆる言葉を叫んでいるようで、私は思わず耳を覆った。
恐る恐る部屋に入ると、やはり外にまで滲みだしていた悲鳴はロダン彫刻によるものだと確信した。ロダンの彫刻はそれほどに外へと叫び出す彫刻なのだと。像の大小に関わらず。像に込められた声が、外へ叫ぶ声なのだ、と。
ロダン美術館の真ん中あたりに、小部屋があり、そこがカミーユ・クローデルの部屋とされていた。一歩踏み込んではっとした。声がしない。ついさっきまでがんがん耳が鳴っていたのに、この静けさはどうだろう。驚くほどの静寂。
「分別盛り」も「おしゃべりな女たち」も「波」も「ロンド」も何もかも。そこに佇む彫刻のすべてが、ひっそりと起立していた。まるで口をもっていないかのよう、声をもっていないかのようにさえ錯覚するほどの、それは静寂だった。
ゆっくり、部屋を廻った。何度も廻った。私も一言も発することなく、ただ、じっと、彫刻と向き合っていた。

ロダン美術館の庭に出て、館に背を向け、じっとこの、声の違いを思った。

周知のとおり、ロダン彫刻は、日本近代彫刻の父と言われている。確かに発端は、日本近代彫刻の、その発端は、ロダン彫刻にあったのかもしれない。しかし。
後に彼らは自ら、ロダンから離脱していく。確かそんな宣言もあった記憶がある。あれは何故だったのか。何故わざわざロダンからの解放を宣言しなければならなかったのか、彼らは。
そしてその後彼らが向かった先は。まるでカミーユ彫刻の辿った道と重ならないか?

私はパリに滞在している間中毎日、ロダン美術館に通った。カミーユがロダンの工房で働いていた頃、日本の作家たちがロダンのアトリエを訪ねて来ていたが、カミーユと会ったという記録は残っていない。そもそも彼らはカミーユ彫刻を当時知っていたのかといえば、そこにも疑問は残る。直接カミーユの作品に触れた記録など残っていない。でも、たとえば高村光太郎が彫刻から工芸へ、詩へと変貌を遂げたように、日本近代彫刻家たちはこぞって、ロダンの彫刻を否定し放棄し、しんと静まり返る作品たちを次々生み出すようになる。
きっかけは確かにロダンだったのだろう。だからそういう意味でロダンは日本近代彫刻の父なのかもしれない。でも、ロダン彫刻が父ならば、カミーユ彫刻は母なのでは?と私には思えてしまうのだ。彼らがロダンの彫刻を放棄してその後辿りゆく道が、何度も言うが、カミーユの彫刻世界に近しいものに思えて仕方がないのだ、私には。

もし。
カミーユが精神を患わなければ。もっと作品を長く制作し産みだし続けていたならば。どうなっていたのだろう。もちろんそんな仮定の話、何の意味もないということは知っている。それでも私は夢想せずにはいられなくなることが、ある。
もしも、もしも、と。

この地図はパリ滞在中使っていたもの。地下鉄に乗るより歩いて出歩くことが多くて、新しい道を歩くたび、そこを蛍光ペンで塗りつぶして使った。滞在が終わる頃には、パリ市内ほとんど、蛍光色に埋まっていた。

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